「おはよう」
「あ、ちゃんと今日は起きたのね」
「おう」

 心配していたような頭痛もなく、快適な目覚めを得ることができた。
 前日の寝不足もあって、だいぶぐっすりと眠れたようだ。
 そのおかげで体もいくらか軽い。

「絶好調だ、ほらほら」

 と、腕をぶんぶんと振り回してみる。
 
「はいはい、よかったね。いいからさっさと朝の支度してね」
「人の絶好調を祝福しようという気はないのか」
「ないよ」
「ぐぬぅ…」
「はいはい、時間ないから早くしてねー」

 冷たい女だ。
 だが、あんまり絡んでると時間がなくなるのも事実だった。
 とりあえず云われた通り、退散して洗面所に向かう。
 
「あ、弘耶」
「んごぁ?」

 洗顔中に遠くから美月の呼び声。
 顔を上げるのも面倒くさく、洗面器に顔をつけたまま返事をする。
 
「昨日の女の子にもう返事はしたの?」
「ぶごぁっ!!」

 大量に鼻に水が入った。
 その様は相当滑稽なコントの一幕のようだったと自負できる。
 今のはなかなか数字が取れそうだ…って、そんなことはどうでもいい!

「な、なんでお前がそんなこと知ってるんだよっ!?」

 慌ててダイニングへ怒鳴り込む。
 とりあえず朝食の準備はされていたので、それを摂りながら論争を進めることにした。

「なんでって…居たよ、あたし」
「へ?」
「一緒に家出て、一緒に学校行ったじゃない」
「うわっ、そうだった!」

 俺は阿呆だった。
 その日は朝以外、美月に会わなかったから、居たことすらすっかり忘れていた。
 いや、まず忘れるな俺。
 朝だけといっても、美月は莉依ちゃんと一緒に追いかけまわして来たじゃないか。

「はぁ…馬鹿ね」
「ああ。俺もかなり痛感していたところだ」
「で、どうなのよ? 返事は」
「あ…えと、その」

――俺の態度があまりにも煮え切らないのでお友達からはじめましょうという事で落ち着いた――

 ……うわ、カッコ悪っ!
 これは俺の尊厳を守るためにも云うべきではないと思った。

「ごちそうさま」
「ああ、もう! そうじゃないでしょ?」
「時間だ。遅れるぞ」

 渋めにそう云って腕時計を見る。
 時間は…かなり余裕があった。

「まだまだゆっくりできる時間だけどー?」
「時間ないから早くしてね、と云っていたのは何処の誰だったか」
「あれは弘耶がモタモタしてたから、そうでも云わないと動かないなー、と思って」
「それはそうだが」
「で、返事は?」

 こいつ、意地でも聞き出す気か。
 特に隠す必要のある話ではないが、でも云わないで済むなら云わないでおきたい。

「ねぇ、返事ー」

 云わない、では済まないらしい。くそぅ。

「俺の態度があまりにも煮え切らないのでお友達からはじめましょうという事で落ち着いた」
「え…?」

 呆気にとられたように美月が硬直したので、同じ言葉をもう一度繰り返した。

「俺の態度があまりにも煮え切らないのでお友達からはじめましょうという事で落ち着いた」

 まだ続く美月の硬直。
 …?
 
「か…」
「か?」
「カッコ悪ぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
「だぁぁぁぁぁぁぁ、うるさいっ!」

 それは自分でも良く理解している! 理解しているから!

 そんなに大声で云わないで欲しかった…他人に云われると、より格好悪い。
 俺はこれ以上の糾弾を避ける為に立ちあがった。

「ちょ、ちょっと弘耶! まだゆっくりしてても…」
「学校だ。学校が俺を呼んでいる!」

 出発の支度を手早く済ませ、逃げるように玄関から飛び出す。
 程なく美月も追うように出てきた。

「早く、早く学校へ行こう!」
「ちょっと、待ってってば…!」
「学校よ。待っていろ、すぐに行く」

 そう呟くと、美月の返事を待たずに駆け出した。
 …特に急いでいるわけでもないのに、毎朝全力ダッシュしているのは何故なのだろう、と考えながら。

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「到着だ」
「はぁ、またゆっくりできない朝だったよ…」
「タイム・イズ・マネーだ」
「それでも朝くらいはゆっくりさせて」
「俺もゆっくりしたい」

 心底そう思った。

「走る羽目になる要因は、絶対弘耶のほうが多いよね」
「そうだったか」

 美月の云う通り、去年度の分も数えると俺のほうが分が悪いかもしれない。
 だがしかし、今朝のダッシュの要因は美月、お前だ。
 …
 ……いや、俺かもしれない。
 というか、俺か?

