一ヶ月天下
神宗万暦帝に代わって即位したのが光宗泰昌帝である。万暦10年8月生まれ。名を常洛という。 万暦帝が戯れに手を出したら、たまたま生まれてしまった様で、万暦帝は関心を持たなかった。 万暦帝の母親が厳しく問い詰めてようやく認知されたが、自分の愛する鄭貴妃の子、常洵らばかり可愛がった。 長男が帝位を継ぐのが基本だが、万暦帝は常洛を皇太子とするのは乗り気でなかったのかその指名はしばらく放置された。 廷臣の度重なる要請によって万暦29(1601)年、ようやく常洛は皇太子に指名された。
だが常洛にとってそれは不幸な事であったかもしれない。 暗殺未遂や怪文書がばら撒かれる事がみられた。 それは東林党の言うとおり、鄭貴妃一派の仕業であったかもしれない。 あるいは万暦帝が立太子を行わないのは常洛を皇太子にしたくないからだと察した連中が皇帝の意に沿おうとした犯行かもしれない。 事実は闇の中だが、なかなか皇太子を決めなかった万暦帝の優柔不断さがこの種の混乱を招いてしまった。
党禍益熾
万暦48(1620)年7月、万暦帝崩御。 皇太子常洛は万暦帝の遺言であると称して、以下の事を宣言した。 ・辺境地域の補強。 ・礦税の廃止 ・廷臣の言葉に耳を傾ける 新帝の秘められた徳の高さに天下は大いに期待を寄せたと言われている。 8月即位を行い、年号は翌年から泰昌となる事になった。 間もなく万暦帝が放置していた大学士のポストに方従哲に加えて史繼偕ら8名が任命された。 いよいよ泰昌帝の時代が始まるその矢先に泰昌帝は体調を崩す。 病は日々重くなり、ついに最後を感じたのか英国公張惟賢、大学士方従哲ら13名が乾清宮に召集され、長男の由校を後継者とすると発表した。 数日後に再び方従哲らが召され、後の事を頼むと告げている。同日、鴻臚寺官の李可灼が進めた薬が後に問題となる。 9月に入って皇帝の病はいっそう重くなり、ついに崩御する。その在位はわずか一ヶ月でしかなかった。 振り返ると彼の人生は誠に辛いものであったかもしれない。 父親は彼の母親を愛する事はなかった。 母親が危篤に陥った際も彼は面会することを許されなかった。 無理やり侵入する事でようやく母親の死に目に間に合ったのである。 泣く息子に母親は言う。「あなたが立派に育ったのだから何を恨むことがありましょう」。 しかし万暦帝は皇太后の地位で丁重に葬る気は無く、廷臣の願いでようやくそれが認められた有様である。 後に即位した泰昌帝は「母親の愛情が忘れられない」と嘆き、亡き母に相応しい礼遇をもって祭礼する事を命じている。 皇帝となった彼は鄭貴妃一派に復讐するよりもまず母親の事を考えた。 政治家としては軟弱かもしれないが、苦難を乗り越えた上でのその優しさに内外は期待したのかもしれない。 本来なら翌年から泰昌元年となるはずであったが、異例の事態に内外は動揺する。 廷臣たちは協議の末、万暦48年8月から後を泰昌元年とする事で一致した。 年号より問題だったのは、泰昌帝が結局一連の後継者争いに終止符を打てなかった事だ。 李可灼が献上した薬を飲んで以後亡くなった事から、「あれは毒薬だ」という噂が広まる。 その背後には鄭貴妃一派の策謀ありという陰謀論がまたもや浮上し、 また派閥争いも加わって議論は紛々し、その争いは次に登場する魏忠賢も加わって陰惨なものとなるのである。
暗黒の時代
惰弱な皇帝
泰昌帝の跡を継いだのは彼の長男、朱由校である。廟号は熹宗。 万暦33(1605)年11月生まれ。この頃母はすでになく、泰昌帝の正妻も亡くなっていた。 従って皇太后にあたる者がおらず、当時泰昌帝の寵愛を受けていた選侍の李氏が後見役になるかと思われた。 泰昌帝が亡くなり、遺詔によって由校が皇帝となるため、廷臣が皇太子に拝謁しようとしたが叶わなかった。 李氏が由校を乾清宮にかくまい、彼女が影響力を発揮しようと目論んでいる。当時の廷臣らはそう考えた様だ。 吏部尚書周嘉謨(シュウカボ)や御史左光斗らが「李氏は(由校と無関係な人物であり)陛下から離れるべきだ」と弾劾した。 しばらくして李氏は仁寿殿へ移され、ようやく由校は即位したが何とも下らない出だしであったと言える。 李氏に代わって影響力を持ったのが由校の乳母王氏である。 彼は母代わりの王氏をすっかり信用し、彼女を奉聖夫人と呼び、彼女と結託した宦官魏忠賢に大権を与えたのである。 この2人の登場で天啓期は大いに乱れる事になった。 15歳の由校は学問を受けておらず、手先が器用なだけの人物で殆ど彼らの言いなりにすぎなかった。 泰昌帝に罪があるとすれば長男相続が原則としても、帝位を背負いきれない人物を皇太子に指名してしまった事だろう。
