目を開くと、そこは確かに自分の部屋だった。
 閉じられたカーテンの向こうにうっすらと見える日の光。
 ―――朝だ。
 
「うーん」

 おもいっきり伸びをする。そして深呼吸。
 少し温めの空気が肺を満たし、脳がゆっくりと目を覚ましていく。
 思えば、日曜日以降はゆっくり眠れるどころじゃなかったから、随分と睡眠のありがたさが実感できた。
 やがて思い出されるここ数日の記憶―――俺という存在、永久機関、作り物の街…滅ぶ街。
 
 それこそ世界がひっくり返るような体験をしてきたのに、心の中は不思議と落ち着いていた。
 全ての常識を奪い去られて、そしてあっという間に次の常識が植え付けられて。
 同じ眼を通して見る、同じ景色さえも、くるくると変わっていって。
 だけど。
 俺は落ち着いていられた。
 自分を見失わずに、確固たる"神條弘耶"として存在していられた。
 そして、きっとそれは―――
 
「すぅ…すぅ……」
「お前のおかげ、だろうな」

 ベッドで安らかな寝息を立てている秋端が居る。
 よほど疲れていたのか、ちょっとやそっとじゃ起きそうにない。
 …無理もない。
 あの日以降、混乱する俺にずっと付き合っていてくれたんだ。
 状況を少しずつ、判り易く説明して、俺の常識を再構築してくれた。
 彼女がいなかったら俺はどうなっていたか、想像も出来ない。

「ありがとな、うりゃうりゃ」
 
 ふにふに
 頬を突いてみる。一向に起きる気配はない。
 滑稽に歪んだその表情に、こちらの顔も思わずほころぶ。
 
「緊張感が、ないな…」
 
 この街は、滅ぼうとしている。滅びの悲鳴を上げている。
 なのに俺はまだ、笑っている。  
 平穏な日々を、信じきっている。
 胸を去来する、少しの罪悪感。
 
 でも俺は―――
 
 神條弘耶で在りたいと、俺は神條弘耶でいると、そう選択したんだから。 
 
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「ふぅー」

 玄関を開けて外に出ると、朝の冷たい空気が肺を満たした。
 眩しい朝日と、爽やかな風と。
 それは、日常と呼ばれた日々となんら変わらないものだった。
 …変わらないものであったかのように見えた

「あ…」

 だが、足元にあったそれは、明らかにこの朝に相応しくないもの。
 見開かれた瞳。いつか見たガラス玉。 
 動作の最中で電池が切れたオモチャ。
 奇妙な格好で地面に倒れている人形。

「……っ」

 その瞳は、俺を見つめているようで。
 彼を殺した俺を。生み出した俺を。そしてまた殺した俺を…
 何も言葉は出てこなかった。
 せめてもの詫びにと、目の前に転がった屍に向かって頭を下げる。
 そんなこと、何の意味もないと判ってはいたけれど。
 
「……俺は、神條弘耶でいたいから…」

 その人形から目を逸らして、道路の先を見つめる。 
 直線が続く『通いなれた』通学路。
 所々に点在する黒い影―――壊れた人形。
 老人。女。男。子ども。
 未完成な永久機関の仔。
 その全てに等しく滅びは訪れて、うち捨てられた人形のように、地に転がって。
 
 ―――全ての瞳は俺を見つめて―――
 
「くっ…」

 いくら縋ったところで、俺には安らぐことなんて赦されないんだろうか。
 いつまでもこの罪に囚われながら、いつまでもこの街で苦しみつづける。
 
 ―――こんなつもりじゃなかった。未完成のまま実用段階に移されるなんて、俺は思ってなかった―――
 
 そんなことを云ってみたところで彼らは俺を赦しはしないんだろう。
 
  どくん

「う…」 

 またあの感覚。
 身体の支配権が俺の手を離れていく。
 殺せ。
 神條弘耶を殺せ、と。
 湧き上がる自傷心―――自らに対する殺人衝動
 
 殺せ。
 神條弘耶を殺せ。
 殺せ。
 神條弘耶を殺せ。
 殺せ
 神條―――
   
   
「神條せーんぱいっ!」


「―――え?」

 そこに立っていたのは、俺が莉依ちゃんと呼んでいた、後輩の女の子―――佐久間莉依、確かに彼女だった。

「おはようございます、神條先輩」
 
 ぼふっ、と。
 抱きついてくる感触、まだ新しい制服の香り―――長い間忘れていた、平穏だった頃の何一つ変わらぬもの。
 よく考えればそうだった。この風も、この空も、この街の景色も、何一つ変わっていない。
 ただ変わっているのはここに住む人たちの―――

