朝。  ぼんやりと霞む視界。  その中に美月が居ないことに気がついたのは何分か後のことだった。 「…美月?」  呼びかけてみても、返事は返ってこない。  昨日脱ぎ散らかした服は美月の分だけが無くなっていて、俺の分は奇麗に畳まれていた。  …飯か?  簡単に身支度をしてダイニングを覗いてみても、誰も居ない。  洗面所やキッチンにも探してみたが、やはり同じだった。  ……先に行ったのか?  昨日の今日で流石に顔を合わせずらい、と? 「…それは俺か」  まだ寝惚けた頭でそんなことを考えながら、久々に自分で朝食を作る。  簡単な料理なのに、調味料が何処にあるのか判らず手間取ったり、皿にヒビを入れたりして、本当に美月に頼りっぱなしだった自分に気づいた。  というか、駄目人間ではないのか? ひょっとして。  美月が居なかったら朝も起きられない人間としてこれから生きて… 「……」  情けなすぎる。   -----------------------  やたらと焦げた目玉焼きをさっさと飲み込み、片付けもそこそこに家を出る。  家に一人で居ることが、なんだか無性に嫌だったから。  雨でも降りそうな曇り空がその孤独感を助長する。  朝だというのにちっとも清々しい気分じゃない。  だから早足で歩いた。  誰でもいいから人に会いたかったから。 ―――違うな。  自分の色ボケぶりに苦笑していると、学校が見えてきた。  他の生徒は見当たらない。…少し登校するのが早すぎただろうか。  そういえば朝からロクに時計も見てないことに気づいた。  おまけに腕時計まで忘れている。阿呆か、俺は…  ……でも。  教室に一番乗りというのも面白いかもしれない。  第一、美月は先に来ている筈なんだ。校舎を歩き回っていれば逢えるだろう。  そう考えながら靴を履き替え、奇妙なくらい静まり返った校舎に上がっていった。   -------------------------  「……ん」   何時の間にか誰も居ない教室に立っている。  本当に一番乗りだった。  というか、この教室どころか校舎の中に誰一人見かけない。  そもそも一体何時なんだ、今。  コツコツと教室を歩き回る自分の足音。それ以外には何も聞こえない。    立ち止まると本当に何も消えなくなった。静かすぎて耳が痛い。  分けも判らず胸が騒ぐ。  現実感が薄れていく。全てがあやふやになって消えてしまいそうになる。  …何処だ。   ―――そもそもここは何処なんだ。  学校だ。  判っている。  俺がずっと通っている学校じゃないか。  判っている。  そうだ、判っている。  ここは学校だ。俺の学校だ。    うまれたときから、ずっとかよって――― 「―――痛っ!?」     頭に刺すような痛みが走る。  そして、声が聞こえた。  静かだった世界に、暗闇が降りる。  その深い闇の淵から届く呼び声。  幾つにも重なった、大勢の呼び声が聞こえる。  遠くから、近くから聞こえる嘆きの呼び声。  声は、俺を呼んでいた。  弘耶。神條弘耶。  それは…それは確かに俺の名だ。  呼ばれている。だから行かなければいけない。  俺は弘耶だから。  神條弘耶だから。  呼ぶ声はまだ聞こえる。    ―――大丈夫だよ、弘耶。 「あ―――」  よく通る誰かの呼び声を最後に、世界に静寂が戻った。  どうやら無意識に目を閉じていたようだ。  真っ暗なのも当然じゃないか。  苦笑しながらゆっくりと目を開ける。 「おはようございます」 「ん、んん?」 「おはようございます、神條さん。水森綾です」 「え? あ、あれっ…水森?」  目の前に居たのはクラスメイト。  白い肌、深緑の髪と、切れ長の瞳、注意しないと変化がちっとも判らない表情―――水森綾。  「おはようございます、と云っても時間的にもう遅いですね」 「……」 「遅刻ですよ。もう十一時です」 「―――え?」    慌てて教室を見まわしてみる。  ―――誰も居ない。 「何を云ってるんだよ水森。だってまだ誰も登校してないじゃないか…まさかもう下校済みなんて云わないよな?」  もしかして今日は休日だっただろうか。  慌てて頭の中でカレンダーを広げる。  …平日だ。間違いない。ついこの間美月と日曜を満喫した筈だ。  水森にその事を云っても、彼女は全く意に介さずに 「誰も、登校してきませんよ」  冷たく、そう呟いた。 「…誰も、登校してくる筈ないじゃないですか」  そう云って、俺に見せるように両手を広げる。   ―――血、だ。   水森の両手には真っ赤な血が、間違いなく本物の血がべっとりと付着していた。 「…み、水森っ……そ、それ、一体っ」 「血液ですよ。人間のカタチをした屑人形の。この間までここで学校ごっこをしていた―――」  水森の云っていることが理解できない。  現実感がまた薄れていく。  ここは、何処だ。  目の前に居るのは誰だ。  俺は―――誰だ。 「お、お前…何を…」 「何をって……廃棄処分、ですよ」  当たり前のようにそう答えた。  よく見ると、手だけでなくその制服も真っ赤に染まっている。  一人分とは考えられない、制服のデザインさえ変えてしまう量の血。  所々にこびり付いた、血以外の付着物。恐らくは生物の…一部分。 「よ、寄るな…」  嫌悪感や恐怖感、色々なものが俺の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。  何も考えられなくなっていく。  言葉が出なくなる。 「……あなたのせいじゃないですか」  ただ外からの言葉だけが入りこんでくる。  それを頭で理解することなんて、もう出来なかった。 「未完成だから、壊すんです。わたしじゃ無理だから、無理だったから。全て壊すんです。わたしじゃ何もできないから。一人じゃ駄目だから…」 「もう―――嫌なんです」    水森の紅い手がこちらに伸びた。  ただ、ここに居たくないという強い気持ち。  それだけが、俺の足を動かした。  弾かれるようにして教室を飛び出すと、幾つもの大きな塊が狭い視界に入った。  くらくらと揺らぐ体を制して、ゆっくりとその塊を確認する。  塊からは無様に折れ曲がった枝が…違う、これは腕。  ―――これは人だ。  頭が割れている。奇妙な色、奇妙な形をした何かがどろりとはみ出している。  口からも気持ちの悪い部品がだらしなく垂れている。  視線を下に移していく、今自分が着ている制服が。  ―――この学校の、生徒。俺と同じ。    待て。  さっき俺はこの廊下を通って登校してきたんじゃないのか。  見えなかったのか? そんな筈は無い。  こんな、廊下一杯に広がった、死体が。    ぬるり。 「うっ―――」  床一杯に広がった血が、象牙色だったリノリウムの床を全く異質のものに塗り替えていた。   ―――違う、ここは俺の居る場所じゃない。  認識できない。  ノイズが混じったように、視界が霞んでいく。  世界が遠のいていく。  帰れ。  俺が居る場所はここじゃない。居たい場所はここにはない。  そう、ここじゃない。なら…何処へ行けばいいんだ。 「…神條さん」  肩に赤い手がそっと乗せられた。 「うわああああああああっ」  どの方向へ走ったのかも判らない。   何故走り出したのか。  あの塊は、あの血は何だったのか。  全てが考えられない。  どこまでが現実だったのか、どこからが幻なのか。  自分は今何処へ行こうとして、何をするつもりなのか。  答えなんてまるで出なさそうな疑問を無限に増殖させながら、俺はただ一つの名前を繰り返し繰り返し呼んでいた。  だが、その名前も今は出てこない。