コツコツと、二人分の靴音だけがく。  水森は早足でどんどんと研究所の奥へと進んでいき、今はこうして黙々と階段を下り続けている。  相変わらず装飾も何もない殺風景な建物内。  先の見えない真っ暗な視界が不安を増大させる。  いくら降りても景色が変わらないので、この階段は長いのか短いのか、ちっとも掴めない。 「ま、まだか?」  丁度そう尋ねたときだった。  水森が急に立ち止まり、左手側の壁に手を伸ばすと、辺りが一気に明るくなった。  急な光量の変化に思わず目を閉じる。 「ここ…か?」 「はい。ここに……ここに、美月が居ます」  ”遅いよ弘耶っ”―――あのからかうような笑顔が閉じた瞼の裏に浮かんだ。    そして、ゆっくりと目を開ける。  今まで散々見てきた壁と同じような色の、両開きの鉄の扉が目の前を重苦しく塞いでいた。   「鍵はかけてません。……どうぞ」  促され、扉の前に立つ。  冷たいレバーをそっと握り、一気に開け放った。 「…」  部屋の中に電灯は見当たらなかったが、真っ暗ではなかった。  何処からか微かに光が漏れて入り込んでいるようだ。  でも普通の生活をするのに不自由な明るさであることには違いない。  まるで生活臭を感じさせない部屋だ。  入口部分をざっと見渡してみただけだが、装飾はおろか家具さえ一つも見当たらない。  部屋に漂う僅かな薬品の匂いも、生活感を感じない理由の一つだ。  本当に美月がここに居るんだろうか―――そんなことすらも考えた。  とても人の住める環境ではないこの部屋に、居て欲しくなかっただけかもしれない。  でも――― 「み…美月?」  目が慣れてきたおかげで、部屋の形もようやく判ってきた。  大袈裟な扉の割にはひどく狭い、真四角の部屋。  その一番奥の扉にもたれかかるようにして、俺の尋ね人は座っていた 「美月っ!」  慌てて駆け寄り、耳元で呼びかけるが、反応は無い。  肩を揺すり、頬を軽く叩いても、全く答える様子が無かった。 「おいっ、美月! 起きろ、起きろッ!!」  手足をだらんと伸ばして、目は空ろに何処かを漂っている。  美月の様子が尋常じゃないことは明らかだった。  いや、それどころじゃない、まるで…  まるで、生きている感じがしない。  押さえていた不安がどんどんと増大していく。  嫌だ。  嫌だ嫌だ嫌だッ!  手が震える。  息がし辛くなっていく。  心臓がまるで出鱈目に脈を打つ。  頭がくらくらと眩暈のように、立っていることすらもおぼつかなくなっていく。 「―――っ」   …落ち着け。  こんなところでへたり込んでる場合じゃない。  まだ何も確かめてないじゃないか。  落ち着け。 「………」    震える手を無理やり押さえつけて、恐る恐る脈を取る。  乱れっぱなしの呼吸と、恐れからくる震えがそれを邪魔した。  だが――― 「い、生きてる…」  確かにトクントクン、という美月の生存の証を確認することができた。  自分の言葉に安心して、その場に座り込む。  そして深く呼吸をした。  でも、安心するのはまだ早いんだ。 「…」  美月は生きている。  でも動かない。応えない。俺が何を言っても笑ってはくれない。  誰か他人が見たらそれこそ死体と見間違いかねない―――そう考えて慌てて打ち消した。 「…水森」 「はい」  水森は部屋の入り口に立っていた。  部屋の中に背を向けて立っているためにその表情は判らない。 「美月に……何が起こってるんだ? 教えてくれ…」 「―――はい」  振り向きもせず、その身を動かすことさえなく、水森は全くそのままの姿勢で答えた。 「さっきお話した亡者の思念。それを美月が神條さんの代わりに受けている、とお話しました。  そういった思念、攻撃的な彼らの意識はとても強いものだ、と。  ……攻撃的な思念は、例え物理的に恨みの対象を傷つけられなくても、精神的に傷つける事ならできます。こころの中になら…いくらでも入ってくる」 「壊すことは―――簡単なんです」  また心臓がいい加減な鼓動をはじめた。  息をすることなんてとっくに忘れていた。  すぐそこに居る筈の美月がどんどんと霞んでいく、手が届かなくなっていく。  自分が永遠の命を持っているとか、そんなことを聞かされたときよりもはるかに深い絶望に落ちていく。  