「せーんぱぁい、なんでそんなにぼけぇぇぇっとしてるんですか?」
「いや、ん、あ、おう」
「へーんな先輩でっすねぇ。でもわたしはそんな先輩が好き…キャー、言っちゃったっ!」
「……ハハハ…」

 何も変わってない。
 耳元で喧しく騒ぎ立てるこの少女は、何も…
 
「なぁ、莉依ちゃん…」
「はーい?」
「君は、無事だったのか?」
「あぁ〜、先輩ったらぁ、あたしのこと心配なんですね?そうなんですね?気にしてくれてるんですね?」

 やっだー幸せー、と俺から離れてその場でくるくるとターン。後にひらっとジャンプ。
 …というか、この娘は周りに転がってる屍が見えてないんだろうか。
 そんな訳はないだろうが、どうもこの華麗なステップを見ていると疑わずにはいられない。
 ああ、踏む!死体踏むからっ!ああ、跳ぶな跳ぶな跳ぶなっ!!
 
「…莉依ちゃん、とりあえず落ち着け…」
「あー、はい。おっけぇです」

 漸く止まってくれた。
 ニコニコ笑う莉依ちゃんと、額の汗をぬぐう俺。
 ほんの数日前は当たり前に繰り広げられていた光景がまたこうして広がっている。
 
「で、莉依ちゃん。さっきの答え…何で…」
「無事なのか、ですねぇ?」 
「あ、ああ。そう」
「えへへー」

 悪戯っ子のようにニヤニヤしながらこちらの顔を覗きこむ。
 そう、悪戯っ子―――それも、とんでもない秘密を抱えた。
 そして、そんな彼女が発した言葉は、全ての思考を飛び越えて俺の中心に突き刺さった。

「わたしは―――私の造られ方は、ちょっと違いますから」

「!?」

 空気が凍った。
 今まで俺が見ていた笑顔のままで、だけどその裏に鋭い何かを隠して。 
 
「わたしは違うんです。神條先輩。知りませんでした?」
 
 やはり、俺は幻想を描いていた。
 何も変わってないなんて、そんな馬鹿みたいなことを。
 幻想は消えてしまった。
 
「ウフフ、フフフフフッ」 
 
 グシャッ、と。
 莉依ちゃんは―――俺が今までそう呼んでいた少女は、何の躊躇いもなく足元の屍を踏み潰して。
 満面の笑みで、云った。

「―――行きましょう、研究所へ」
 
 そう―――
 
 やはり、変わってしまっていたんだ。
 
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 またここに来るとは思っていなかった。
 覆い隠すように茂った木の隙間から見えてくる建物―――永久機関の研究施設。
 莉依ちゃんは場所を知っているかのように、迷うことなくここまで歩いてきた。
 その間、一切の会話は無い。
 何か話そうとしても、ちっとも言葉が出てこない。
 彼女の周りの空気が―――何処までも冷たく、そして悲しい空気が言葉を封じるのだ。

 灰色の古い建物が姿を現した。

「わたしだって来たくなかったんですけどね、こんなトコ」

 そう云って真っ黒に汚れた廃墟の扉を開いた。
 彼女が中でドアから手を離すと、ドアがガリガリと耳障りな音を立てて閉まる。
 俺は慌ててその隙間から中に身を滑り込ませた。
 
「きったない場所ですねぇ…」 
「そ、そうだな…」 
「臭いが服にこびりついちゃいます…」 
 
 振り向かずにそう云ってアハハと笑う。
 何か大切なものが削げ落ちたような、違和感のある笑いだった。
 
「あの人は、置いてきてよかったんですかぁ?」 
「あの人?」 
「そう云って、今思い浮かぶ女性って云ったら一人しかいないでしょ?」
「―――秋端?」
「んもぅ、そこで莉依ちゃん、って云ってくれたら嬉しかったのにぃ〜」
「あ、悪い…」

