堀繁半世紀

硬軟二筋、奇妙な商売
昭和二十年八月十五日―あらゆる日本人にとって決して忘れることのできない日である。この日、昭和十二年七月七日の廬溝橋事件以来八年にわたって続いた日中、太平洋戦争にピリオドが打たれたのであった。この年十二月に復員。ときに二十七歳。復員後、ハタと生活の途に迷ったのは、当時の大部分の復員兵と同じであった。一時は、父の大工職を継ごうかと思ったが、独立して大工をやるにはウデが未熟。といって父を師匠にウデをみがくには、父が年老いすぎていた。迷った末に、頑健なからだをもと手にできる商売を思いついた。いわゆる「スクラップ屋」である。スクラップ屋の手はじめは、近江八幡市にある「敷島帆布」という紡績会社に勤めていた先輩を頼りに、同社から落ち綿や糸くずなどの繊維くずを安値でゆずりうけ、そのくずを整理して岡崎にある繊維再生工場に売りにゆくという商売であった。これには少年時代にたたき込まれた”大阪商人”の商法が大いに役に立ったようだが、なによりのモトデは、頑健なからだであった。当時は、満足に走れる自動車などあるはずもなく、かりに自動車があってもガソリンがない。スクラップ商売は、いってみれば、重量物運搬業である。そこで頑健なからだが役に立つ。運搬用具は、大八車や自転車である。荷台いっぱいにスクラップを積んで、東奔西走、よく働いたものだ。たまに手あてがついた自動車は木炭車。敷島帆布の本社(大阪)からスクラップを回収するため日本通運のトラックをチャーターしたまではよかったが、これが木炭車で、四・五トン積みトラックに四トンも積むと、京都と滋賀の間の逢坂山の峠道が越えられない。みんなでトラックの後押しをしているかたわらを、青いガソリンの煙りを吐いて駐留米軍のジープがここちよさそうに走り去ったことは、いまでも強く印象に残っている。当時は、繊維業界の黄金時代で、世間ではこれを、”ガチャ万景気”と呼んでいた。その意味は、ハタをガチャンと動かせば、たちまち数万円儲かるというのである。ガチャ万景気にのる繊維業界はまた、機会設備の更新が早かった。なにしろつくるそばから羽根が生えて製品が売れるのだから、高性能な機械設備をどんどん入れた方が勝ち。機械などはちょっと痛んでもスクラップにしてしまう。そこがまた、私たちスクラップ商売にとってウマ味があった。繊維工場から出る機械類を回収して、京都や大阪に売りにいく、こうして守山町に出て店舗をかまえる下地を築いたのである。郷里の中主町から守山町に移ったのは、昭和二十四年、私が三十一歳のときであった。繊維と機械など鉄鉄鋼スクラップの回収業が軌道にのり、地盤も固まったので、弟が結婚したのを機会に、守山町に出て店舗をかまえたわけだ。昭和二十五年六月二十五日未明、朝鮮半島に戦火があがった。同族あいうつ悲劇―。朝鮮戦争の勃発である。朝鮮戦争を契期に、日本経済は本格的に生産力をとりもどすのだが、このことはスクラップ業にも好景気をもたらしたのであった。スクラップの値段は天井知らずに上昇し、商売はますますさかんになった。しかし若気の至りで、調子に乗りすぎて大損をこうむったこともままあった。人と人との信頼関係とは不思議なものである。守山町に店舗をかまえてしばらくたったとき、取り引き先の繊維会社から「製品の方の商売もやってみないか」とすすめられた。私のどこを気に入っての話しかは、当人にはトンとわからぬことだが、地道な商売を続けるまじめさが買われたのではないか、といったら自賛にすぎるだろうか。ともかくこうして三十三歳のときから、鉄屋とふとん屋という硬軟二本立ての、奇妙なとり合わせの商売がはじまった。