扉を開けると、蛍光灯の光が飛び込んでくる。  無機質な白い長机と寝台。そして幾つかの電子機材。  その向こうに事務用の机と椅子がある。 「いらっしゃい」 「な…」    その椅子に水森は座っていた。  いつもとまるで変わらない表情と口調に戸惑いを覚える。 「ようこそ神條さん。ここを教えたのはあの赤い瞳の妖精さんですか、それともあの可哀想な後輩の娘でしょうか」 「…秋端だよ」  秋端に言われたとおり、通りをまっすぐ行くと、確かに俺が元居た筈の―――住んでいたはずの街に辿り着いた。  そしてすぐ視界に入る、明らかに他の街の風景と噛み合ってない、深い森。  他に行く場所も無い、だから躊躇うことなく足を踏み入れた。  木の枝や根がそこら中飛び出して歩きにくいことこの上ない道を、なんの根拠もなく真っ直ぐに突き進むと、黒い大きな影が見える―――それがここだった。  立て付けの悪すぎる正面の戸を無理矢理開けて侵入し、手当たり次第に部屋のドアを開けていった。  そして、何十個と部屋を覗いていた末に―――ここを見つけた。  少し早口で水森にその経緯を説明すると、彼女は手元のカップを取り、一気に飲み干す。 「そうですか…」  ふぅ、と大きな溜息をついた後、うんざりしたように呟いた。 「どちらでも構わないんですけどね…」 「色々と、説明して欲しい」 「………」  水森はもう一度カップを手に取り口をつけるが、たった今飲み干したことに気付いて、少し焦ったようにカップを置いた。  俺の視線に気付くと、眉をひそめて笑った。 「柄にも無いですね」 「みなも―――」  云いかけた俺を制して、水森は立ち上がった。  彼女の服装は最後に見たときの血まみれの制服ではなく、私服の上に白衣のような上着を羽織り、長い髪もがっちりと束ねている。  まるで―――科学者のようなスタイルだった。  水森は部屋の奥の電子機器の一つ―――大きなモニターとキーボードの前に座ると、俺を呼んだ。 「お望みであれば説明します。でもそれで全てが理解できるとは限りませんよ。…いいんですか?」 「……頼む」  俺がそう答えると、水森は大きく溜息をついてモニター横のスイッチを押した。  それに反応して、機材が低い音を立てて起動し始める。  モニターに起動中を表す幾つかの文字が流れ、待機を示すダイアログが出ると、彼女は慣れた手つきで幾つかのキーを押してそのダイアログを消す。 「ご覧の通り起動中です。少しお待ち下さい」 「あ、ああ…」  そう促されて、部屋中に響く低い機械音とディスクを読みこむカリカリという音を聞きながら待っているときだった。  水森は突然俯いて、含むように笑い出した 「どうした?」 「…自分が、少し判らなくなってしまいした」 「…どういうことだ?」 「自分は一体何をしたいのでしょうね。馬鹿みたいですよ…」 「……」 「わたしは、何のために…」  かき消えそうなくらい小さな声で水森が呟いたのと殆ど同時に、機械が起動完了のブザーを鳴らした。 「………」 「………………」 「説明…します」  水森は何を云おうとしたのだろうか。  そして、俺も何かを云いかけていた筈だった。  何かが身体の底から出てきそうな気がしていたのに。  その事を考える間もなく、水森の淡々とした語りが始まった。  御伽噺を語るような、幼い子供に聞かせるような、そんな調子で。 「昔々、あるところに科学者がいました」  科学者は永遠の命を作ろうとしていた。  誰もが一度は憧れ、そして諦める『永遠の命』を本気で信じ、自らの手で生み出そうとしていた。  単なる欲望からか、それとも新しい人類への希望からかは判らない。  ただ―――願っていた。  そのために幾人もの人間を切って繋いで組み立てて、幾つもの命を犠牲にして。  心が痛まなかったわけではない。  だが無数の限りある命よりも、いつか完成するであろう限り無い命の方が魅力的であったと、そういうことだった。  間違っているという自覚はあったらしい。  時に自分の良心に、時に周りの研究者に、時に一般の人々に中傷されながらも、科学者は研究を続けた。  何度も挫折と失敗を繰り返し、数え切れない犠牲を出しながら。 「本当に……完成させてしまったんです」  理論上では完成だった。  人間のカタチを保ち、自ら行動する。  そして、その身体は朽ちることがない。  新しいヒトの完成―――その完成品を見たものは誰もが思った。  未来の変容を知らずに。  ゆっくりと、それは浸透していった。大々的に発表されることもなく、長い時をかけて自然に。  どう広まったのかは判らない。  ただ、そうであるという結果が残っている以上、事実でしかない。 