 完全に、調子が狂っている。
 彼女の何かは変わってしまっている。それは判っている。
 なのに、変わっていないのではないかと思わせるような言動と仕草。
 現実と幻想の狭間でゆらゆらと揺さぶられているような感じ。
 もう、何が現実で何が幻想なのか―――
 
 折角固着していた何かが、また揺らぎ始めている。 

 扉が見えた。
 ついこの間も見た。ずっとずっと前にも見ていた。
 この建物の中で一番大きな部屋。中央研究室。
 研究のデータは全てここに詰まっている。
 その大きな観音開きの扉の前で、莉依ちゃんは振り返った。
 
「先輩、屋上に―――行っていてもらえますか」
「…屋上?」
「屋上です。場所は判りますよね」
「判る、と思う」

 この建物の中で何が何処にあるかは完全に記憶している。
 科学者であった時代はずっとここに住んでいたし、他の場所に出向いたことも殆ど無かったから。
 
「じゃあ、先に行っていてください」
「で、でも―――」
「行ってください」

 異論を挟む間も無かった。
 彼女はもうこちらを向こうともせず、一人で大きな扉を開けて中央研究室に消えていった。
 
「…くそっ」

 仕方なく俺は、屋上へ向かった。
 煤けた廊下に、あの日の廊下が重なる。
 全てが凍り付きそうなくらい寒かった、春の雪の日の廊下に。
 でも実際は、何もかもが違っている。
 真っ白だった天井は灰色に汚れ、各部屋のドアはいびつに歪み、窓ガラスにはひびが入っている。
 あの日のものと同一なのは、コツコツと響く足音だけ。
 
 屋上への階段を上ると扉が見えた。
 レバー状の扉に手をかける―――鍵はかかっていない。
 拍子抜けするくらいにあっけなく扉は開いていく。
 生温い風が耳の横を通りすぎていく―――また一つ、あの日との相違点。
 
 光が射した。
 眩さだけならまるで真夏のような太陽の光線が、幾つもの矢となり俺を射る。
 既に太陽は十分に昇りきっていて、余計なほどに世界を照らしている。
 
「本当に、余計だ…」

 屋上に一歩足を踏み入れる。
 一面に広がるコンクリートのフィールド―――それ以外には何も無い。
 いつか訪れた学校の屋上みたいに、落下防止の柵すらも無い。
 研究所に子供はいなかったし、屋上から落ちるほど間抜けな奴も居なかったから。
 ―――そもそも、屋上自体が人気のない場所だったかな。
 ずっと室内に篭りっぱなしで、太陽の下に出ることすらなかった奴も少なくなかった。
 
「不健康にも程がある…な」

 屋上の端に立つと街が一望できた。
 ―――やっぱりこの建物は高い。
 でも、いくら高かろうとも、街からはこの場所は見えない―――認識できないんだろうな。
 人々にこの建物は不用だから。訪れる人もいないだろう。
 侵されざる聖域―――にしてはいささか汚すぎる建物かもしれないが。
 もう一度街を眺めてみる。
 絶望の淵、滅びの最中にあるとは思えないほど平穏な風景。
 それは何処までも続いている。
 何処が境界なんだろう。
 永久機関の失敗から出来た人形たちの街と、母の胎内から生まれ出でて、成長し、老いて死んでいく人間の街、その境界は。
 何処までも広がる、同じ景色を見ていると、そんな境界なんて無いようにすら思えてくる。
 本当は全部悪い夢だ、なんて。
 
 扉が開く音がした。
 
「―――レポート001。神條弘耶、動作不良により凍結。やはりまだ永久機関の完成は程遠いように思われる―――」

 パラ。
 
 紙が飛んできた。降り返ると莉依ちゃんがレポートの束を持って立っていた。
 抱えたレポートの紙はまちまちで、薄汚れたものからまだ真っ白いものまでが出鱈目に混ざっている。
 
「―――レポート002。神條弘耶の残したデータを基に、残った人員で研究は続行―――」

 パラ。
 
 読み終えた部分をめくり、無造作に投げ捨てる。
 風に飛ばされたレポートは俺の足元で引っかかってとまった。
 拾い上げて目を通したけど、莉依ちゃんが読み上げたのと同じ部分くらいしか理解は出来なかった。
 記憶はあるが、知力はない、か…成る程。

