今こそ裁きの時。
 ああ、再び宛がわれた日常はなんと脆く崩れやすい事か。
 やはり永遠は偽りでしかないのか。

 『因果応報』
 寂れた言葉だが、今の私にこれほど当てはまる言葉は有るまい。

 声が聞こえる。


 ―――殺せ。

 ―――神條弘耶を殺せッ!

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 台所で目が覚めた。
 夢に関してはもう何も云うまい。
 半ば慣れてしまった。
 
「…」

 軋む体をゆっくりと起こし、ダイニングに歩いていく。
 
「あ…」

 留守電のランプが点灯している。
 再生すると予想していた声が予想していたメッセージを届けた。

『ゴメン、弘耶…あたし完全ダウン…休むね…』

 無機質な機械音が日付と時刻を告げる前にスイッチを切った。
 …さて、現実を取り戻してくれる望みは断ち切られた。
 美月がいつもの笑顔で、いつものように平和を運んできてくれれば、昨日の事も夢であったと信じられるのに。
 
「どうするか…」

 まだ、俺は正気を留めているのだろうか。
 大丈夫。きっと大丈夫。
 昨日のは気にするな。朝からいろんなことがありすぎて疲れていたんだ。
 …大丈夫だ… 
 
 思ったとおり、鏡に映った顔はひどく汚れていた。
 念入りに顔を洗う、もう一度鏡を見る。
 …なんて表情してるんだろう、俺。
 玄関に脱ぎ捨ててあった制服に袖を通すと驚くほど早く出発の準備が完了した。
 特にする事も無いのでさっさと家を出る。
 朝食は摂らなかった。
 台所が散らかってそれどころじゃなかったのもあるが、なによりもう包丁は握りたくない。
 手首を見る―――薄くはあるが、まだ傷痕は残っていた。

 北風が吹いている。
 登校するには向かい風。
 さて、素直に学校へ行くか、それともバッくれるか。美月の見舞いに行ってもいいか。
 
 ………
 ……
 …

 学校には行きたくない。昨日の映像がまだ脳裏に焼き付いている
 美月には逢いたくない。今逢っても素直に会話が出来るかどうか分からない
 悩んだ挙句、結局このまま何処かへ放浪する事にした。

 といっても、辿りつく場所は決まっていた。


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「あ、弘耶…」
「ははは、来ちまったよ」
「よかった。昨日は最後、少しおかしな別れ方をしてしまったから…」
「ああ…それは俺が悪いんだ。ゴメンな」

 云いながらベンチに座る。
 ああ、ここに来るとやっぱり落ち着く…
 そして何も云わずに隣に座る秋端。
 ここは確かに聖域だった。

「ねぇ、弘耶」
「ん、なんだ?」
「…真実を、知る勇気がある?」
「それって…」
 
 頷く秋端。
 その瞳には決意の光が宿っている。

「多分、答はすごく残酷。わたしにとっても、あなたにとっても」
「…聞かせてくれ」

 迷わずそう答えた。
 何も知らないこの現状が一番残酷だと思ったから。

「…昨日、云ってた『確信のもてないこと』それを昨日の夜調べてみたの」
「え…」

 ということは昨日、別れた後で調べたというのだろうか。
 この寒い中を。

「なんか、急かしたみたいで…ゴメンな」
「ふふ、謝ってばっかり」
「う…」

 その笑顔には、ひどく心動かされる。
 心の深い隙間を埋めてくれるような、そんな感じ。

「で、続き。…ちょっとついて来て。話は歩きながらにしましょう」

 云うが早いか、立ちあがって身を翻す。
 その足は公園跡を囲う森の奥へ進んでいた。
 慌てて秋端に並ぶと、彼女は再び口を開いた。

「…わたしが今から話す事は、多分どれも信じられない事だと思う。だけど何を云っても、決して眼をそらさないで。わたしは真実しか話さないから。お願い…」
「ああ。なんていうか、今ならなんでも来いって思ってる」
「よかった」

 だから、なんでその笑顔は…そんなにも…
 俺達は森の草木をかき分け、ひたすら奥へ進む。
 方角的に戻ったりしてるので距離としてはそんなに遠くは無いと思うが・・
 もはやその方向感覚も失われつつあった。
 
「まず一つ。わたしの事」
「ああ」
「わたし、人間じゃないの」
「…不思議と驚けないもんだな」

 なんでだろう、今更『人間でない』と云われてもピンとこない。
 現実味が無くてその事実が認識できていないのか、それとも違和感なくすんなり受け入れられているのか。
 …多分後者なんだろうが。

