再び意識がシフトする。
 神條弘耶。
 
 そう、俺は神條弘耶。
 
「あ…」

 眼を開くとそこには真っ白な天井。
 俺は病院のベッドのような、白いシーツの上で寝ていた。
 寝転がった姿勢のまま、首だけをぐるっと回す―――何も無い部屋だ。
 電気は消されていたが、月の光は周りを確認できるほどに明るかった。
 ベッドと、ドアと、何も乗っていない事務用の机。
 そして窓。カーテンは引かれているが、外の様子くらいは確認できる。
 ―――今は夜らしい。
 
 と、そこまで確認して、耳の横を撫でる吐息に気付いた。
 ―――ヒトの温もり。

「あ、あき…は?」

 俺の横で安らかに寝息を立てる秋端。
 随分と疲れているらしい。俺が身を起こしても全く起きる様子がない。
 ………
 ……
 …!!!

「秋端ッ!」

 そうだ…俺は…あの時、メスで…!
 
「おい、秋端! 大丈夫かッ! おい!!」
 
 寝てるのもお構いなしで体を揺する。
 何度も何度も名前を呼ぶ。
 焦りと苛立ちで声を荒げ始めた頃、彼女は目を覚ました。
 
「…弘耶?」
「あ、ああ。弘耶だ」
「よかった…目が覚めたのね」
「いや…それは」

 お前の台詞だろう、と云いかけたが秋端の顔を見て言葉を失った。
 
 ―――悲しそうな表情だった。
 
 いつもは冷たさすら感じるその完成された容貌から、無機質な印象を受ける。
 現実感すら感じられない、そんな彼女は「透明である」と、無理やりに形容していた。
 それ以外に当てはまる言葉が無かったから。 
 無色であることに意味なんて無いと思っていた。
 むしろ、無色透明であることから、感じられる非現実感、俺はそれにただ依存していただけだった。
 目の前に次々現れた非常識な現実を、彼女に押し付けていただけだ。
 厄介な非現実を、現実に存在しながら限りなく非現実である彼女に重ねて、納得できる事象に変化させる。
 俺は彼女に対してそんな役割しか求めていなかったんだ。
 
 ―――自分が、ひどく嫌になった。 
    
 透明な雫は光を反射して様々な色に変わる。他の物と交わることなく、ただ純粋に。
 それは、幻想的でも非現実でもなく―――限りなく現実的なんだ。   
    
「ごめんなさい、わたしのミスだった…もっとちゃんと…ごめんなさい…」 
「秋端、無事なのか…?」
「それを聞くのは…わたしの…方で…」

 泣いている。
 秋端が泣いている。
 そこまで聞いて気がついた。
 俺の首に巻かれている包帯。
 
「…俺が切ったのは、自分の首?」
「部屋に入って、急に弘耶が苦しみ出して、それで…」
「なるほど」

 またやってしまったというわけか。
 湧き上がった殺人衝動は誰にでもなく、俺自身に向けられたものだと、そういうことだ。
 …情けない。 
 
「実は昨日の夜も似たようなことがあった。自分で手首をな、その…切り落とそうと」
「え…」

 袖をめくってまだ残っている傷痕を見せると秋端は痛々しい顔をする。

「やっぱり…恨んでいるのね」
「え…」
「弘耶、わたしの眼を見て」
「ちょっと…あ」

 顔を思いきり近づけられて戸惑う。
 別に顔を近づける程度で戸惑うほどウブではないつもりだが、ここがベッドの上ということもあって、いささか戸惑う。

「ゆっくり思い出してもらいたかったけど、時間がないみたいなの。真実を知りに行きましょう」
「お、おお」

 そこまで来て、さっきまで見ていた夢の…いや、夢―――ではない、ような。
 とにかく"科学者・神條弘耶"の映像を思い出した。
 …秋端、がいたよな…?

「なぁ、秋端」
「何?」

 見れば秋端は布団から降りて、床に散らばった包帯の片づけをしていた。
 ああ・・俺の血か。

「俺って、"神條弘耶"なのかな?」
「何をいきなり言い出すのよ」
「ああ、そうじゃなくて…さっき云ってた、科学者の」

 そこまで云うと冗談っぽく笑っていた秋端の顔が真剣なそれに変わる。

「どういうこと?」
「いや…さっき眠っていた中で、夢…じゃないんだろうけど、"神條弘耶"として…この施設で色々な実験してて、それが恐ろしく残酷な実験で。『永遠の命』っていうのかな。それを作るのに、材料としてヒトを解剖して、そのパーツを組み合わせて…」