「―――レポート003。依然として研究は進まず。氏の能力の高さをつくづく実感する。レポート004。研究は進まず―――」

 パラッ、パラッ。
 
「―――レポート005。研究の完成など有り得ないのではないだろうか、そんな疑念が浮かぶ―――」

 パラ、パラ、パラ、パラ……
 
 必要無いと判断したのだろうか。
 読んでもいないページを次々とめくり、捨てていく。
 風に舞う紙切れ―――茶色く汚れたレポートは、はらはらと秋の落ち葉のように。まだ白いレポートは、冬の雪のように。
 生暖かい春の風と、余計なくらい眩しい夏の太陽と。
 季節がくるくると廻りながら、混ざり合いながら、今この空間を飾り立てる―――無意味なくらいに。
 
 
 
「―――レポート094。遂に、研究が実用段階に移された、日本を中心として、全世界へ普及―――」



 ハラ。
 最後の一枚が手を離れた。
   
「以上です。お判り頂けましたか?」
「じ、実用って…」
「全世界へ普及、です。判りますよね?」 
「君は、なにを―――」

 頭が、云う事を聞かない。
 思考が完全に止まってしまっている。
 
「ワールドワイドですよ、神條せんぱい」
「―――せかい、へ」
「…これは誇らしいことですよ、自分の研究が全人類の体内に根付くんです」
「あ―――あ…あ……」 
 
 ゆっくりと、脳内で結論が形作られていく。
 答えを出すのは簡単だ。
 でも。
 俺は、聞きたくない。認めたくない。
 だって、永久機関はまだ―――
 
「完成していたら、ですけどね」
 
 世界が―――。  
 世界が滅ぶ。

「ああ…あああ…」

 やっぱり、世界はひどく脆いものだった。
   
「あぁ…なんで…なんでだよ。なんで未完成の永久機関を…」
「書類は人類の新時代の幕開けだと嬉々として記していました。その喜びが、絶望に変わるとも知らずに、です」

 コンクリートの地面に膝をつく。
 足に力が入らない。
 ゆっくりと近づいてくる足音。

「可哀想な先輩…」

 そっと抱かれる感触。
 温かい。
 
「本当に―――可哀想」

 顎に手が添えられ、上を向かされる。
 視界には、人形みたいに表情の無い顔。
 その唇が、ゆっくりと近づく。
 
「ん…せんぱ…い」

 まとわりつくような接吻。
 魂まで貪られるように、強く、強く。
  
「んむっ…っ…」

 一方的に差し出された舌を口内で受け入れる。
 温かい。
 そんなくだらない事しか考えられないうちに、されるがまま地面に倒れこむ。
 人形の顔ごしに見えた空は、やっぱり余計なくらい眩しかった。
 
「せんぱぁい…」
 
 笑っているのだろうか。
 唇の端は確かに微笑みの形になっている。
 だけど、その表情を見ても俺の心はちっとも晴れはしない。
 そう、微笑みっていうのは、もっと―――
 
 あいつみたいな。
 
 途端、のろのろと止まりかけていた脳が活動をはじめる。
 
 
「わたしは、せんぱいが好きです」
「うん…」
「せんぱいは、わたしが好きですか?」

 床に倒され、上に乗られた状態での告白。
 ひどく滑稽な状況だ。
 正しい告白がどんなものなのかは善く判らないけれど、そう感じた。

「すきですか?」

 ああ―――
 なんだか安心した。
 問題が手の届くところまで降りて来ている。
 永久機関、滅ぶ街、滅ぶ世界。
 俺にはスケールが大きすぎる話題だ。
 問題の中心にいながら、それを放棄するのは無責任なのだろうけど。
 何時までも逃げているわけにはいかないんだろうけど。
 