騒乱
この様な混乱が続く裏で、明に宣戦布告した後金の猛攻は留まる所を知らない。 熊廷弼が「消極的すぎる」と解任され、代わって遼東巡撫の袁応泰が遼東経略に任命された。 天啓元年の出だしは内外ともに最悪であったと言えるだろう。 天啓元(1621)年3月後金軍は瀋陽を占拠。総兵官尤世功(ユウセイコウ)と賀世賢が戦死した。 総兵官陳策らが奪回に向かうがことごとく敗れている。 ついには遼東経営の拠点遼陽も落ち、袁応泰が責任をとって自殺。巡按御史張銓は投降を拒否して亡くなった。 「わが国は文武両道でやってきたが平和が長く続き、強者は雲散してしまった。 しかし国を憂いる豪傑はいるはずだから、役人は草の根を分けても優れた人材を探し出せ」 と、兵部は発している。明軍のあまりの脆さに対する焦りが伺える。 亡くなった袁応泰に代わって遼東巡撫薜國用を経略に、参議王化貞を右僉都御史に任命し、各地で兵を募った。 そして援軍を遼東へ派遣したがことごとく壊滅し、6月再び守りに定評のある熊廷弼が遼東経略に指名されたのである。 が、熊廷弼はひんぱんに王化貞と激突し年末には調停するため使者が派遣されている。これでは勝てるはずもなかった。 年明け、王化貞の無謀な作戦で明軍は壊滅的打撃を受ける。 副将羅一貫、総兵官劉渠らが戦死。熊廷弼らは山海関に逃げこむしかなく、参政高邦左は留まって戦死した。 かくして遼東はほぼ後金の勢力圏となり、異民族の奴隷になる事を恐れた難民が山海関以南になだれ込んだ。 同年10月、四川方面では永寧宣撫使奢崇明が巡撫徐可求を殺害し反乱を起こした。 奢崇明の破竹の勢いに押され成都が包囲されたが、布政使朱燮元の堅守で辛うじて陥落を防いだ。 なお、この反乱鎮圧で名を挙げたのが中国史で唯一女性として列伝に名を残した女将軍秦良玉、その人である。 彼女に加えて総兵官杜文煥や楊愈懋の活躍もあって成都の包囲は解かれ、2年がかりで反乱を鎮圧した。 この頃になると後金だけでなく奢崇明以外にも白蓮教の徐鴻儒などの反乱や、 兵士・民衆の暴動が相次ぎ、全国でその鎮圧に奔走する事となる。帝国の崩壊は目の前まで来ていた。 反乱軍を鎮圧し、勝ったと思って帰還した所を賊に急襲されて指揮官以下全滅というケースが起こっている。 プロである明軍が素人の反乱軍に手玉にとられる様は、明軍の惰弱さを示す典型といえよう。
奸臣の天下 こういった危機的状況にも関わらず、魏忠賢は自分の一族に官職を与えやりたい放題だった。 博打に負けて無一文となり自暴自棄となった彼は自ら去勢して宦官に志願した。 権力の傍にいれば旨い汁が吸えると思ったのか…この様な人間が権力を握るのは誠に最悪であったはずだ。 秘密警察にあたる東廠の長となった魏忠賢は厳しく監視し、彼を悪く言う人は市井の者であっても皮を剥いだと言われている。 未だ泰昌帝即位に伴う問題を引きずり内外が対立していた時期である。 廷臣は魏忠賢と手を結び、彼の行動力に期待したのである。 天啓4(1624)年6月、左副都御史の楊漣が「魏忠賢は24の大罪がある」と弾劾した。 こうして惨禍が始まる。 「魏忠賢が正しい」と言う者、「彼を処分すべき」と言う者相次ぎ、収拾がつかなくなった。 10月には魏忠賢の報復が始まる。彼を弾劾した楊漣を始め、吏部侍郎陳干廷と僉都御史左光斗が追放された。 天啓5(1625)年3月、先に逮捕されていた汪文言の供述によって楊漣、左光斗、袁化中、魏大中、周朝瑞、顧大章が逮捕された。 また尚書趙南星らが追放されている。追放されただけで良かったかもしれない。 明史では6名は「相次いで獄中にて死す」とのみ記されている。彼らは拷問の末殺害された。 取調べ道具の中に熱して履かせるための鉄製の靴があり、清初それを見つけた役人は「あまりに酷い」と言って破棄を命じた。 その様な道具が使われたかは不明であるが、 翌年の弾圧で獄中死を遂げた周順昌の遺体を家族が引き取ってみると歯は全て折られ、指は全て無かったと言われている。 彼らへの取調べが陰惨を極めた事は察するに余りある。 ともかく上記6名は、当時の人々から六君子と言われ称えられた。 逆に言えば、当時の人々は魏忠賢の横暴を知っていたのであり、それを皇帝が放置している事も知っていたのだ。 