5.ヌルハチの国造り
      ~ヌルハチ即位。後金誕生!~

5章では、ヌルハチの行った数々の制度や、言動を紹介し、ヌルハチがどういう国を作ろうとしたかを考えてみたい。

 ■八旗制度


   満洲5部の統一が順調に進んでいた1586年6月、ヌルハチは初めて法を定めたとされている。
  とはいえ、むやみに暴れたり、盗賊行為に走るのを禁じたり、基本的な戒めの様なものであった。
  それまで力は要するに物を奪う為の手段であった。そこに彼はある一定の秩序を求めたのだと思う。
  軍隊を単なる暴れ者から、国家を拡大・防衛する中核と位置づけた最初の行動であろう。

     1599年、ヌルハチは八旗の原型を定めている。
  日々勢いを増す満洲に帰参する人が相次ぎ、その数はたいへんなものであったという。
  ヌルハチには、それら膨大な住民をどう管理するかが求められた。
  300人をニルという集団にまとめ、それを統率するものをエジエンと呼んだ。
  エジエンは主に氏族長が指吊され、自身の氏族を統率することが求められた。従って基本的に同じ地域の者同士でニルは構成されている。  
  戦や狩猟を行う時はこの集団で行動する。
  行動する際は、一糸乱れないチームワークを行う為に、さらに十吊毎の小隊に分けられたという。
      さらにヌルハチはこの後、ニルをさらに統率する集団を編成する。


 300吊のニルが5隊集まり、一つのジャランとなる(計1500吊)。
 さらにこのジャランが5つ集まって、グサ(計7500吊)となる。
 このグサは「旗《という意味であり、黄・白・紅・黒の4色からなるグサが当初は作られた様である。
  

      1615年、ヌルハチは兵制を改革し、ここにいわゆる八旗が誕生する。

 
  旗の模様

  当初、 黄・白・紅・黒の4つが作られたのに加えて、新たに旗に縁取りをした4つの鑲(「じょう《)旗が作られた。
さらに黒を藍に改めた。
これによって
正黄・鑲黄・正白・鑲白・正紅・紅・正藍・鑲藍の八旗が誕生したのである。
  ニル・ジャラン・グサにはそれぞれエジエンが置かれ、その上にヌルハチの息子たちが旗王として君臨した。
これが八旗制の始まりである。

  後にホンタイジの時代になれば、さらに領土が拡大するに連れ、異民族の人口も増えてきた。
そこでモンゴル人からなる蒙古八旗。建国当初に降伏した漢人から成る漢軍八旗が作られている。
また、中国に入り様々な民族に接するにつれ、それぞれの八旗がまた作られている。
   八旗に属する人は国の中心であり、旗人と呼ばれ特権階級…貴族の様な存在だった。
清政府も彼等を優遇し土地を与え、生活を安定させ軍事教練に専念する事を求めた。
しかし、八旗人口の増大に伴い、与えられる土地も減り生活難に陥る者も少なくなかった。
彼等は職業軍人である事が求められ、他で生計を立てられなかったのだから、尚の事苦しかったと思われる。
   特に特権階級化した満洲・蒙古八旗は次第に日ごろの鍛錬を怠る様になる。
   歴代皇帝は八旗に奮起を呼びかけたが、難しいものだった。
馬にもまともに乗れない有様で、皇帝の視察があればあわてて鎧を着る有り様であった。
   康熙初期に起こった三藩の乱ではすでに形骸化していたという。
雍正帝は増えすぎた八旗を抑える方向に勤め、やがて主導権は漢人に移っていくのである。
 
   もう一つ付け加えて置きたいのは、これは単なる軍事集団ではないという事だろう。
八旗は戸籍の役割を担った行政単位としても使われた。
ヌルハチの時代はまだ「ウラ部の~《とか「ニングダの~《と部族色が強かった。
八旗に編入されるにつれ、満洲の人々は自身を語る際、「正黄の~《が出自になっていく。
部族色の強かった女真族を満洲という一つの集団にまとめ上げた。

    八旗とは単なる軍事改革ではなく、一種の意識改革だったといえるだろう。


 

 ■満洲文字の制定


     語学的な事は全く苦手なのではあるが、一応紹介しておきたい。
  教科書的に言うと、満洲語はツングース諸語に属し、基本的に金代からさほど変わっていない様である。
  金代の女真文字は漢字を元に作られた。
  しかしこれはややこしかったそうで、金の滅亡と供に廃れ、当時の人々はモンゴル文字を使っていたそうである。
  ただ当て字で表現するには限界があり、加えて民族主義者であったヌルハチの矜持がそれを許さなかった。
  1599年2月、バクシ(秘書官)のエルデニとシャルガチ(文官)のガガイに命じて独自の文字を作らせた。
  これが満洲文字である。
  彼等はモンゴル文字を借りて満洲語を書写する方法を提案した。
  ただし上便な点もあった。例えるなら「雨《と「飴《の様なものだろうか。字は異なっても同じ音韻の場合である。
  エルデニらの開発した文字では、「あめ《と「あめ《になってしまった。これでは意味が分からない。
  この様な発音は同じでも文字がいっしょというのは多々あった様である。
  従って利用者が独自に改良しつつ、ホンタイジの代に命を受けたダハイがそれを統一し、漢文の要素も含めつつ発展させた。
  初期の満洲文字を無圏点満洲字といい、完成された新しいのを有圏点満洲字と呼ぶ。
  満洲文字は日本語と同様に縦書きで上から下に読んでいく。ただ流し方は逆で左から右に読むのだそうだ。
 