「今朝は俺とお前、どっちに原因があると思う?」
「弘耶」

 即答だった。
 そして俺も特に異論は無かった。
 
「俺、カッコ悪すぎ」
「うん、カッコ悪いね」

 改めて他人からそう言われると少し傷つく。
 少々いじけながら昇降口へと歩き始めていると、後ろから嫌な気配を感じた。
 別に長い付き合いではないが、この気配が誰かはすぐにわかった。

「せんぱ〜〜〜いっ!」

 ひしっ

「だぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「お・は・よ・う・ございますっ」
「お、お、おはよう」

 彼女の襲撃を許してしまった俺は、立ったままにして後ろから抱きすくめられる格好になっていた。
 時刻は予鈴より十分ほど前。
 いわゆる登校のラッシュアワーと云える時間帯だ。

「今日も一日、先輩のために頑張りますよ〜」
「頑張らんでいいっ!」 
「んもぅ、い・じ・わ・る〜」

 痛い。視線が痛い。
 横を通りすぎる生徒達で俺達のことを目に留めない者など居ない。
 次々に投げかけられる冷ややかな視線。
 多分そのうちに殺気も投げかけられるんじゃないかと考えると、かなり泣きそうだった。

「とりあえず離れてくれ。まずはそれからだ」
「はぁーい」

 返事のあと、肩からすっと重さがなくなった。
 振り返ると莉依ちゃんが満面の笑みでこちらに向かって立っていた。

「改めまして、おはようございますっ」
「ああ、おはよう…」

 元気いっぱいで本日二度目の挨拶をする彼女。
 俺はといえば、もうすっかり疲れきっていた。
 …帰りたい。 
 そう思いながら、ふと横を見るとそ知らぬ顔で美月が通りすぎようとしていた。

「ちょっとまて美月! 他人のふりをするなっ」
「あら、神條君じゃないの。おはよう」

 こちらの必死の救援要請に、さも軽い付き合いの友人であるかのように振舞う美月。
 いや、まあ、この騒ぎっぷりを見たら他人のふりをしたい気持ちもわからないではない。
 
「くっ、この俺を見捨てるのか…」
「あああー残念。遅刻しちゃうわー」

 言うが早いか、あさっての方向を見ながら美月は逃げていった。
 くそぅ、いつか報復してやる。

「せんぱーい、何してるんですか?」
「いや、別に」
「じゃあ早く校舎の中に入りましょう。遅刻しますよ?」

 ……とりあえず道理は心得ていてくれるようだ。
 予鈴が鳴るまでこの場所で延々とトークを要求されたりするのかと思っていたが。

「はやくぅ〜」
「ああ、わかったわかった!」

 だから腕を組んでくるのはやめて欲しい。
 そもそも「お友達から」とかいう公約はどうなったんだろう。
 この様子を見てる限り、莉依ちゃんはかなり彼女気分でいるんじゃないのだろうか… 
 
「なぁ莉依ちゃん」
「はぁい?」
「昨日さ、『お友達から』って言ったよな?」
「はい」
「腕組んだり、朝一緒に登校したりなのが、お友達?」
「はいっ、ちょっと親しいお友達ですっ!」

 ちょっとじゃないちょっとじゃないちょっとじゃないっ!!
 が、突っ込みたい気持ちを必死で抑えて、曖昧な笑顔を返す。 
 
「そうかそうか、そりゃ光栄だ。ハハハ」

 もうヤケだった。

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「ぶへぇぇぇー」
「朝からお疲れの模様ですね」
「ああ、とってもお疲れだ」  

 精神的にも肉体的にも、だった。
 正直言って、莉依ちゃんと屋上で初めて出会った翌日の心労よりも重いくらいだと思う。
 いや、悪い子じゃない。それはわかっている。
 もうちょっと落ちついてくれ。それだけだ。

「本当、朝から仲睦まじいですね」
「ごっ!」

 驚きのあまり前倒しになったせいで、思いっきり机に頭をぶつけた。
 
「み、見てたのか…」
「あれだけ騒いでいれば、登校してくるときに嫌でも目に入りますね」
「……そうだったな」

 改めて莉依ちゃんに『もうちょっと落ちついてくれ』と願った。
 無論、口に出さないその願いは届く筈もなかったが。


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 明日は土曜日。当然授業も午前までで済む。
 そして明後日になれば日曜だ。一日中ゴロゴロしていられる。
 だから、今日くらいは最初から最後まで授業に集中してもいいなと思う。
 かといって、普段は全く集中していないとかそういうわけではない、多分。

―――え〜、だからこの式の解法は…でして。これを代入して答えを導き出すわけですが、この場合に使う公式が―――

「…ふぁぁぁぁ」

 集中したところで、難解な教科担任の声は右から左へとすり抜けていく。
 これは自然の摂理なのだ。
 だから『ああ、今日はいつもに増してあの数学教師は疲れた顔をしているなぁ』とか。
 『動きが緩慢でもう年だなぁ』とか、そんな失礼なことを考えても問題はない。
 そう、問題はないのだ。