「で…それが何か?」

 だからかもしれない、そんな間の抜けた答を返してしまった。
 俺がもっと面食らうと思っていたのか、きょとんとした表情になる秋端。

「もうちょっと驚くかと思ってたわ」
「俺の中で何が常識でなにが非常識なのか、そんなことがどうでもよくなってる気がしてな」

 全てがあやふやになっている。
 今こうして歩いていることすら、夢だと云われれば信じられる。
 日常はもう崩壊してしまった。
 俺は今、何処にも居ない。
 俺の生活を規定していた何かは、あっと言う間に壊れてしまったから。
 本当に、脆かった。
 俺が立っていた世界は、あっという間に溶けて無くなってしまった。

「―――なんでも来い、だ」
「…そう」
「あ、説明続けてくれ」
「最初名乗った時にも云ったけど、わたしは世界の咎を取り除く存在。世界に致命的な損傷を与える可能性のある存在が認められた時、生み落とされる。誰からともなく、何処からともなく」
「…」
「例えるなら、人体に入り込んだ病原体を駆逐する白血球みたいなもの」
「人体が世界、病原体が世界の咎、白血球が秋端だな。…なるほど、わかりやすい」

 この際、現実味だとかそういうのは遠くにおいておく事にした。
 ―――この世界はファンタジー
 オーケー、それでいい…何もかも鵜呑みにしてやる。
 『わたしは真実しか話さないから』そう云った彼女の言葉を信じて。

「わたしは百年前に一度生まれた」
「つっ…」

 速攻で今の決意が揺らぎそうになる。
 なかなかにヘビーな一撃だった。
 俺がこめかみを押さえるも、構わず続ける秋端。

「その時の"咎"はとある施設の研究員。その施設では、人類究極にして禁忌の研究が行われていた」
「究極にして、禁忌の研究?」
「永遠の命」
「つっ…」

 …ゴメン、秋端。
 早くも限界。
 
「わかんねぇよ。永遠の命って…そんな…」
「やっぱり、信じられない?」
「努力はしてるんだが、やっぱりそこまでくると」

 俺がそう云いかけた途端、不意に秋端の足が止まった。
 憂いた瞳で一点を見つめる秋端。
 その目線の先を追うと、大きな影が視界に飛びこんだ。

「ここがその施設。さっきの公園跡はここの中庭にあたる場所。長い距離を歩いたように思えたのはぐるっと回りこんだから」
「こんなのがあったのに…俺も、誰も気付かなかったってのかよ…」
「認識しなければ見えないもの。きっとそう刷り込まれていたのね」

 今までぽかんと口を開けっぱなしだったことに気付いた。
 いかん。また話に置いて行かれている…

「永遠の命。寿命と云う神が決めた倫理から外れかねないその研究は、生態系を壊しかねない取り除かれるべき存在だと認識された。そうしてわたしが生み落とされた。その研究を統括していた責任者を消すために」

 秋端は、建物をもう一度上から下まで眺め、ゆっくりと―――だがはっきりと云った。

「その人の名前は―――神條弘耶」


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 かつかつ

「……」
「………」

 かつかつ

「……」
「………」

 かつかつ

「……」
「………」

 廃墟の廊下を歩く硬質な音だけが響いている。
 あれから一つの会話もなかった。
 言葉がなかった。
 ただ、当たり前のように扉を開けて中に入っていく秋端についていくだけだった。

「……」
「………」

 かつかつ。
 古い施設。壁は煤けているし、途中幾つか中が見えた部屋だってガラスが割れていたり、まさに廃墟という言葉が相応しかった。
 それと、さっきから胸がムカムカする。身体が疼く。
 昨日手首を切った時に似ている、自分の身体が主の命令を受け付けなっていく感覚。
 …怖い。
 早くここを出たい俺の思いに反して、秋端はどんどんと奥へ進んでいく。
 角を曲がり、階段をくだり、扉を開け、先へ。

「神條弘耶」
「…あ、ああ?」

 突如名前を呼ばれて返事をするが、それは俺を呼ぶものではないと気付いたのはすぐ後だった。

「神條弘耶―――25歳。男。史上稀に見る卓越した頭脳を持つ、一人の科学者。彼を形容するには天才ということばしか当てはまらないと、それほどの人物だったといわれている。医師でもあり、科学者でもある彼は、ある一つのプログラムを開発した」