意識が闇の底へ。  思考が、閉じていく。 「―――っ! あああああっ!!」 「!?」  突然の叫び声によって現実に引き戻された。  声の主は、目の前の今まで微動だにしなかった―――美月だった。 「っ…やっ! いやっ! やあああああああ」  何かに怯えるように目を見開き、髪をかきむしり、足をばたつかせて、擦れた声で悲鳴を上げる。  普通じゃない苦しみ方だった。 「美月っ! おい、大丈夫かっ! みつ―――」 「どいてください!」  どうしていいのか判らず、ただうろたえる俺を押しのけて、水森が美月に駆け寄る。  手には何処から出したのか、無色の液体が入った小さな注射器が握られている。 「やだっ…やだあああああああ」 「―――痛っ」  水森は注射器と反対側の手で暴れる美月の手を取ったが、怯える美月にその頬を引っかかれる。  しかしそんな事気にした様子も無しに、慣れた様子で液体を注射する。 「うううううううっ、あああ……」  液体を注射してすぐに、暴れていた美月の手に力がなくなっていった。  しばらくは手や足の先だけでも抵抗の意志を示していたが、だんだんとそれも大人しくなっていき、やがて目を閉じて眠ったように静かになった。 「……大丈夫です、とりあえずは」 「…ごめん」  何も出来なかったことと、水森に内心嫌悪感を―――美月をこんな部屋に閉じ込めたままにしておいたことへの―――抱いていたことへの謝罪だった。  だが水森は表面上まるで気にした様子もなく、注射器を内ポケットのケースのようなものにしまった。  そして俺を押しやるように部屋の外へと出る。 「時々、ああして発作的に暴れ出すことがあるんです。恐らく『攻撃』に波があるんでしょうが……詳しいことは判らないです」  説明によると、さっき水森が使った薬(別に危険なものではないようだ)で肉体を強制的に仮死状態にすることで、自身が暴れることでの肉体の損傷だけは防げるらしい。   「気休めでしか…ないんですけどね」  その言葉の通り、美月は内部でまだ一向に止まない苦しみに襲われつづけているのだろう。  外見はこんなに落ち着いて見えるのに。 「…くそっ!」  俺は何も出来ない。  こうして眠った美月の体を抱きしめても、こいつの苦しみを減らしてやることなんて出来ないんだろう。  でも、ただ強く抱きしめた。  美月の存在と、その生命を確かめるように。  力の抜けきった彼女の身体はやけに重くて、張り詰めていた俺の何かを壊していった。   「なんで…こんなことになったんだろう」  そんな事を云ったところで、何も変わらないのは判っている。  だけど、弱い言葉は次々と零れて。 「本当に……好きだったんだ、美月が。大切に想ってた。別に俺が何者でも良かったんだ。正直世界なんてどうでも良かった……そんなこと頭に入っちゃいなかったんだっ! ただ俺は美月が―――美月に逢いたくて…逢ってただ、笑いかけて欲しくてっ!」  この現実は何だ。  確かなものは全てが辛いことばかり、作られた夢の中で得た幸せは全て消えていって…  何も残らない。  ただ生きているという事実の代わりに、この手の中には何も残っていない。 「なんで…」  こんな状態で生きることに、何の意味があるんだ。  なんで生かした。どうして創った。  この俺を作った科学者とやらは……何故。 「そうだ!」    根本的な問題だった。  それを聞くのを完全に忘れていた。 「俺を―――この俺を、この生命を作った科学者は…まだ生きているのか?」  そいつに聞きたかった。  ―――何故生かしたのか、何故創ったのか。  水森は、そんなこと今更といった様子で答えた。 「生きていますよ。その本人も当然ながら永遠の命を、量産型で無い完全な命を得て…のうのうと」 「ど、どこに…そいつは、一体……」  「…さっきから」  悲しそうに笑う水森。  その顔の意味はすぐに思い知ることになった。 「さっきから、ここにいるじゃないですか」  時が止まったような気がした。 「み、水森が…?」 「………わたしが、全ての元凶です」 「み、みな―――」  嘘だ。  信じたくない。 「ごめんなさい」  そんな謝罪しなくていい!   