「ふう…」  駆けていく広い背中を最後まで見送ってから、秋端は大きくため息をついた。  ベンチに体を預け、両手足を弛緩させると、一気に疲労が襲ってきた。 「気分悪いくらいの御人好し、そして偽善者…ね」  自らへの中傷なら幾らでも思いつくことが出来た。  ある一人の恋敵と並んで、自分自身が世界で一番嫌いだったから。  秋端という個体―――存在理由、その役割自体が、嫌いで仕方なかった。  なのに未だに存在しつづけている、積もりゆく時の海を、ただただ漂い続けている。  その意味すらももはや失われようとしているのに。 ―――くちづけの一つでもしておけば良かった?  秋端と再会したとき、神條弘耶は突然の環境の変容に付いていけず、思考能力を失いかけていた。  表面上はそうでもなかったが、確かに心というものを無くしかけていたのだ。  そんな空っぽだった心にできた隙間に入り込めば、優しく抱きしめでもすれば、彼を彼女のもとに留める事は出来た。  簡単な事だったのだ。  我が侭は秋端の得意とするところだったから。    ただ、しなかっただけ。  地面に転がって空虚に空を見つめている神條弘耶は悲しいくらいに空虚だった。まるで人形のように。  それは秋端が求めている弘耶では無かった。  だが、秋端に背を向けて走り出した彼は、眩しいくらいに満ち足りていた。  そして、その後姿を見て暖かい気持ちになる自分。   ―――馬鹿。  秋端はもう一度自分を罵った。  甘すぎる、と。  自分が心に留めていた『神條弘耶』を取り戻したところで、次の瞬間に彼はもう居ない。走り出してしまったから。  手の届かないところまで走っていく、そして二度と彼の姿を見ることは無いのだろう。  どちらにせよ、秋端の『あの時の選択』が、全てを手の届かないところへと押しやったのだ。  自分の今までの行動は、無くしたものを取り戻そうとしてきた行動は、全て無意味だった―――秋端はふいにそんな思いに駆られた。 ―――馬鹿。馬鹿。本当に…馬鹿っ  拳を握って自分の膝に叩きつけるのが、今の彼女に出来る精一杯の感情表現だった。  その程度の感情すらも、露出したのは何年ぶりかの事。  自分はこんなにも弱い人間だったか、臆病な人間だったか―――違った筈だ。  そんなことを今更ながらに思い返す。 ―――いつから変わったの。いつから…  しばらくはこの答えを探すことで、退屈凌ぎになるだろうか、そんなことを思いながら。  悔いながら。      秋端という少女は、時の森の中に埋没していく。