「釈迦もキリストもアダムもイブも全て無視して、新しい世界が生まれてしまいました」 「…信じられない」 「わたしもです。馬鹿ですね……人間って」 「俺には…判らない」 「………話を、続けます」  綻び。  科学者が完成させたかに見えた『永遠の命』に綻びが見え始めたのはそんな新世界の創造の後、新しいヒトのカタチが定着した頃だった。  はじまりはどこかの街のどこかの一人。  まったく普通の生活の中で、ゼンマイが切れたロボットのように、急に活動を停止した。   「それがほんの最近のこと」  一人、また一人と活動を停止していく。  しかし誰もその事に気も止めない。  何も考えず、ただ生物としての活動を続けるだけの木偶。  何時の間にか世界は変容していた。 「それがシステム。そう仕組まれた新しいヒトのカタチ。量産型、とでもいうのでしょうか。数を増やせば精度が薄れる、それは当然のことなのに」  永遠の命。永遠の世界。  それが偽りだったことにすら気付かない、気付けない世界。  最後に残る―――  科学者本人が作り上げた、純度の極めて高い、本当の永遠の命。  最後の人間。 「―――神條弘耶」  聞きなれた名前で締めくくり、話は終った。  水森が時折キーボードを叩いて、モニターに難しい研究のレポートなどを表示させていてくれたが、ロクに覚えていない。  ただ漠然と、身体の奥底で理解していた。 「………話は終わりですよ」 「判ってる」 「何か質問は?」 「……一つだけ」 「なんでしょう」 「俺の記憶…俺は、ずっと子供の頃から美月と一緒に過ごしてきた。気がつけば親が居なくて、美月が生活の世話をしてくれて、そんな記憶。それは…」 「……作った時に刷り込まれた、偽物の記憶です」  頭を金槌で殴られたような思いがした。  覚悟はしていたのに。  幼い頃の、印象的な出来事の記憶はあるくせに、細部を思い出そうとしてもちっとも出てこない。  授業で何をした、とか。クラスメイトは誰だったか、そんなことですら。  思い出せないんじゃなかったんだ。知らなかった。  知る必要が、無かったんだ。 「……そっか」 「悲しいですか」 「少しだけ」  そう答えると、水森は少しだけ声を荒げて、責めるような調子で俺に問い掛けた。 「怒らないんですか? 泣かないんですか?」 「………」 「あなたは人間なんですよ? 生きてるんですよっ? 物事を考えられるんですよっ!?」  水森が俺の肩を揺する。  それがとても愛しいことのように思える一方で、どこか遠くの出来事のようにも思える。  浮き沈みする制御できない感情を、更に遠くから見ている自分が居る。 「お願いですから…絶望だけはしないでください………怒鳴ってもいい、殴ってもいい、何をされても構わないっ、だから……」  こんなに近くに水森の顔がある。  細い腕が俺の背中に回っている。  華奢な身体で、俺に縋るようにして。  さっきまで気丈に語りを続けていた彼女は、泣いていた。 「だから…感情を…失わないで…」  懺悔をするような、懇願をするような、色々な表情が重なり合っている。  人形じゃない。ただ同じ表情をするだけの能面じゃない。    彼女は―――生きている。 「…俺は」  生きているのだろうか。  たった今、現在起こっている状況を説明されたのに、まるで現実感がない。何も感じられない。  俺も木偶と変わらないんじゃないだろうか。  最後の人間? だからなんだって云うんだ。  他の皆が滅ぶなら、俺だって滅んでしまいたい。  たった一人きりで生きていくことなんて…   「み、美月は…まだ生きてますよ」   俺に抱きついたまま、躊躇うように水森が告げたその名前。  その名前は… ―――忘れない。弘耶の存在は絶対に…忘れないよ 「美月っ!」  声を張り上げて、愛しい大切な名前を呼ぶ。  久しぶりに自分の意思で出した声のような気がした。  美月は…あいつはどうしたんだ。  昨日の夜に見たのが最後だ。今日になってからは逢ってない。  先に家を出たアイツは…何処に居るんだ。 「わ、わたしは美月じゃないですっ」 「え……あっ」  俺は思わず、自分の胸に縋りついていた水森の背中に腕を回していた。  つまりは抱き合った格好になっているわけで。  赤面した俺は意味不明の言語を発しながら慌てて腕を放そうとした。 「ぬ、むぉ、ぎょ、ふぁぐっ」 「ま、待ってくださいっ」 「う、え、あ、よぅあ…ん?」 「いいです、このままで続きを話します」 「いや、そういうわけにも」 「…話させてください」 「……んー」 「で、で、でないと、続き話してあげませんよっ」 「た、頼む」 「……ふぅ」    何時の間にか。  俺達は、元の二人に戻っていた。  