”楽しむ権利”は実在するのか?
今現在、市場には各ハード対応の「データ改造ツール」が売られている。PCのゲームにいたってはオンラインでDLできるものもある(無論、メーカー非公認品であることはいうまでもない)。これらは何をするものかというと、「ゲームのデータなどを改ざんして、そのゲーム内にあり得ない現象を意図的に起こす」ものである。例えば、RPGなどで最初から最強の装備を持っていたり、STGなどで自機が無敵になったりと、「ゲーム本来のバランスを崩す」効果、つまりゲームバランスからしてみればルール違反的なものが多い。 もっとも、ゲームがネットに繋がらずオフラインのみの時代なら、こういったものは「個人の自由」であり、他人のゲーム内容に影響を及ぼさないものであるから、なんら問題はなかった。 が、しかし、世はオンライン時代に入り、通常のプレイでさえ多少なりとも他人に影響を与えることが容易に起こり得るようになる中で、当たり前のように上記のツールを使って改ざんしたデータでオンラインに繋ぐ人間が出始めたのである。 私が日頃遊んでいるネットゲームでも同様で、そのゲームの公式掲示板では、メーカーがその不正行為についての発言規制をかけるまでは論争が絶えなかったものだ。 その不正容認論者と否定論者の論争において、容認側が支持していた意見は、たいがいは周りを見ない自己中心的なものが多かったが、その中に「権利の主張」があった。 内容はおおまかに『ゲームシステムやバランスが「ゲームを楽しむ権利」を侵害しているので、自らの権利を守るため不正に手を出している。』というもの。 かなり前置きが長くなったが今回は上記の「楽しむ権利」というものについて、語っていきたい。 さて、まず最初に「権利」とはどのようなものか。ここいらへんを書き始めると確実に法律哲学や法精神の方にいってしまうので、はしょる。ただし「権利」は往々にして侵害された場合、「損害賠償」というものが生じるものである。不正容認論者が権利を主張しているのは、そのゲームバランスや確率が「権利侵害」だと声高にいっているわけだから、当然メーカーに対して言っているのであろうと予測される。 ここで、ゲームをバランスやシステムも含め「メーカーの著作物」であるとした場合に、著作物の観点で「楽しむ権利」をみてみよう。 「楽しむ権利」が実在するならば、当然、著作物は購入者に対して「楽しませる義務」が発生するわけで、購入者が「楽しめなかった場合」に「楽しませる義務の不履行」をして、購入契約の解除もしくは賠償を請求できるはずである。 が、現実に裁判所に申し立てしたところでおそらくは受理されないだろう。なぜなら『「著作物」に対する個人の意見はその人間により千差万別であろうから、そのような第三者的判断のできないものに対し権利を設定できない』からである。 仮に、Aなる人物がある著作物Bに対し、「楽しむ権利」を主張し裁判所がそれを認めたとしよう。そんなことをすれば、「司法の平等」の元に全国のBの購入者は購入した代金の変換もしくは賠償金をもらえることになってしまう。 どんな著作物であれ、そんな「権利」を認めたら出版業界・ゲーム業界・映像業界などの著作産業は潰れてしまう。判決のための判断が、全て原告の意志だけに頼ってしまうのなら、楽しむだけ楽しんで最後に「楽しくなかった」なんて裁判所に行ってしまえば金が戻ってくるのだから。そして、判決が認めれば最後、全ての同著作物の売り上げはゼロだ。そんなバカな話が世間に通用するはずがない。 また、「著作物」から離れて少し視点を変えて、同じ「ゲーム」である野球の例でみてみるとしよう。 バッターが経験不足や相手バッテリーの絶妙な配球からまったく打てなかったとして、バッターが審判に対して「俺にも”打つ権利”があるぞ」と主張すれば、それは「当たり前の権利」として通るものなのだろうか? また、それに付随してピッチャーはバッターに対して「打たせる義務」があるのか? もちろんそんな論理が通るわけがない。まったく理不尽でバカな話だ。 打つ打てないは個人の能力や運の結果であり、それが上手くいかないから権利の侵害だという論理は「ゲーム」の世界においてもとうてい適用されるものではない。 以上のことより、結論として、「楽しむ権利」は、単なる”「権利」という言葉の乱用”(しかも屁理屈っぽい)であり、実在しないものである。 無論、もし権利が実在したとしても、ルール破って良いかはまったく別の話。 |