 実験室の映像が脳裏に蘇る。
 ただ単一の赤。
 血の色。

「そこで、"神條弘耶"は君と出会った―――」
「…」
「これってなんなのかな…例えば、妄想…とは違うな。とすると失血による幻覚…」
「…」
「なぁ、秋端」

 尋ねる前に、彼女は俺の方を見つめ、ただ一言云った。

「行きましょう」

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 其処はさっき俺が自らを切った場所だった。
 蘇る不快感を必死で押さえこんでその部屋を観察する。
 秋端がスイッチを入れたのか、大型のコンピューターらしきものが音を立てて起動している。
 
「観て」

 秋端が示したのはそのコンピューターのディスプレイだった。
 画面一杯に走る大量の文字を目で追う。

「これって、研究の記録じゃ…」

 さっきの記憶の中で見た覚えがある。

「貴方の研究記録よ、神條弘耶」
「…」

 そこには、数え切れないほどの人名が羅列してあった。
 そして、ここの研究施設が何故建てられたのかを考える
 …
 ……
 つまり、そういうことだ。

「神條弘耶が殺してきた人々の名。作った人の名。それがすべてここに記されているわ」
「…見知った名前がある」
「ええ、貴方が少しの間、共に暮らしてきた人々ね」

 クラスの友人、学校の教師、おおよそ思いつく限りの知り合いの名は全て記されていた。
 確認はしていないが、恐らくこの街に住む人々の名が…

「"神條弘耶"の記憶が見られたのなら、この意味がわかるはずよ」
「ああ、わかる」

 この街は研究の<素材箱>だったということだ。
 実験用に作られたオモチャの街。
 人は偽者。
 俺が―――私が―――神條弘耶が作った未完成の"永久機関"

「……」

 何も言葉が出てこなかった。
 今まで共に暮らしてきた、友人達が、街ですれ違った人々が、すべて作られた偽りの―――
 
「あれ…?」

 『共に暮らしてきた』
 どう云う事だ!?
 俺が科学者・神條弘耶だとして、どうして幼い頃からこの街で暮らしてきた記憶があるんだ?
 何より俺―――私はあの時、行き場のない世界に別れを告げて…

「俺は秋端と一緒に死んだ筈じゃないのか?」
「…」
「秋端がここに居るのは、また咎が生まれたら何処からともなく産み落とされるという君の言葉で納得できる。だが俺は?神條弘耶は生身の人間だ。今こうしてここに居るのはおかしい。」
 
 輪廻転生なんてオチはなしだ。
 幾つか矛盾が出てくるし、何より俺は"神條弘耶"ほどロマンティストじゃない。

「…まさか」

 もう一度ディスプレイに眼を通す。
 羅列された人名。
 その最後に答えはあった。

「…俺の名前」

 神條弘耶。
 …そうそうある名前じゃない。同姓同名の可能性は低い。
 
「秋端…これって…」

 縋るように秋端に向き直る。
 その表情は、見ているこっちが辛くなるほど沈痛で、俺をここに連れていることが、この事実を知らせる事が、彼女にとってどんなに辛いことであったかを証明していた。
 …こんな彼女にこれ以上辛い事実を語らせたくない。
 俺はおぼろげに残る神條弘耶の記憶をもとに、真実を予想していった。

「飛び降りた神條弘耶が発見された時、その身体はもう手遅れだった。まだ僅かに活動していた脳の機能も停止は免れなかった。それによって計画が頓挫する事を恐れた研究員の誰かが、神條の作った記憶バックアップを使用して、完全に死にかけていた脳から記憶を吸い出した…」

 黙る秋端。
 それを俺は肯定と受け取って続ける。

「神條弘耶が研究していたのは永久機関―――永遠の肉体。これ幸いとばかりに、残された研究員は未完成のこれを使って神條弘耶の復元を試みた。研究のリーダーたる神條の存在無しに永久機関の完成は有り得なかったから…」

 そこまで云って、一つ大きな息をつく。
 そして、自虐を込めて、憎々しく呟いた。

「つまり、俺は神條弘耶の代理―――複製品というわけだ」

 云った途端、どうしようもなく重々しいものが胸を一杯にした。
 …気持ちを落ち着けようにも、ディスプレイに映る事実がそれを許さない。
 神條弘耶複製の報告レポート。

 ―――2020 04/05 21:40・神條弘耶の脳記録を用いて同氏の復元を試みるも、記憶の移植には成功するも、現段階で未完成の脳媒体では膨大な氏の脳記録をロードできず。脳内に氏の記憶、及び知識が残留するも、元媒体では扱いきれないとし、凍結。計画、失敗―――