「嘘だよな?」 「……………」  嘘だと云って欲しかった。  その表情を一切変えずに、いつものように、淡々と――― 「…本当です」 「ただ……未来が欲しかった」 「……」  怒りも何も、不思議と湧いてこなかった。  目の前の水森を責める気も、ちっともなかった。  責めちゃいけない―――心の何処かでそう思っていたのかもしれない。  胸を覆うのは、ただ事実を知ったことによるやりきれない思いばかり。  怒りも悲しみもないからこそ、逆に何も出来ないまま突っ立って水森の独白を聞く。  少しだけ、情けなかった。 「永遠にも近いこの時のどこかに、幸せな未来があると信じてたんです」  幸せな未来―――今、こうして何もかもが狂っていることのどこに幸せがあるんだろうか。  幸せは無い。  今この世界に幸せなんて… 「でも、わたしには無理だった。偉大な科学者を師として仰ぎ、わたし自らも天才などと持て囃されて、図に乗って…」  そういう水森の瞳は俺の方を向きながらも、どこか遠い場所を見つめていた。  その色は悲しみだけが塗りつぶしている。 「…わたしは…馬鹿です。本当に…」  馬鹿、なんだろうか。  今こうしてここで立っている俺にはその判断はつけられない。  彼女は永遠の命を求めた。  そして、自らはそれを得て、それを他人に与えようとして失敗した。  多くの犠牲の上に。  馬鹿―――なのだろうか。   「水森」 「なんですか…」  さっき頭の中に浮かんでいた質問を投げかける。   「どうして、俺を創った?」  怒りとか、そういったものじゃなかった。  ただ純粋にこの命の意味を知りたかっただけ。   「今のあなたに云っても、判ってもらえないかもしれません」  そう前置きをして、水森は短く言葉を紡いだ。   「生きていて、欲しかった」  ”生きていて欲しかった”その言葉を口に出さずに反芻する。  確かに意味は理解できなかったけれど、だけどその言葉の意味だけは… 「ただ、鼓動を刻んでいて欲しかった…」  ああ、そうだ。    それは最も大切なことなんだ。  生きること。生きていること、それは俺がアイツに求めていた。  そう―――   「なあ、水森…」 「……はい」 「生きていることそのものに、幸せはあるのかな」  その質問に、水森は少しだけ困惑したように見えた。 「それは…どういうことですか?」 「いや、やっぱりいい…」  心に決めたことがあった。    それが正しい選択かなんて確証は持てないけれど…  水森の言葉―――生きていて欲しかったというその言葉が、俺の中のバラバラの気持ちを一つに固めてくれた。  心の準備も深い思慮も何も無く、殆ど思いつきのままに。  だけどそれで良かった。  もともとそんなものは必要の無かったことなんだ。  そして、これからもきっと必要無い。   「……」 「………」  諦めたような水森の視線を受けながら、ただ一つの事を考える。  これから俺がしようとしていること。俺が水森に云おうとしていること。  ”無謀だ”って云われるかもしれない、いや云われるに決まってる。  自分だって馬鹿なことだって自覚しているんだ。 「…神條さん」 「なんだ?」 「わたしは……あなたが生きているだけで幸せでしたよ」  自然と微笑みが浮かんできた。  下手をしたら泣いてしまいそうだったけど、そこはなんとか堪えた。  今泣いたら、それは流石に格好悪すぎる。   「水森―――」     ありがとう―――そう云おうとしてやめた。  代わりに両腕を水森の背中にそっと回して、抱きしめる。   「今更抱きしめてもらっても……嬉しくないです」    そんな水森の呟きが聞こえた。  最後の方は泣いているように聞こえたけど、敢えてそれを確かめようとはしなかった。  彼女はきっと判っていたんだろう。  これから俺がなんて云おうとしているのか。  判っているから、何も云わずにただ声を殺して泣いている。  そんな彼女がふいに愛しくなって、抱きしめる腕の力を強めた。  あとでアイツに怒られるかもしれない。  だけど、これで最後だから。  最後だからせめてこのくらいは許して欲しい、と思った。    そして俺は言葉を紡ぎ始めた。        彼女と交わす最後の言葉を。