事件録
明末三大疑獄

       明末、宮廷内では後継者を巡る争いが起きていた。
     万暦帝が何となく手を出した女性が長男を産んでしまった。
     皇帝はこれを認めようとしなかった。母親から責められ、ようやく我が子と認めたのである。
     長男が皇太子となる。その決まりのせいで万暦帝は大いに悩む事になった。
     寵愛する鄭貴妃の子供こそ後継者にしたい、内心ではそう思いつつも、それは出来なかった。
     廷臣らは何年たっても皇太子を決めない皇帝に苛立ちを感じていた。
     両者の間には深い溝があったのである。
     加えて鄭貴妃自身、我が子を皇帝にすべく宦官を操り、長男を貶めるべく陰謀を張り巡らせた。
     皇長子朱常洛(後の泰昌帝)を巡る陰謀事件「梃撃」、「紅丸」、「移宮」事件を三大疑獄という。



    移宮事件

     先の2つの事件は朱常洛(泰昌帝)への暗殺事件であるが、移宮事件はその種の事件ではない。
      後見人を巡る対立である。
 
     朱常洛の長男は朱由校という。
     由校は万暦47(1619)年に母を失っている。14歳の時であった。
     母親を失った翌年、彼は祖父万暦帝と父親の泰昌帝を失った。
     彼はまだ15歳であり、皇帝には後見人が必要であった。
     泰昌帝はその頃寵愛していた李選侍を皇后にしたいと考えていたが、それは適わなかった。
     こうして後見人の定まらないまま、泰昌帝が崩御したのである。


     周嘉謨、張問達、李汝華ら諸大臣は、
     「皇長子には母親がおられないのだから、李選侍に後見を託すべきだ」と希望した。
     これに対し楊漣らは
     「先帝も希望してないのに、どうして婦人に託せようか」と反対した。
     その上で、一刻も早く殿下にお会いし万歳を叫んで現在お住まいの乾清宮から慈慶宮へ移られるべきだと主張した。
     彼等はなぜ、乾清宮から移るべきと主張したか?
     それは由校の側にいる李選侍の影響力を薄めるためであった。
     李選侍を後見人と認める側と認めない側で意見は真っ向から対立し、一致しない。
     そこで方従哲ら内閣の閣臣および、楊漣らは強行手段に出た。
     由校の住む乾清宮へ赴き、彼を奪う事を考えたのである。
     彼等は王安の手引きで乾晴宮に入った。
     守衛の宦官が棒を握って立ち塞ぎ、彼等の侵入を防ごうとした。
     それを楊漣が「奴隷どもが!お前等は陛下は崩御なされたのを知らないのか、何を欲して邪魔をするのか」と一喝。
     怯んだ隙に突入し、由校に面会することができた。
     面前で万歳を叫び、6日以内に即位する事を要請した。
     何も分からない由校を車に乗せて各宮殿前を通る。文華殿では廷臣らが控えており万歳を叫んだ。
     後を追ってきた宦官が「殿下を拉致してどこへ連れて行くのか?殿下は若くまだ人を恐れる」と追いかけてきた。
     両者はもみ合いとなった。
     楊漣は「殿下は我等の主であり、全世界の主である。どうして人を恐れることがあろうか!」と宦官をなじったと言う。
     奪還にきた宦官を振り切り、ようやく慈慶宮へたどり着いたのである。


     慈慶宮に着いて、問題になったのが「いつ即位するか?」という事だった。
     ある者は「まず李選侍が乾清宮を出て、それまではここに居て頂く。全てはそれからだ」と主張した。
     ある者は三日して即位するべきと言い、とにかく今日中に即位するべきという急いだ論もあった。
     楊漣は「今、国内は安泰している。先帝の葬儀も終わっていないのに先の話をするのは非礼だ」と言い、これが通った。
     ところが左光斗が激怒して、そんな悠長なことではお前も死ぬぞと詰め寄った。
     彼は李選侍の事を忘れていたのである。
     そう言われて、恐れぞっとした楊漣は光斗と共に周嘉謨を説き伏せ、李選侍は別居させる事となった。
     これが移宮問題の始まりである。
 


     翌日、周嘉謨や左光斗らがそれぞれ李選侍が移宮する事を請うと奏上している。
     特に左光斗の奏上は手厳しい。おおまかには以下の通りである。
     「内廷には乾清宮があり、外廷には皇極殿がある。これらはただ天子のみが住むことを許されている。
      別に許されているのは皇后のみで、妃や嬪といえども同居する事は出来ない。
      李選侍は生母でない。
      先帝の寵愛あったかもしれないが、殿下に対して養育の恩もない。
      そんな人にどうして殿下をお任せする事ができようか?
      殿下は16歳で、内廷、外廷ともにしっかりした廷臣がいる。どうして李選侍の手を借りる必要があろうか?
      ここで決断しなければ、いずれは政治をのっとり、いずれ武氏の禍を現在に蘇らせることであろう。
      将来を考えてあえて言わせて頂く」
     彼は李選侍はいずれ則天武后の様になって国を乗っ取ると批判した。
     これを聞いて李選侍は激怒し、李進忠(のちの魏忠賢)と共謀し、なんとか皇長子と同居できないか模索したと言う。
     加えて李選侍を武氏と批判した事を由校は不愉快に感じ、厳しく彼を叱っている。
     ともすれば楊漣や左光斗は彼等の一派によって殺されかねない状況であった。
     ある時、楊漣は宦官と遭遇し、不穏な空気が流れた。
     彼は真面目な顔で「殿下は太子となり東宮におわす。間もなく皇帝となられるであろう。
     16歳の殿下に李選侍は必要ない。後日、李選侍は何もできなくなるだろう。その時、お前等はどこに身を置くのか?」
     そう言われて宦官らも不安になり。退いていった。
     こうして楊漣と左光斗は力を合わせて宦官派を退けた。人々は彼等を「楊、左」と称したという。
     そして由校の即位は9月6日と決まり、残す所はいつ李選侍を乾清宮から追い出すかのみであった。