 …やたらと回りくどい云い回しで、要点が分からない。
 つまり、俺の脳の中に神條弘耶の記憶と知識はあるが、この脳じゃ膨大なそれを扱うのは無理だと、そういうことか。
 重いバーベルを持ち上げるのには屈強な筋肉が必要、例えるならそういうことだろうか。

「くそっ!」

 気持ちのやり場が無かった。
 怒り。戸惑い。哀しみ…。絶望。
 
 ―――2121 04/07 06:50・神條弘耶、原因不明なれど覚醒。本人の同行を観察するために急遽、周囲の環境を男子高校生のそれに合わせる。
付添人として同型の藤堂美月を神條の意識の補完に―――

「…これって、どういうこと、だ…?」

 さすがにここまで来ると俺一人では理解が出来ない。
 酷だと分かっていながらも、秋端に説明を求めた。

「失敗作と判断されたあなたは凍結された。あなたが目覚めたのは11日前の4月10日。始業式の日―――何故目覚めたのか、そんなことは判らなかったけど、あなたは目覚めた」
「……」

 秋端の視線は俺を見ない。
 ただ、俯いて、ゆっくり、だけど淡々と語る。
 残酷な運命を告げるのに、彼女の心は優しすぎると、そう思った。

「あなたの記憶―――子供の頃とか、日常の記憶とか、それらは全て…偽者。矛盾を無くすために脳内で『自分は高校生の神條弘耶である』と書き換えられたの。それは永久機関に組み込まれた仕掛けの一つ―――常識として定義された範疇外の出来事は全て『気にしない』ように、そう予めプログラムされているの。美月さんもそう。あなたが高校生としての生活に疑問を持たないように、その生活に現実味を持たせるために、あなたに付添わされた存在」
「な…」
「…だからなのよ、あなたの周りの人々は、必要以上にあなたに興味を抱かないし、あなたもそうだったでしょ?」

 返す言葉も無かった。
 何気ない記憶の欠落、矛盾した行動、疑問に持つべき筈だったこと。
 俺が日常だと思っていたかげがえの無い日々でさえ、偽られたものだったというのだ。
 
「…なんだろうな、俺…」
「弘耶…」

 誰かによって作られた世界の中で踊っていた道化人形。
 身の回りが全て偽りで固められた、そんな錯覚に陥った。

「不安定だ…何もかもが、判らない…あやふやだ…」

 目の前が滲む。
 道化人形でも泣く事は許されてるんだろうか。

「オレが今、嘘の上に存在しているなら…」

 俺の存在も嘘でしかないなら。
 何も求められていない空っぽの存在であるなら。
 
「俺は、何の為にここに居る?」

 答えが返ってくることは期待していなかった。
 何故なら、答えなんて存在しないと思っていたから。
 だが秋端はゆっくりと、そして迷いなく答えた。

「―――神條弘耶であるために」
「…俺は」

 神條弘耶なんかじゃない。
 科学者としての記憶はある。ただそれだけだ。
 研究のことなんか思い出そうとしても、理解不能な数式、用語だけが浮かんでくる。
 膨大な記憶の量をロードできないとはつまり、こういうことなんだろう。
 役立たずな脳。
 研究の続きを出来ない。つまり代理人は務まらない。

「俺は、誰なんだよ…」

 自己の喪失。
 それがこんなに怖いと思ってはいなかった。
 考えた事もなかった。
 自分を定義するものが喪われ、世界から切り離されていく。
 落ちていくのは深い深い闇の底…
 怖かった。
 助けて欲しかった。
 
「ねぇ、弘耶…」
「…」
「わたしにあなたの悲しみを理解しきる事なんて、できないと思うけど」

 俺がその胸に預けた頭をゆっくりと抱きながら、秋端は云った。
 俺の不安を見透かしたように。
 さながら、聖母のように。

「わたしは今のあなたが本当の神條弘耶だと思ってる。優しくて、少し変わり者で、わたしとの日々を少しでも覚えていてくれて…わたしにとって、それがあなたを定義する要素。全てがあなた」

 懐古。
 
 自分に植え付けられた偽りの記憶―――科学者・神條弘耶としての半生。 
 秋端と出会った。
 施行されない死刑宣告。
 暫くの幸せな時。中庭での会話。
 悲しい出来事があった。 
 それは思い出せないけれど、とても悲しい出来事だった。
 引き金。
 そして終幕。
 俺たちは世界から逃避した。
 
