蒲生氏郷公生誕の地
中野(日野)城跡
(日野町西大路 )



蒲生氏郷公銅像
(日野町上野田 ひばり野)
がもううじさとこう
蒲生氏郷公
 蒲生氏郷(がもううじさと)公は、弘治2年(1556
)日野中野城で蒲生賢秀の子として生まれ、幼名を鶴千代
といいました。
 織田信長に従い、元服して忠三郎賦秀(ヤスヒデ)と改
め、信長の娘冬姫を妻としました。信長が本能寺の変に倒
れた後、豊臣秀吉に従い、名を氏郷と改め天正12年(1
584)戦功によって伊勢松ヶ島12万石に転封されまし
た。
 松阪に新城を築き移った氏郷の徳を慕い、多くの日野商
人が松阪に移住したのです。
 天正18年(1590)の小田原陣の後、秀吉は氏郷を
奥州の押さえとして会津黒川92万石に封じました。氏郷
は、自分の故郷日野の若松の森にちなみ会津若松の名称に
改めました。
 氏郷はますます興隆していくかに見えましたが、文禄4
年(1595)、氏郷は文禄の役のため名護屋在陣中に病
にかかり、京都の蒲生邸で40歳の若さで生涯を閉じまし
た。
 蒲生氏郷公銅像
 蒲生氏郷公を郷土の誇りとして顕彰するため、大正8年
(1919)日野町上野田・ひばり野に銅像が建設されま
したが昭和19年、第二次世界大戦に資源として供給され
その後、幾度か再建への努力がかさねられました。
 現在の銅像は、銅像建設審議会の答申に沿って、地域活
性化及び景観対策事業として起工、地域の建設協力会はじ
め、各地の多くの方々の尽力と協賛のもとに昭和63年(
1988)4月に完成。文禄元年(1592)名護屋陣に
向かう途中、中山道武佐の宿より郷土日野を望み、

「思ひきや 人のゆくへぞ定めなき
  わがふるさとを よそに見んとは」


の歌を詠む氏郷の姿を写したものです。

おうみひのしょうにん
近江日野商人
日野の千両店
 滋賀県の東部、湖東地方の各地から江戸時代より排出し
た商人を近江商人といいます。
 天秤棒一本の行商から始めて財をなし、千両の富を得て
もなお天秤棒を肩に行商に出たことから近江の千両天秤と
呼ぶようになりました。
 近江商人の中でも、日野地方出身の商人を日野商人と呼
び、他の近江商人と比べ出店数においては群を抜いていま
した。
 しかし大店といわれるものが少なく、千両もたまれば新
しい店を出すといわれるくらい小型店の拡張が多く、この
ことから日野の千両店という名称が生まれました。

商いの道
 近江商人の行商は郷里や上方の産物を地方へ持ち下り、
また地方の産物を仕入れて上方で売りさばくという方法を
とりました。これが近江商人ののこぎり商法です。
 行商の往復とともに商品の販売と仕入れを行うという無
駄のない商業活動でした。そして行商によって一定の販路
と資本をつくると、さらに持ち下り地の中心に出店を開い
ていきました。
 出店の分布が各地に広がると出店相互間の商品を需給と
価格差に応じて回転が行われ、いわゆる産物廻しの方法が
とられました。
 この形態こそいまの総合商社のはじまりといえます。

萬病感応丸
 日野商人の特徴の一つには日野で造られた漢方医薬の販
売があり、これが大きな利益を上げる一つになりました。
 正徳四年(1714)に正野玄三が造り出した萬病感応
丸は日野を代表する薬となって全国に広められました。
 これらの薬の製造する業者も200軒を越え、日野は製
薬の町になりました。商品の荷が軽く、持ち歩きに便利で
しかも利益が大きい。このため萬病感応丸を取り扱う日野
商人の出店も必然的に増えていきました。
 各所の出店では萬病感応丸という看板を通りの目に付き
やすい所に揚げて商っていました。