だとすれば、誰がこんな国に命を捧げるだろうか? 天啓5(1625)年4月以降、大学士など高官が次々と追放され8月には反魏忠賢派の主体となっていた塾「東林学院」が取り潰しとなった。 同月には熊廷弼が公開処刑となっている。一方の王化貞は魏忠賢とよしみがあった為、死罪とはならなかった。 12月、東林派と目された人々の名が全国に「こいつらは奸人である」と晒し者にされた。 天啓6(1626)年2月、宦官李實の言により、魏忠賢に批判的な7名が逮捕される。 吏部主事周順昌、巡撫周起元、左都御史高攀龍、諭コ繆昌期、御史李應昇、周宗建、黄尊素のいわゆる七君子である。 特に周順昌は人望があったのか人々が助命を請うたと言われている。 川に身を投げた高攀龍を除いて6名は「六君子」同様、拷問の末殺された。 一方で魏忠賢の子、魏良卿が寧遠防衛で功があったとして粛寧伯に叙せられた。本当に戦ったのは袁崇煥らのはずだが…。 6月に尾を引いていた泰昌帝即位問題に終止符を打つ「三朝要典」が公布された。 これは天啓5年4月に給事中楊所修が進言して作成されたものであるが その内容は皇帝暗殺未遂も毒殺も全て東林党の仕業であるという言いがかりであった。 魏忠賢の専横に反発する者もあれば、おだてて気に入られようとする者も現れる。 巡撫浙江僉都御史の潘汝が「魏忠賢を称えるやしろを作りましょう」などと奏上し、許されている。 すると各地で彼のやしろを作ろうという連中が現れ、一種のブームとなった。 10月には親子で公に叙され、魏家は栄華を極めた。 天啓7(1627)年5月には陸万齢なるものが太学(国立大学にあたる)に孔子と並べて魏忠賢を祀るべきと願い出て、認められた。 彼は孔子と並ぶ偉大な人物となったのである。
天啓期の終結
天啓6(1626)年1月、ヌルハチは寧遠を包囲したが参政袁崇煥、総兵官満桂らがよく守り撃退した。 ヌルハチにとっては最初で最後の敗北となり、この後没してしまう。 山海関を抜けると都は目の前であり、その山海関への進軍を食い止めたことは良かったが、その後の対応が悪い。 中央はすっかり安心して、全国では阿諛追従する輩が魏忠賢の祠を作る始末である。 本来なら全国で兵を募って守りを固めるべきではなかったか? 天啓7(1627)年春、ホンタイジが朝鮮へ出兵しても救援する事はなかった。むしろ矛先がそちらに向いて安心したのかもしれない。 7月にはあろう事か袁崇煥が解任され、一方では相変わらず魏家を持ち上げる風潮は変わらない。 もはや国そのものが狂っているとしか言い様がない。 袁崇煥が解任される直前、天啓帝が倒れた。 魏忠賢も焦ったのか、8月には息子魏良卿を太師に。孫の鵬翼も少師に任命され基盤固めを行っている。 いよいよ天啓帝も最期が訪れて、各大臣や廷臣を招集する。 (おそらく魏忠賢がそう言わせたのであろうが) 「魏忠賢と王礼乾は忠実で正しい。国家の重要案件は彼らに任せよ」と言い残し、魏忠賢の親戚良棟を東安侯に任じた。 その後、危篤となり23歳の若さで崩御した。
万暦期に官僚機構は崩壊の瀬戸際まで来たが、天啓期に魏忠賢の横暴を目の当たりにしついに民衆の心まで離れてしまった。 目の前の危機を真剣に考えようとせず、官僚は互いに対立し魏忠賢の台頭を招いてしまった。 そして魏忠賢は惰弱な皇帝を立て意のままに操り無法の限りを尽くした。 命を懸けて彼を批判する者、必死に後金軍の侵攻を食い止める者もいたが実に空しい。 大勢は魏忠賢におもねり、祠を建てようなど言う始末である。 もはや万暦期に明帝国の天命は尽きたと皆が知っていたのではないか…と自分は思う。 天啓期は最期のバカ騒ぎの時代であったのかもしれない。 この後、各地で民衆反乱が頻発する事となり、その多くが李自成の下に集結しやがて大乱へと繋がっていく。 天啓帝に子はなく、跡を継いだのは泰昌帝の五男、天啓帝の弟にあたる信王朱由檢である。 かねてから憎んでいた魏忠賢を死に追いやり、東林党関係者を登用し建て直しを図った。 先帝とは異なり危機感をもって政務に望むが、これだけの負債を背負って天下を治めるには経験が浅すぎた。 焦るあまり他者を信用せず、失敗すれば厳しい罰を与え、ゆえに人心を失った。 大役を任されてしまった事は誠に哀れであったとしか言いようが無い。
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