 ―――科学者・神條弘耶としての半生。 
  
 そしてその上に重ねられた、もう一つの記憶―――17才の神條弘耶としての半生。
 朝起きたら美月が居る。
 学校に行く。
 校門のところでりえちゃんに逢い、どたばた喜劇を繰り広げる。
 教室に行けば水森が居る。
 軽くちょっかいを出し、冷たくあしらわれながらもどこか幸せな気分になる。
 授業。休み時間。昼食。放課後。退屈だけど捨てたものでもない日々。
 そして、その中に秋端が居る。 
 
 ―――17才の神條弘耶としての半生。

「俺は、どっちの人間なんだ? 俺は、誰であればいいんだ?」
「―――あなたであればいい」

 俺は、俺であればいい。
 全く悩みもせずにそういう彼女の言葉には、何故か縋れるものがあった。
 信じられる気がした。

「あなたは、わたしのためにだけでも、あなたであって欲しい。それはわたしの我侭だけれども…確かな願い」

 例え偽りでも、それは僅かな俺を定義する要素。
 大切な、俺の欠片。
 … 
 俺は神條弘耶―――たとえそれが偽りでも、目の前にいるこの少女は俺を認識してくれる。
 俺がここに居ることを赦してくれる。

 だから―――俺は神條弘耶。
 多分、それでいい。

「それで、いいんだよな?」

 何がいいのか、そんな説明を完全に省いた問い掛けだったけど、秋端は何も云わずに微笑んだ。

「あなたが決めるの」

 俺の立っている場所が、世界が―――ゆっくりと形を成していく。
 そんな錯覚に襲われた。
 数日前―――教室での出来事、日常の綻び。
 そこから一気に転がり落ちるように、俺は常識を奪われ、日常を失った。
 何もかもがあやふやになり、自分が何処に立っているのかすら判らなくなり―――
 世界は、溶けてなくなってしまった。
 
 そして今。
 全てを知った今。
 俺は。
  
 俺は―――

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 旧い記憶の充満した研究所から出た。もう用は無かったから。
 身体にこびりついた死の臭いを洗い流すように夜風が吹き付ける。
 森の木々がザワザワと鳴き、自然はまだ生きているということが自覚できた。
 
 多い茂る木々の隙間から、月が見えた。
 月から見下ろしたこの街は、どんな風に見えるのだろう。
 時を止めた永久の楽園に見えるか、死の荒野に見えるか。
 それとも全く別のものに見えるのか。
 ここでいくら想像してみたところで、答えは出る筈もなかった。

「なぁ、秋端、もう一つだけ聞きたいことがある」
「なに?」
「……俺の身体はどうして何も異常をきたさないんだ?」

 そう、それが一つの疑問だった。
 街に訪れた異常。
 それは未完成だった永久機関が限界を迎えた事を意味するものだった。
 滅びの刻―――それは個体差はあるにせよ、例外は無い筈だ。
 なのに、俺の身体には何も起こらない。
 
「教えてくれ」
「確証はない、もしかしたら間違ってるかも」
「構わない」

 何も知らないよりはマシだから。 

「恐らく、あなたの身体―――永久機関は、完成されているわ」
「…?」

 『完成されている』 
 その言葉の意味に最初は戸惑った。
 だってそれは、今までの仮説を根底から覆すものだったから。

「完成されているって…永久機関のことか?」
「ええ、そう云ってるわ」
「そんなバカな…だったら、今起こっていることも全て嘘になるじゃないか!」

 永久機関が誰かに―――後続の研究者によって、完成させられてたとしたら、今起こっている『未完成な永久機関の限界』というハプニングは起こっていないはずだ。
 なぜならば、完成されているんだから。

「違うわ。街で一般化されているのは確かに未完成の永久機関。だけど、あなたの身体は…」
「……」
「あなたは自分で思っているよりも研究員の人々からは好かれていたみたいよ」
「え?」

 いきなり話題が変わったように思えて、素っ頓狂な声を出してしまう。
 だが秋端にしてみれば、特に話題を変えたわけでもなかったらしい。

「あなたの再生をする時に、随分と丁寧に作りこんだみたい…使われた『人』の量が桁違いだったの」

 『使われた人の量』
 それはつまり、俺を再生するために多くの人々が犠牲になったということで…

「でも、丁寧に作られたにしろ、それは未完成には変わりないんじゃ」
「ここからは少し非現実な話になるけれど…その未完成を補っているのが―――」
 
 俺は時々訪れる胸の奥の痛みを思い出した。
 
「…まさか…」
「あなたの身体を構成する細胞があなたに敵意を持っている。あなたを攻撃しようとする意思で溢れ返っている―――あなたに永遠に苦痛を与え続けたいと思っている。だから、あなたを憎むために…あなたをずっと生かしているのよ」
「それって―――」