 ただ今は、目の前のこの少女の問題に答えることを。
 
「俺には、好きな人がいるんだ」
「あたしじゃ―――ないんですよね?」
「うん」
「……」
「ごめん」
「……えへへ」

 ―――微笑った。
 こころが、ひどく悲しくなる微笑みだった。
 
「ごめんなさい、どきますね」 
 
 そして、声とともに視界が空だけになった。
 
「さぁて…」

 俺も上体だけを起こす。
 視界に彼女は入らない。後ろから声が聞こえた。

「わたしのやりたいことはもう終わりました」
「ん……」
「行きます。どっかに」

 何処か遠くへ、ずっと遠くへ―――ゆっくりとそう付けたした。

「大変ですよぉ、これから」
「……判ってる」
「判ってませんよぉ〜」
「かもな」

 でも、頑張る。
 きっと、頑張れる。

「苦しんでください。思いっきり」
「ああ」

 足跡が遠ざかる。
 きっともう逢えない。

 扉が開く音。
 そして、扉が閉じれば、お互いに違う世界。

 互いが歩く道は―――分岐する。


「わたし、本当は―――」

 ―――本当は、弘耶なんて大っ嫌い。
 
 最後の声は、そう聞こえた。
 先輩でなく、弘耶と。
 途端に、鍵がかかっていた記憶の扉が開かれる。
 薄靄のかかった、遠い記憶だった。
 
 今更だ。本当に今更だ。
 もっと早くに思い出せていたら、気付いていたなら。
 
 俺は―――莉依になんて云えたんだろう。
 
 
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 暫く、寝そべって空を見上げる。
 考えることは本当に山ほどあるくせに、頭の中は空っぽだった。
 逃げているだけかもしれない。
 世界の滅びに対して、俺がそれを食い止めることなんてできやしない。
 ただ懺悔を。

 でも、赦しなんてどうやって請えばいいんだろう。
 誰に求めればいいのだろう。
 判らない。
 赦しを請う先、という問題だけじゃない。
 今、何をすればいいのか、それ自体が……判らない。
 
 数多く重ねた殺人。
 そして、世界を滅ぼした者。
 目の前に積まれた罪は、今にも崩れて俺を押しつぶしてしまいそうで。 
 
 恐かった。
 
 ドアが、開いた。
 
 もうここを訪れる人物は一人しかいない。
 
「―――ここに居たの」
「やぁ、おはよう」

 呆れた顔をする秋端。
 密かに俺はこの表情が好きだったりする。  
   
「探したわよ…」
「ああ、悪かった」
 
 そう云って立ちあがる。

「秋端…全部、知ってたんだな」
「……」
「世界が―――滅ぶんだってさ」
「…ごめんなさい」

 謝る必要はないんだ。
 ただ俺は君に傍にいて欲しい。
 一人じゃ、答えが出ないんだ…

「なぁ、秋端…俺はどうすればいい…?」

 俺はとても情けない顔をしているんだと思う。
 秋端を目の前にしたことで、今まで見ないようにしていた不安だとか、そういうものが一気に噴き出してくる。
 もう、判らない。 

「俺は…どうすれば…赦される?」 

「弘耶」
「答をくれ、秋端。俺は…どうすれば」

 君が俺の運命を決めてくれ。
 俺が購うべき、罪と罰と。
 秋端は首をゆっくりと横に振って云った。

「あなたが、決めるの」
「…」

 その言葉は厳しかった。
 けど、何よりも暖かかった。

「何ができるかじゃなくて、なにがしたいか。誰かの為じゃなくて、自分の為に。赦されるのじゃなくて、償って。それが…」
 
 何ができるかじゃなく、なにがしたいか。
 誰かの為ではなく、自分の為に。
赦されるのではなく、償う。

 自分の意思を持って、自分の心を持って。

「それが、生きるってことよ」
「あ…」
「自分の意思で生きて。少しくらい我侭でもいいから、苦しみながら、震えながら…それでも少しの幸せを見つけたら声をあげて笑って…」

 降ろせない十字架を背負って、幾億もの憎悪に抉られて。
 何も見えない闇の中で、一筋も光も見えない、そんな世界で…
 俺は笑えるだろうか? 幸せを見つけられるだろうか?