 まるで書いてある文章を読み上げるように淡々と話す秋端。
 
「それは人の魂を永遠足らしめるもの。脳の信号―――つまり人の知識とか、記憶だとか。そう云ったものを単純化して電気的信号に変換するシステムのこと。…それがあれば、人の記憶をバックアップして、コンピューター等にアップロードすることもできる。
偉大な科学者や芸術化の知識をバックアップすれば、まさに『生き字引』として後世への大きな遺産となると、神條弘耶はそう思っていた」

 少し早足で歩きつづけながらも、彼女は淡々と喋りつづける。
 その口調は俺を落ち着かせてくれた安らかなそれとは程遠いものだったが、聞き逃すわけにはいかなかった

「しかし、それは彼の思惑とは逆に、時の権力者にとって、神へ挑戦状を叩きつけるいい契機になった。」

 彼女は大きな扉の前で立ち止まり、俺もそれに習う。

「指令が出た。新たに建設される国家研究施設への転属。そして…永久機関の開発・実用化」
「…これが、その施設…なんだな?」
「―――弘耶」
「あ、え、俺?」

 今名前を呼ばれても、その偉い科学者の"弘耶"なのかここに居る"弘耶"なのか一瞬判別できなかった。

「この扉を開ければ、その研究のすべてが明らかになるわ。神條弘耶がここで何をしていたのか。この街で何が起こっているのか。あなたに何が起こっているのか」
「あ、ああ…それはつまりその"神條弘耶"と俺とを繋ぐものも、明らかになるってこと…か」
「ええ。だから決めて欲しいの。先に進むか、このまま帰るか」
「……」
「ごめんなさい。ここまで焦らして、あなたがここで納得して帰るわけがないのはわかってる。でも、最後はあなたがどうするか決めて欲しいの。進むか、戻るか…」
「…」

 それは秋端の心遣いと、そして謝罪だったんだろう。
 口振りからして、彼女がこの一連の出来事の一端を担っているのは確かだ。
 悪く云えば巻き込んだのも彼女だと―――真実がどうあれ、少なくとも彼女はそう思っている筈だ。
 だから、あくまで俺に選ばせると、そういう配慮なんだと思う。
 頭ではそう分かっていた。

「ぐっ…」

 さっきから胸の不快感はどんどん増している。
 身体の震えが止まらない。
 全身から汗がふきだす。
 こめかみの辺りが熱い。
 怖い。
 帰りたい。
 戻ろう。
 そう、戻ればいい。
 
「秋端―――」
「…うん」
「開けてくれ。先へ進もう」
 
 戻ろう―――置き忘れてきた真実を拾い集めに。

 君と私がいた場所へ。

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 その部屋はいままで歩いてきた場所と比べると遥かに整然としていた。
 印象としては病院に近い感じの―――消毒液のような、あの臭いすらも微かに感じる。
 ひょっとすると、今でも使えそうなくらいじゃないだろうか。
 秋端に続いて、俺もその部屋に足を踏み入れた。

 途端、

「ぐっ…がっ…!?」

 一歩そこに入ると、不快感は一層強くなって波のように押し寄せてきた。
 まるで境界を越えたように。
 来ては行けない場所に来てしまったように、俺の中の何かが、激しくこの場所を拒絶する。

「うぁぁぁ…」

 身体が…震えなんてもんじゃない、痙攣のような。
 その場に膝をつく。動かない。手が。足が。
 神條弘耶は、もう完全に俺の支配から離れていた。

「…弘耶?」

 俺の異変に気付いた秋端が駆け寄ってくる。

「!!!!」

 突如沸き起こる殺意衝動。
 
―――ころせ
 
 床にひっくり返ったトレイ。その横にメスが転がっている。
 
 ―――ああ、なんて運のいい。
 
 違う。やめろ。

「どうしたの、弘耶!」

 だめだ、近づくな。
 もう少し近づいて。
 邪魔を。
 邪魔をするな。

 ―――近づくナッ!!!

「あああああああああああ!!!!!」

 まるで自分の声じゃないみたいな叫び。
 暗転する世界。
 肉を切り裂く確かな手応え。
 悲鳴。
 滴る水音。
 なきごえ。

 今、初めて知った。
 いや―――とっくに知っていた筈だった。
 そう、俺は、知っていた。

 血が、こんなにも赤いものだったことを。