「そう、あなたが望んでいた『永遠の代謝活動』よ」

 殺すために生かしつづける。
 一見矛盾した行為だが、それは最も効果的な報復行為だろう。
 痛みから逃れたくとも、身体が―――その基となっている恨みの怨念が、それを許さない。
 
「…と言う事は」
「あなたは永遠に生きつづけるわ。いえ、死ねないと云うべきかしら」

 確証はないんだけどね、と秋端は付け足した。
 確証、それなら俺の中にある。
 ―――十分過ぎるほどに。

「それで正解だな、きっと」

 果てしなく繰り返す痛み。
 俺はそれに絶えていかねばならないというのか…?
 知っている人…友人もやがて死に絶えてゆくのに
 ―――いや、もう既に…
 考えたくなかった。
 
 美月が、水森が、莉依ちゃんが―――死ぬ。
 
 悲しみや絶望感より、怒りの方が先に湧き上がった。
 全てを創ったのは神條弘耶―――俺だ。
 さっき定義した俺の根底には科学者・神條弘耶という存在がある。

「ねえ、弘耶。あなたは悪くないのよ」

 俺の考えを知ってか、慰めるように彼女は云った。
 
「でも…俺は…」
「あなたは、悪くない」

 そう云われても納得は出来ない。
 俺は科学者の神條弘耶でもあると決めた以上、責任は確かに俺にある。
 この体が幾人もの犠牲によって成り立っているのだとしたら尚更だ。
 時々の激痛と狂気の衝動も、責任が俺にあることの証拠だと云えるだろう。
 
「でもさ―――」 
 
 と、俺の反論を遮るように秋端は全く別の話題をよこしてきた。

「あなたは、何人の名前を覚えてる?」
「名前?」
「そう、あなたが名前を思い出せる人間」
「…っと」

 数えてみる。
 
「秋端。藤堂美月。水森綾。佐久間莉依。……って」
 
 四人。それだけだった。
 他のクラスメイトの名前も、担任の名前も、全く思い出せない。
 
「……少なすぎる」
「それでいいのよ。さっき云ったでしょ?」
「俺の周りの人々は、必要以上に俺に興味を抱かない、俺も同じように興味を抱かない」
「だからよ、それだけ」
「でも、その四人は何故名前を?」 
 
 何気ない問いだった。
 でも彼女はその問いに答えることもなく、俯いてポツリと呟いた。

「……わたしはそれを云っちゃいけない気がする」
「そっか」

 なら俺も聞いちゃいけないんだろう。
 少しだけ胸は痛むけど、今はきっと知らないほうがいいこと。
 
 月がとても奇麗だ。
 何も知らない顔で、静寂の夜を煌煌と照らしつづけている。
 きっと何年も、何十年も前から。
 俺と秋端が飛び降りたあの夜も、あの異常気象の雪の夜も…見ていたんだろうか。
 雲の隙間から、何も知らない顔で。

 ―――無性に、腹が立った。
  
「すぅぅぅぅ…」
「…弘耶?」
   
「っっざけんなよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!!」

 よぉぉぉぉ……よぉぉぉ…よぉぉ……よぉ……
 
 月に投げたありったけの大声は、間抜けな残響を残して夜に吸い込まれていった。

「こ、こ、弘耶?」
 
 おお、驚いてる、驚いてる。
 
「届いたかねぇ」
「何が?」
「罵声」
「何処に?」
「…月」

 おお、呆れてる、呆れてる。
 秋端はわざと俺に聞こえるような大きなため息をつき、月を見上げながら云った。
   
「…届いてないわ、きっと」
「やっぱり?」
「わたしには届いたけどね。…鼓膜が破れそうになるくらい」
「やったぜ!」
「やったぜ、じゃないわよ…」
「街には…届いたかねぇ」   
「……近所迷惑もいいとこよ」
 
 そう云って、微笑った。
 
 勿論、木々に阻まれて街の様子はちっとも見えやしない。
 研究所の屋上からだったら街中が見渡せたかもしれないが。
 ―――あそこには戻りたくない。  
 あそこからは町中が見渡せてしまうから……戻りたくはない。 

 夜風が吹いた。
 温い風だった。
 いつかの夜のような、いつかの朝のような、冷たい風じゃなく。
 空を見上げたところで雪なんて降ってくる筈もない。
 季節の気まぐれ―――異常気象はとっくに終わっていた。

 今度こそ、春は来る。

 この街の人々を置き去りにして、季節だけが、また巡る。

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