研究所の一室に、風が吹き込んでいた。  長い間窓なんて開けたことも無かったのに、何時の間にかひとりでに開いていた。  部屋の中で舞う木の葉。彩りの風。  無性にそれが疎ましくなり、綾は荒っぽく窓を閉めた。 「こんにちは」  振り返ると、無色の少女が居た。  銀の髪と赤い瞳。  綾にしてみれば、二度と逢いたくない人物だった。  あれ以来―――あの静寂の地下室での別れ以来、ただ一人で何をするでもなく過ごす毎日。  何の変化も無い毎日。  別にその生活を選んだことに後悔はしていないけど、ただ退屈ではあった。  訪問者でも来ないだろうか、とありえない期待をしたこともあったけれど…  彼女だけは、秋端だけは絶対に来て欲しくなかったのだ。  ただ嫌いだったから。 「何しに来たんですか妖精さん。神條さんは―――もう居ませんよ」  神條弘耶。  忘れることの出来ないその名前を、綾は久しぶりに口にした。 「散歩。私は世界の都合の良い様に作られ、動かされるような、そんなあやふやな存在だから」    ―――だから、何も出来なかった。  心の奥で悔いたところで、目の前の水森には届かない。ましてや弘耶になど。  そんな心中を判っているのか、判っていないのか、綾は微妙にずらした話題で返す。 「そんなにフラフラしてるから……妖精って呼ばれるんですよ」 「呼んでるのは貴方だけだけど。第一、妖精なんて似合わないわ」 「自然災害、よりはマシでしょう?」 「…そうね」 「あの人をたぶらかした妖精、という恨みがましい意味もこもっています」 「…そう。ごめんなさい」  棘のある言葉も気にしないようにしていた。お互いに。  今更そんなことで腹を立てるのは無意味だと理解していたから。 「嘘を―――吐いたわね」 「……いけませんか」 「別に。あなたがそれでいいと思ったなら、それでいいわ」 「あの人を…あれ以上苦しめたくなかったから」 「一人で悪者になった、と」 「………愛してますから。神條さんを」  そして美月を―――短い間だったけれども、一番の親友を。  からかう様に、そして少しだけ労わる様に秋端は綾に笑いかける。  が、すぐに元の不定な表情に戻る。 「弘耶と美月さんは…あれで、よかったの?」 「子供ですから、あの二人は」  だから、あそこまで縋れる。  与えられた玩具に、与えられた境遇に。 「羨ましいですよ」 「……」  あの二人は、幼い。  だから痛みを感じることも泣くことも、きっと糧に出来る。  そんな強さが羨ましい、と。  水森は強く唇を噛んだ。自らの弱さに嫌気が差して。  打ち消したくて、したくもない問い掛けをした。  目の前の少女と自分自身に。 「わたし達が美月の立場になっていたら、神條さんとずっと一緒に居る存在になれたら、どうなったでしょうね」  そんなこと無意味だと、判っているのに。  「幸せだと思うわ」 「…飽きたり、しないでしょうか」 「まさか」  悩みもせずそう答える秋端。  綾も有り得ない仮定を目を閉じて少しだけ考えてみる。  楽しいことばかりが浮かんできて、目を閉じているのにその情景が滲んだ。 「互いの存在だけに意味を見出しているのね」 「…」 「ただそこにあれば、幸せだと云える」  それは、子供の考えなのだろうか。  ひどく大人びた考えのようにも思える。  彼の存在そのものに依存して、今こうしてわたしたちも存在しているのだから。   「愛してる、って云ってもらうだけが幸せじゃないってことかしら」 「……損をするタイプ」 「そうね」 「未練がましい二人ですね」 「あまり一緒にしてもらいたくはないけれども、同意はするわ」  そうして、不確かな未来を描く。  でもそれでいい。  時間なんてもう意味が無いのだから。  実現し得ない妄想だとしても、それだけを糧に生きていける。  これからも、自分で居られる。   「目覚めた時に美月はどんな顔をするでしょう」 「まだ夢の続きを見てるとでも思うんじゃない?」  なんて幸せなことだろう。  その夢は永遠に覚めないのだから。  いくら貪っても尽きないお菓子のような現実。  それは幸せなのか不幸せなのか、現在のこの世界においてそれを判断できる者は存在しない。    ただ、あの二人においては。  見通しの無い未来に対して何の疑いもなく希望を抱ける二人だから。  根拠の無い予感と、漠然とした希望を世界の道標として、きっと歩いていける。  今はまだ、ゆりかごの中。  ゆりかごの中で。    目覚めのときを待ちながら―――