日野大当番仲間
 江戸時代になると日野商人と呼ばれる商人は相当の多人
数となりました。このため商人相互間の扶助と幕府の保護
を得るため、日野大当番仲間を組織しました。
 この大当番の最大の特色は、幕府の庇護のもとに売掛金
の徴収が滞まった場合にはその領主に訴えて幕府の威光に
よって徴収できる権限を持ったことです。
 また、大当番仲間で東海道や中山道の各宿場に現在の指
定旅館ともいえる日野商人定宿を設けて旅の便宜を図りま
した。関東への行き帰りに利用され、明和7年(1770
)には181軒もの定宿数になりました。

倹約・勤勉・先祖崇敬…
 「近江泥棒に伊勢乞食」と言われ、近江商人はがめつい
商法の代表のような印象ですが、実は天秤棒による行商の
精神を忘れず、勤勉・倹約・正直・堅実を信条に富をなし
たのです。
 なかでも江戸時代中期の日野の豪商といわれた中井源左
衛門が法然上人の一枚起請文をならい、子孫のために金持
商人一枚起請文を書き残しました。
 「倹約と勤勉と先祖崇敬こそが商いを志す者の道である
」と説き、近江商人の精神を総合的にまとめたものとして
称されています。
また近江商人は余財を社会に還元し多くの公共施設などを
寄付したのです。

日野商人像
(日野町大窪 日野小学校)




正野玄三薬店の看板
(日野町村井)



日野商人定宿の看板
(日野商人館所蔵)


歴史民俗資料館近江日野商人館
(旧山中兵右衛門邸)
 日野商人の特徴の一つには日野で造られた漢方医薬の販
 昭和56年に日野商人の一人である山中兵右衛門が自宅
の豪邸を町
へ寄贈された由緒ある建物です。
 この建物は昭和11年に新築されたもので、典型的な日
野商人の本宅の特徴をそのまま今に残しています。
 「八幡表に日野裏」の言葉どおりに家の表側は富を誇示
するような建て前ではなく厳格さとつつましい生活態度が
よく表われています。
 館内には行商品や道中具、家訓などが展示されており、
日野商人の歴史とその商い、生き様を知ることができる貴
重な資料館です。

【開館時間】  午前9時〜午後4時
【休  館】  毎週月・金曜日/年末年始
【入館料金】  大人300円 中学生まで120円
        (団体大人250円 30人以上)

〔交  通〕
 JR近江八幡駅叉は近江鉄道日野駅から北畑口行バス
 大窪(停)下車。徒歩5分。


「お問い合わせ先」
〒529-1603滋賀県蒲生郡日野町大窪1011番地
歴史民俗資料館「近江日野商人館」
電話0748-52-0007  FAX0748-52-0172




〔庭園〕
ギャラリー仁正寺藩
(旧山中正吉邸)
 山中正吉家は山中兵右衛門家(現近江日野商人館)の分
家で、初代正吉は1809(文化6年)に生まれました。
 初代正吉は、1831(天保2年)に大間村(静岡県富
士宮市)で醸造業を始め、その後、造り酒屋として財をな
しました。
 同邸は江戸時代末期に建てられたもので、新座敷、洋間
等を含めた現在の建物は昭和13年頃に全面改装されまし
た。
 〔座敷棟〕〔新座敷棟〕〔新建〕〔洋間棟〕など15部
屋からなる同邸には、大釜付きの5基のおくどさんを構え
ており、また庭園には仁正寺藩主拝領の梅古木をはじめ、
近江の石工小松嘉兵衛(西村嘉兵衛)作の燈篭などが据え
られ、商人の暮らしぶり、繁栄を感じることができます。

【開館時間】 午前9時30分〜午後4時
【休  館】 毎週月・火曜日/12/28〜30及び1/4〜6
【入館料金】 大人1,000円 小人(小学生以下)500円
         (抹茶叉はコーヒー付)
        〔団体10名以上大人500円小人300円〕
〔交  通〕
 JR近江八幡駅叉は近江鉄道日野駅から北畑口行バス
 向町(停)下車。徒歩3分。


「お問い合わせ先」
〒529-1628滋賀県蒲生郡日野町西大路1264番地
ギャラリー仁正寺藩 電話0748-52-0008


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