あの頃―――擬似的な学園生活のクラスメイトのように。  馬鹿みたいなやりとりでクスクスと笑い逢える友達に。 ------------------------ 「美月は…避雷針なんです」 「避雷針?」 「ええ。あなたのための…あなたが生きるための…からくりです」  水森は俺に縋りついたまま動こうとしなかった。  俺が抗議の言葉を発しても、見事に突っぱねられる。  十分くらい経ってから、だろうか。  そのままの姿勢でぽつりぽつりと、美月について語り始めた。  さっきの事務的な解説よりも少し和らいだ、親しい友人を紹介するような口調で。 「……」 「『永遠の命』というものを完成させるのに、幾つもの人が犠牲になりました。そしてその上に今の神條さんが存在しているんです。これがさっきまでの話」 「ああ…判ってる」 「永遠の命を獲得した神條弘耶さんは、殺した幾人もの人々から妬まれることとなりました」  少しおどけた口調で、水森はそう云った。  現実離れした単語の数々に、理解が追いつかない。  殺した人々から怨まれる……それじゃまるで――― 「例えば、空から一滴の雫が落ちてきたとして、あなたはそれを気にしますか?」  水森は唐突にそんなことを聞いてきた。  その質問の意図もわからないままに、俺はただ首を振る。 「それが雨の最初の一滴だとして、あなたはそれを気にしない。  だけど次々と落ちてくる雨の雫は、やがてあなたの体を濡らし、熱を奪っていきます」  見上げてみる―――が、空は無い。  ただ薄汚れた天井が空への道を完全に遮断していた。 「雨はどんどん激しくなっていく。  最初は気にもしていなかった一滴が、いつしか川を溢れて濁流となり―――あなたを飲みこんでいく」  そういうことです、と水森は話の終わりと共に俺から離れた。 「人の思念というものは―――他人への嫉妬、生への執着、快楽への際限無い欲望―――そういった誰もが抱く強い想いは、本当に……強いです。醜いくらいに」  そう行った後、水森は何故か薄く笑った。 「一人一人の思念は大したものではなかったんです。  誰も気にしなかった。いえ、気付かなかったんです。でも―――」  やがて、気にもしていなかった想い―――羨望、嫉妬、醜くそして純粋な想いの一つ一つが、束となって、重なり合って 「永遠の命を得た存在を、神條弘耶という存在を飲みこもうとした」  ぞく。  背筋に走る悪寒。体中を色々なものが這い回っているような。  羨み、嫉妬し、憎んだ者たちが俺を取り巻いているような  ―――嫌だ。  嫌だ嫌だ嫌っ。  冷たい。怖い。気持ち悪い。   ―――でも、それもかつては人間だったのに。  俺のせいで死んだ? 殺された?   だったら、これは当然のことなんだろうか。  きっと謝罪したところで何の解決にもならないんだろう、赦しはきっと与えてもらえない。  ぞく。  悪寒。体中を亡者が、かつてヒトだったものが、俺を恨む思念が。  俺を包んでいく、熱を奪っていく。  気にも留めなかった想いが、いつしか濁流となって ―――飲み込まれて―――  目の前が真っ暗になり、体中の感覚が失せていった。  飲み込まれている、とはっきり自覚できた。  無数の意識の海に自分が溶けていこうとする中で。  白い手が。  俺を濁った黒い渦の中から掬い上げてくれた。 「―――美月っ!」  瞬時に周りの景色が再生される。俺は元の建物の中に居た。  そして、目の前には水森が困ったような顔をして立っていた。 「大丈夫ですか、神條さん」 「あ…ああ」  自分の手を見つめる。さっきとはなんら変わったところのない右手に、まだ微かに残っている温もり。  暖かい、愛しい、あの感触。 「水森…」 「なんでしょう」  判った気がする。  今までの説明と、今起こったこと、そして心の奥底にある何かが答えの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていく。 「美月が、俺に向かう亡者の思念…みたいなものを―――」  「…はい。美月は、藤堂美月は…あなたの、神條弘耶に向かう幾万、幾億の思念を代わりに受け止める……安全装置」 ―――あたしは、弘耶のために生きてる  俺がその言葉を聞いたのは、いつだっただろうか。 「……美月」  その名前を呼んだところで、返事は無い。   「神條さん」  代わりに、水森が俺の名前を呼んだ。  顔を上げてもその顔は見えない、水森は何時の間にか俺に背を向けていた。 「付いて来て…くれますか?」 「…どこへ?」  背を向けたままで、躊躇いがちに、水森は行き先を告げた。  それは、俺が最も望んでいる場所。  俺が……最後に辿り着くべき場所だった。 「……美月の、ところへ」