     泰昌帝が亡くなって5日目。即位の前日である。
     即位前に李選侍は乾清宮から移動するべきと言う声が高まる。
     楊漣らはしきりに方従哲に働きかけるが、彼は「別に遅れても害はない」とのんきに答えた。
     楊漣は批判する。
     「明日はいよいよ天子となる。陛下には乾清宮に帰っていただくが、以前李選侍が居座っている。
      選侍は押しが強く欺くのが上手い選侍の所へ戻ったら、どうなることか?」
     その批判はすぐに李選侍の耳に入り、彼女は「先帝の遺言がある」と秘策を出して反撃した。
     すぐに楊漣は次の様に反論した。
     「我々諸臣が先帝から遺言を賜ったのだ。先帝は我等に殿下を頼むとおっしゃった。
      めかけに頼むなどと言ったか?選侍を九廟の前に立たせて反省させよ!お前等は彼女の使用人か?
      そうであれば、今すぐ自分を殺すべきだ。今日移らないと言うなら、自分は死んでもここを動かない」
     皇長子は諭して、楊漣の意見を退けたが、彼は諦めない。
     「選侍は保護を名分に政治を専横しようとしている。
      彼女を移転させ、殿下は今日中に(乾清宮へ)行くべきである」
     結局、その意見が通り、李選侍は仁壽殿へと移された。


     9月6日、皇長子朱由校登極。熹宗、いわゆる天啓帝の即位である。
    その後も「先帝の妃を軽んじるべきではない」賈継春らの李選侍擁護論はあった。
    さらに李選侍が首をくくって自殺したとか、
    彼女が住んでいたサイ(口ヘンに歳)鸞宮が火災に遭うなどキナ臭い事もあったが、
    先帝の死から一週間続いたゴタゴタはこうして解決した。

    が、楊漣ら清流派は大事なことを見落としていた。
    李選侍が失脚したことで、乳母客氏の影響力が増した事を、である。
    楊漣らを忠直と呼んで称えた天啓帝であったが、間もなく魏忠賢に任せきってしまう。
    天啓帝は自分を育てた客氏と、彼女と親しかった魏忠賢の言いなりであった。
    結局、この事件で漁夫の利を得たのは魏忠賢だったといえよう。
    一説には彼が李選侍をそそのかしたとも言われている。
    また、鄭貴妃が李選侍とともに垂簾聴政(皇帝の後ろで政治を実質的に取り仕切る事)を謀ったとも言われている。
    実際はどうであったかは定かではない。
 
    移宮事件は楊漣、左光斗ら清流派の勝利に終わったが、その後の立場は逆転した。
    魏忠賢の専横が始まると彼等は眼の仇にされ、天啓5(1625)年に粛清された。
    李選侍を擁護して職を追われた賈継春らが代わって復職している。
    その前年、李選侍は康妃に昇進している。おそらく楊漣らへのあてつけで、魏忠賢らの働きがあったのだろう。
    天啓帝、崇禎帝と彼女をつねにいたわったとされている。
    多くの混乱の中心にあった鄭貴妃は崇禎3(1630)年7月に亡くなり丁重に葬られている。
 

     「梃撃」、「紅丸」、「移宮」の三事件は不毛で得るもの無し、という点では実に下らない事件であったといえる。
    万暦帝が国内に大きな傷を与え、その復興が急がれた時に皇帝が3人も入れ替わるというのは異常事態であった。
    最も責任が重いのは万暦帝である。
    彼が責任を果たさず空白を作った事が無用の混乱を招いてしまった。
    仮に「天命」が本当にあるならば、この時、明帝国は失道してしまった。
    混乱を収拾するべく期待された泰昌帝の急死し、皇帝となる自覚もないまま若者が帝位に就かされた。
    ある意味、天が亡べと言っている様なものではないか?
    そして、この事件を通して「”継承”とは何だろうか?」と思う。
    皇帝とは帝国の頂点に君臨する独裁者である。
    独裁者が愚かであれば、帝国は崩壊する。そうしない為には優秀な人を帝位に就かせねばならない。
    それなのに、皇帝は皇太子の教育を怠り、廷臣は長男が相続する事にこだわった。
    天啓帝は字の読み書きが出来なかったのに、すんなり帝位に就けた事に驚きを隠せない。
    泰昌帝が帝位に就くにあたって、あれだけ揉めたのは一体なんであったか?
    帝位を象徴程度にしか考えていなかったのではないか…とさえ思ってしまう。
    リーダーシップの不在は次の崇禎帝も同じであった。
    いきなり中央に連れてこられた崇禎帝が部下を使い、絶望的状況を乗り越えるのは不可能であった。
                                    

 

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