足が絡まって、派手に地面に倒れる。  大きく息を吸って、ようやく周りのものを認識するに至った。  淀んだ生暖かい空気。冷たく硬い地面。  倒れたまま辺りを見回す。 「どこだよ…ここ」  かすれたみっともない声。  自分の言葉を聞いたのすら久しぶりのような気がする。  そもそも時間の感覚すらない。  どれくらい走っていたのかも判らない。  ほんの数分か、数時間か、数日か。  そもそも何から逃げていたのか、何のために。  本当は判っている。  まだ瞼の裏に残っている、感情の無い目をした水森と、彼女についていた真っ赤な血。  今まで微妙に繋いできた現実というものがそれをきっかけにして一気に崩壊した。  あのままあの場所に居たら、現実とは違うどこかへ飛ばされるような気がして…だから逃げ出した。  でも実際は。 「…実際は」  もう来てしまったのかもしれない。  現実とは違うどこかに。  俺は今夢を見ているのかもしれない、もしかしたら今までが全て夢だったのかもしれない。  判らない。  もう自分の存在している位置も、存在すらも、何もかもがあやふやになって何処か遠くへ消えていきそうだ。  ただ、走りつづけてくたくたになった両足の痛みだけが俺を繋ぎ止めていた。  俺は、何をしようとしていたんだろう。 「俺は―――」 「何をしているの?」  この辺りの濁った空気を切り裂くような、鋭く透明な声。  いつか出会った少女。 「えっと…」 「秋端、そう教えたはずよ」  そうだった。  未だに曖昧なままの記憶を手繰り寄せる。  そう、秋端。  銀色の跳ね髪も、射抜くような赤い瞳も―――少し異質な存在そのものも、覚えている。  安心した。  もはやこの世界に残っている人間なんて、誰も居ないような錯覚に陥っていたのだ。  別に彼女と長い時間一緒に過ごしたわけでもない。  特別二人で何かしたわけでも。  ただ、今この時に、正確な場所すら判らないこの世界の片隅のような場所で再会できて―――嬉しかった。 「久しぶりだな」 「そうかしら、よく判らないけれど」 「時間の感覚が欠落してる。俺って学校を何日くらいサボってるんだろうな」  さあ―――論点の少しズレた俺の質問にそう答えて、秋端は俺に手を差し出した。 「起きましょう、風邪をひくわ」  そう言われて、自分がまだ地面に寝転がったままだと気付いた。  伸ばされたその手を取って立ち上がる。  その時に僅かに伝わった彼女の体温が、忘れていた現実を少しだけ引き戻してくれた。  そんな気がした。 ---------------------------- 「この辺でいいよな。座る場所もあるし」  起こされた俺は、まだ疲れの残っている足の痛みに耐えながら、近くの公園まで移動した。  事情を説明するのに、道のど真ん中じゃ何かと都合が悪いと思ったのだ。  とりあえず、公園の端のあまり使われた様子の無いベンチに座ることにした。 「はい、あげる」  何処から調達したのか、突然秋端は無言でジュースの缶を投げてよこした。  一言礼を云ってから蓋を開け、一気に流し込む。 「ふぅ……落ち着いた」  別に砂漠で立ち往生したわけでもあるまいのに、水がやたらと美味かった。  まだ大分冷たいところを見ると、さっき買ったばかりなんだろう。 「悪いな秋端。これ、何処で?」 「そこの自販機で」  と、秋端が指差した方向―――公園を出たすぐ先の道路脇には、確かに自販機が存在していた。  一つ小さな蹴り跡が付けられ、軽く煙を吹いている。  ―――煙? 「秋端」 「……何?」 「いや……特に何も無い」  深く追求しない方が良いと思った。  色々と気になることはあったのだが、今はそれどころじゃないのだ、多分。  「んで、どこから説明しようかね…」  とは云ったものの、秋端に今までの出来事を説明する上で、俺の頭に残っているのは一つしかなかった。  他のことは何処かへ吹き飛んでしまった…のかもしれない。  口の中が乾いて喋りにくいのもお構いなしに、俺はその残っている事象を一気にまくし立てた。  突然襲ってきた呼び声、真っ赤な血の服を着た少女、累々と横たわる屍、今まで一緒に過ごしてきたはずの友人たち。  思えば言葉を発することすらも久しぶりで、ただ誰かに話し掛けたかっただけなのかもしれない。  頭に残っている事を全て語り散らして、俺はようやく息をついた。 「口が…疲れた」  そう云ってから、ぐいっとジュースを飲み干す。  空になった缶をすぐ横の屑篭に投げ入れてから、秋端に意見を求めた。 「―――それだけなの?」  だが、秋端の返したのは意外にもそんな言葉だった。  秋端の視線は責めるように、鋭く俺を射抜く。  胸の奥が抉られ、黒い幕に覆われていた何かが露出していくような感覚に教われた。 「違う…」  言葉が漏れていく。  この視線は……まるで魔法だ。 「起こったのは、それだけ?」    俺が云いたいのはそれだけか。  俺が伝えたいのはそれだけなのか―――違う。そうじゃない。  まだ残っている。  忘れているわけじゃない。確かに覚えているんだ。 「判ってる…判ってるよ」  まるで自分の意思とは関係なくそんな言葉が浮かんでは流れ出ていく。  秋端に伝えているようで、きっと本当は自分自身に伝えたい言葉なんだと、勝手にそう思っていた。 「貴方がここで途方に暮れていたことに、私は何も云えない。確かに大変な出来事が続けて起こって、世界もすっかり変容してしまって……私にも予想できなかったから。でも、貴方には行かなきゃいけない場所がある。それは判っているんでしょう? いつまでもこんな終わった場所を他の骸たちのように漂っていけないの…」  行かないといけない場所がある。  判っている。  だから走っていた。  忘れていたわけじゃないのに。確かに覚えているのに。 ―――だったら何故ここに居る。  この足はまだ痛むけれど、動かないわけじゃない。歩くことが出来る。その場所に行くことが出来る。  躊躇いなんて要らないのに。 「貴方が関わってしまった命がある。確かにそれはこの世界の枠から外れた存在だけど…貴方はそれでも関わってしまった。たった一人の人間として愛してしまった。貴方はその命を必要として、きっと向こうもまた同じように…必要としている」  そんなこと今更云われる事じゃないんだ。  ずっとその名を呼ぼうとしていた。  忘れていない。忘れているわけじゃない。 「俺は―――アイツを」 「ここからは少し遠いけれど、この通りをまっすぐ行けば貴方が居た街に戻れるの。そして、その中心の深い森の中、古びた研究施設。今まで誰も認識していなかったその場所も、今ならきっと辿り着く事が出来る」  古びた研究施設。  場所も、形も、確かに記憶に残っていた。行ったことなんて無いはずなのに。  でも辿り着ける―――そんな根拠の無い思いが胸を満たしていった。 「秋端…」 「それじゃ」  そっけない別れの台詞だった。  そう、いつもこんな風に曖昧なんだ。  まったく、こいつらしい―――俺はそう感じて苦笑した。   「―――ありがとう」  それだけはっきりと告げて、俺はまた走り出した。  行ってらっしゃい―――その言葉をしっかりと背中で受け止めて。