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「ふぅー、終わったっ」

 席に座ったまま、欠伸混じりに伸びをする。
 退屈な授業が堪えたのか、体中がミシミシいっている。

「なんか、今日の数学の授業は見てて心配だったな」
「先生のことですか?」
「ああ。なんか相当お疲れみたいだな」
「そうですね…最近欠席者も多いみたいですし。風邪では?」
「んーと…」

 云われて教室を見渡すと、空いた席を幾つか確認できた
 それは風邪が流行っているとするには十分過ぎる数だった。

「確かに、少し風邪が流行っているみたいだな」
「ええ。…私の家、医療関係の仕事をしているんです」
「ほぅ、それは初耳だな」
「だから風邪が流行ったりすると、忙しくなって大変なんですよ」
「家の仕事、手伝ってるのか?」
「私の腕もなかなかのものですよ」

 少し得意げに微笑む彼女。
 そういうの仕事をするには免許とかなんとかが要るような気がしたんだが、敢えて触れる事もあるまい。

「んじゃ、俺が病気になったときは宜しくな」
「前向きに検討いたします」

 うむ。医者に知り合いがいるというのは心強い。 
 それに水森の生活の片鱗を垣間見れたことも加味して、俺は意気揚々と教室を出た。

 購買に向かって廊下を歩いていると、見なれた後ろ姿――許すまじき後ろ姿を発見した

「こぉら、美月ぃぃ!!」
「あ、あらぁ〜神條君じゃないの。久しぶり」
「そのネタはもういいっ」
「あら、そう?」

 朝、俺から逃げたことを忘れたとは云わせん。
 あの場にコイツがいたならば、『ラブラブバカップル』から『朝から騒がしい集団』くらいには緩和されたかもしれないのに…

「なんで今日の朝、折角俺が助けを求めているのに逃げたんだよ」
「いや、ホラ…カップルの邪魔しちゃ悪いと思って」
「余計な気は使わないでくれ…それに、別にカップルでもなんでもない」
「あら、そうだったの?」
「……分かってて云ってるだろ」
「気のせいだと思うわよ」

 …この調子じゃ、いくら話しても埒があかないだろう。
 それに、早く購買に行かないとまた昼飯抜きになってしまう。

「覚えてろよ…コノヤロウ」
「はいはい、じゃあね〜」

 くそぅ、なんか完全に負けた気がする。
 美月の勝ち誇ったような笑顔を背にして、購買へ向かう。
 売り切れ寸前だったあんぱんを手にすると、すぐにその場を後にした。

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「あの騒ぎっぷりなら私でも逃げます」
「ぐっ、やはりそう云うか…」

 昨日のお詫び…というわけでもないが、昼食は水森と一緒に教室で摂っていた。
 別にわざわざ他の場所へ食いに行くほどでもないし、そんな宛も無い。
 よって、安住の地である教室で食うのが一番正しいと思ったわけだ。

「大体、神條さんは押しが弱いと思いますよ」
「…そうか?」
「彼女に流されてません?」
「そ、そうかな?」

 確かにまぁ、そんな気もしないでもない…いや、完璧にそうだと思う。
 昨日の『付き合ってください』だってそうだし、そもそも屋上での説得だってそうだ。
 
「うぅむ、そうかもしれん」
「そう思いますよ」
「なんていうか…恋愛沙汰って苦手なんだわ」
「そうなんですか」

 自分にはそういう恋愛の感情が乏しいんじゃないかと思うときがある。
 人としての『好意』は抱くことがあっても、異性として誰かを思うということはあっただろうか?
 埋没している記憶を幾つか掘り起こしてみる。
 …見つからない。

「なんか俺って、恋を知らないウブな小学生みたいだ…」
「落ち込みますか?」
「うん、まあ、多少はな」
「でも」

 いつの間にか弁当を食べ終わっていた水森は、空になった箱を布袋に収めながら云った。
 ふと気付くと、俺の手の中のパンもいつの間にかあと一口程の大きさになっていた。

「百戦錬磨の神條さんも、それはそれで嫌ですし」
「違いない」

 恋愛ゲームの主人公よろしく、女の子と見れば声をかけまくる自分を想像してみる。
 …どう考えても似合わなかった。

「深く考える必要はないですよ。有り体な言葉ですが、神條さんは神條さんらしく振舞えばいいと思います」
「ああ、そうだな。そうするよ、ありがとな」
「いえいえ」

 俺のその返答を聞いてにこりと微笑む彼女。
 どちらかというとそんなに深く悩んではいなかったのだが、些細なことでこう云った真剣な助言をくれる水森の心遣いの方がありがたかった。
 いっそ、この気持ちが恋になるなら、それはそれで面白いかもしれない。
 そんな云ってて自分でもアホらしくなるようなことを考えながら、パンの最後の一切れを放り込んだ。
 