「そして、私はそんなあなたに何処までもついていくから」

 何も見えない闇の中で、一筋も光も見えない、そんな世界で。
―――それでも大切な人が傍にいて。
 俺はきっと、笑える。幸せを見つけられる。

「あはは…なんだ。簡単じゃないか…」
「弘耶?」

 簡単だったんだ。
 最初から迷う余地なんて無かったんだ。
 俺は最初から判っていた。

 俺は、生きていたかったんだ。

「秋端…」
「なに?」
「キスしていいか…?」

 それは、誓い。
 これから生きていくことへの、これからずっと傍にいることへの。
 至極簡単な「約束」
 彼女が頷くのを認めて、俺はその顔をそっと近づけた。
 
 幾万幾億の恨みだとか、世界の終わりだとか、そんなものをかなぐり捨てて…
 俺はただ一人の女性を愛し、これからも愛していく。
 自分の意思で、自分の為に。
 誰よりも我侭に。


-----------------------------------


 俺は、淵に立っていた。
 ただ一面の黒だけが映える、この世の淵。
 ここは俺の内面世界。

 抱えきれないほどの憎悪が向かってくる。
 俺の中で膨らんでいく。

 声は耳を塞ぎたくなるほどに大きく、太くなっている。
 だが、内面から響くそれには耳を塞ぐ事も叶わない。

 眼を開くと、幾千、いや、幾万…幾億の瞳が俺を睨んでいた。
 血走り、殺気のこもった眼。

 恨みがぶつかってくる。
 鋭利な刃物のように、俺の内面を抉り、傷つけていく。
 痛み。
 ただ俺を苦しめるために、俺にだけ向かう憎しみの刃。
 幾億の刃が、俺を切り裂き、痛め続ける。
 
 だけど―――
 
 もう何も恐くない。
 
 先に何があるかなんて、考える必要も無い。
 必要なのは今ここにあるもの。
 ここにある、たいせつなもの。
 理由なんて要らない。
  
 全部受け止めてやる。
 どんな痛みも、どんな嘆きも。
 俺にぶつければいい。
 
 この身体を永遠に食らい続けるといい。
 そして俺は永遠に苦しみつづける。
 それでいい。
 それでも俺は…

 『俺は生きていたいんだ』


 ―――なぁ秋端。
 死ぬのに許可なんていらないよな。
 無論、生きるのにも…
 命は誰に生かされてるわけでもないんだよな?
 
 誰かの為にじゃなくて、自分のために生きてもいいんだよな。
 この手で、この脚で、この心で。

 限られた命なら、その最後まで貪り尽くせばいい。
 なら、限りの無い命なら?

 答は簡単。
 いつまでも君の傍にいる。
 いつまでも二人で笑いあう。

 それこそ飽きるまで。

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 眼を開くと月と空がそこにあった。
 そして光を失った町。
 ここは全てを見下ろせる場所。全ての始まりにして終わりの場所。
 
「おはよう、弘耶」
「ああ、おはよう…」

 となりには、大切な人。

「なんでこんな所にいるんだ…?」
「寝惚けないで。それともわざと?」
「わざとだ」
「……」

 呆れ顔。

「眠っていたの?」
「まぁな…ちょっと話をつけてきた」
「え?」

 胸の奥がズキッと痛む。
 もう何を言っているのかは分からないが、いまだに響く声。
 幾億もの哀しみと憎悪がこの胸の奥に残ってる。

「秋端」
「ん?」
「秋端って、寿命とかそういうのはないのか?」
「…私は、そういう概念から外れた存在だから」

 そう云いながら頷く秋端。
 ふむ、素晴らしい。

「なら、ずっと一緒にいられる」
「え…」

 何か問おうとした秋端の唇を唇で塞ぐと、彼女はそれ以上何も聞こうとはしなかった。
 
「んんーーーーっと」

 コンクリートの大地に背中をつけ、目を閉じる。
 身体の奥の声は、聞こえなくなっていた。

 空の月が薄れていく。
 もうすぐ世が明ける。
 滅びの刻
 幾億の人々の痛みと、傷と。

 赦されない罪と。

 全て抱いて、罪の重さに苦しんで、数え切れない憎悪に傷つけられ、のた打ち回って。
 果てしなく続く痛み。果てしなく続く謝罪。

 それでも俺は生きていく。

 これからずっと、永遠に。

「秋端ってさ…」
「なに?」
「子ども産めるの?」
「な、な、なっ!!??」

 顔を真っ赤にしてのけぞる秋端。
 いや、そこまで引かなくても。

「世界が滅ぶんならさ」
「…」
「アダムとイブになってみるのもいいかもな、と」
「…バカ」

 隣にはたいせつなひと。
 最高に我侭な道のりだ。

 夜が明けていく。
 そして、新しい世界の始まり。



 朝日がやけに眩しかった。


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Diverge 


fin


this world continues next heroin...