-------------------------

………
……



 活発だった太陽が、やがて来る夜にその権威を脅かされ始めた頃、その日の退屈な授業に終わりを告げる鐘が鳴る。
 それはいつもと同じ音で、淡々と、校内に高らかに響く。
 
「ふぃ〜今日も終わり」

 六時間目の担当教師が教室を出ると同時に、俺も嬉々として立ち上がる。
 一日の学業から解き放たれるこの瞬間の開放感が、俺は密かに好きだったりする。

「なんか、一日が終わったときの神條さんって親父くさいですよね」
「んー、そうか?」
「今に限らずとも、時々そんな感じのときがありますよ」
「そうかな…」 

 むぅ…今日は小学生級だったり親父くさかったり、非常に忙しいぞ。
 俺には年相応の一面は無いのか。

「語尾とか仕草とかそういうのが、ちょっと」
「むぅ」
「別にそれが悪いって云っているわけじゃないので、気にしない方がいいですよ」
「了解した」
 
 敬礼をするようにおどけてみる。
 少し微笑んで、水森も控えめに手を敬礼の位置に持っていく。
 気恥ずかしさと滑稽さに失笑しながら、そのまま回り右をして教室を出た。

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 冷たい風が頬を打つ。今は春。
 一時は気にしていた不定な気温も、今は気にならなくなっていた。
 
―――気にならなくなっていた―――

 …誰もこの気温について疑問を持たないのか?
 日付上はどう考えても春の筈。
 それなのにこの気温。
 雪の降ったあの日ほどは冷え込まなくなっているが、それでも春の暖かな気候には程遠い。
 冬――とまではいかなくても、秋の…それも晩秋の気候じゃないんだろうか。

 周りの人々、テレビや新聞等のメディア、誰もこの気象に疑問を持たない。
 せいぜい『寒いね』の一言どまり。
 …おかしくないか?

 雪、街、少女…
 この状況に、オーバーラップする人物があった。
 彼女自身が醸し出す雰囲気と、彼女の言葉と。
 それは不思議とこのイレギュラーな現象を連想させた。
 そして、今見ているこの風景にも彼女の姿が重なった。

「…また逢ったな」
「ええ」
「昨日も逢ったばかりだけどな」
「約束、したから」
「ああ、そうだった。『またな』って云ってたもんな」

 よく考えれば彼女とは初めて会ってから三日ほど連続で逢っている。
 それが偶然なのか、どちらかの意思による必然なのかは分からないが。
 
「今日はどうしたの? 浮かない顔して」
「ん、ちょっとな」
「そう」

 なにが『そう』なのかは知らないが、彼女は特に関心も示さずに歩き始めた。
 それが少し悔しくて、俺は思わず胸中に溜めこんでいたことを話しはじめてしまった。

「近頃、春にしては寒いと思わないか?」
「…」
「そう思ってるのは俺だけなんだろうか、と思ってな」
「…」
「やっぱ、おかしいのは俺か?」
「…」
「なぁ!?」

 黙りつづける彼女に思わず語気が荒くなる。
 別に彼女が悪いわけじゃないことは分かっていたのに。

「…貴方はおかしくない」
「そうか?」
「おかしいのは、この街」

 …また突拍子もないことを言い出すヤツだ。
 この街がおかしくて、俺が正しい?
 そんな事態ありえない、そう思った。
 でも『この街がおかしくて、俺が正しい』というその懸念を、俺は確かに抱いていた。

「この街がおかしい、って…それは人々がってことか?」
「そうね」

 迷いなくきっぱりと云い切る彼女。
 その根拠はどこから出てくるのだろうか。

「なぁ…秋端は何を知ってるんだ?」

 答えない。
 一度顔を伏せ、少し考えるようにしてまたこちらを見た。

「弘耶…」
「あ、うん?」

 名前を呼ばれて再び彼女を見つめると、またあの透明な表情。
 その表情のままで真っ直ぐこちらを見つめて、云った。
  
「貴方がこれから”ほんとうのこと”を知ろうとするのなら、答は自ずとその姿をあらわすわ」
「…秋端はその答を知っているのか?」

 彼女はそれには答えず、さっきの文句を繰り返した。
 今度はさっきよりもゆっくりと、噛み締めるように。

「貴方はおかしくない。おかしいのは、世界…でも」

 そして、その言葉には続きがあった。

「覚えておいて、全てをおかしくしたのは、貴方」


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