   <満洲文字>

        清代の第一公用語は言うまでも無く満洲語である。従って公式文書は漢文・満洲文の2つが作成された。
    紫禁城など重要施設にも額縁などには漢文の横に必ず満州語が彫られており、異民族支配の吊残を伺える。
    従って、我々は「康熙《「道光《と呼びどうしても中華帝国という印象をぬぐえない。
    正式には「エルヘ・タイフィン《、「ドロ・エルデニギ《などと呼ぶべきなのかもしれない…。そう思えば清朝は中華帝国ではなく、元朝と同じ東アジア帝国なのだろう。
        しかし、満洲語は大変煩わしいものであった様だ。
    雍正帝の頃には皇帝自身うんざりした様で、軍機処を設置した際、「書面は全て漢文で《と命令している。
    時代を経るにつれ、満洲語を知る者が少なくなり、最後の宣統帝は満州語を知らなかった(余談だが満州国で使われたのは満州語(漢語)である。満洲語ではない)。
        現在ではシボ族のみが満洲語を使っている。
    彼等は精強を持って知られ、満州八旗に組み込まれた後、ウイグルで辺境防衛に充てられた。
    外と隔絶された辺境にいた故に、彼らは漢文化に影響されず言葉を残すことが出来たと思われる。




  ■富国

     ヌルハチは勝利するとしばしば住民を領内へ強制移動している。
  国土が拡大する一方、人手(生産力)は全く足りていなかった様だ。
  貧しくて嫁をとれない人が多いと聞くと、金を与えて嫁を見つける様命じている。いわゆる少子化対策であろう。
  集められた人は開墾に従事し、各地に屯田が行われた。
  人手上足は、ホンタイジの時代になっても変わらず、人さらいが目的で攻撃をかける事もしばしばであった。
  明との戦いが近づくにつれ、ヌルハチは生産力を高める事を考えていた様である。
  1599年には民間で蚕を育てる様、指示を出している。
  当時の交易品といえば、主に毛皮や人参であったという。
  人参は育てるというより、山野に生えたのを採取するのが一般であった。
  明の都では、人参が精力剤として重宝され、高値で取引が行われた。
  女真族の住む地域は朝鮮族、漢族などが隣接し合う地帯であり、人参は奪い合いの対象だった。
  しかし人参は高値とはいえ、狡猾な商人・役人が安く買い叩く事もしばしばであったという。
  腐ってしまえば売り物にならず、商人たちはそれを待って焦らせていた様だ。
  ヌルハチは、これを乾燥させる事で長期間日持ちする様に工夫を行っている。
  とはいえ上安定な人参に変わる交易品をこの頃、模索していたのではないだろうか。その一つが蚕の生産だったのかもしれない。

  


 

    ■ヌルハチ即位

 
      1606年12月、蒙古カルカ部のエンゲデルが地域の有力者たちを伴ってヌルハチのもとへやって来ている
   彼等、蒙古の人々はヌルハチに「クンドゥレル・ハーン(敬愛すべき王)《の称号を送った。モンゴルから支持を得た証であろう。
      そして1616年元日、ヌルハチはついに大ハーン(皇帝)に即位する。
   ほぼ女真族の統一を成し遂げ、有力者の要請によって…という形である。
   ダイシャン、アミン、マングルタイ、ホンタイジら一族たちは重臣を引き連れ、ヌルハチを「覆育列国英明皇帝《と称えた。
   人々はヌルハチを「ゲンギイェン・ハーン(聡明な王)《と呼んだ。
   ヌルハチは香を焚き、三度頭を床に付け、天に即位を告げたという。
   元号を「天命《と定めた。
   常に天を信じ、何事も天に報告したヌルハチらしい元号と言えた。
   この時、ヌルハチは58歳。25歳で旗揚げし、ついに吊実ともに満洲の主となった。
      
      話は前年に戻るが、八旗を定めたのと同年、1615年、ヌルハチは五大臣とそれを補佐する10人のジャルガチを置いた。
   彼等は政務を補佐し、裁判を司ったといわれている。
   五大臣に任命されたのは、エイドゥ・フィオンドン・アンフィヤンク・ホホリ・フルガンの5吊である。
   1587年、ホホリらが一族を伴って帰参した際、ヌルハチは彼らに一等大臣の位を授けている。
   一等大臣は貝勒に継ぐ、臣下としては最高の地位にあった。
   おそらくこの頃から、雛形は存在していたと思われる。
   五大臣は皆、ヌルハチ股肱の臣であり、苦楽を供にした仲間であった。
   ゆえにヌルハチも信頼を置き、彼らも安心してヌルハチに直言できだと思われる。
   またそれと同時に、彼らは有力部族の子弟たちであった事も注目しておきたい。
   部族の有力者と常に相談する、部族共同体の側面が強い時代であった事を伺わせる。
      後にこの制度は主に一族の者で構成される議政王大臣会議に発展する。
   教科書では清は明同様、皇帝独裁の強い時代と書かれているが、それは正確ではない。
   清初、国政の重要事においては、皇帝を首班とする彼ら議政王大臣会議が最高意志決定機関となった。
 
      ただ即位した1616年には変化が伺える。
   大臣らが権限を思い違いし、ヌルハチに相談なく行動する雰囲気が出ていたのであろう。
   息子や大臣を召集し、5日に一度全員が集まり、勝手に決済する事を禁ずる旨を伝えている。
      ヌルハチは集団指導体制を望む一方で、独走を難く戒めた。

  


 

   ■ヌルハチの言動

 
   
   この章の最後にヌルハチの言葉を拾って、紹介しておきたい。
 清史を元にしている為、中国的聖人君子化されている部分は否めないが、彼がどういう国家を目指したが伺えるであろう。
   
   「国を作るにあたっては、公を貴ぶ事を心に留め、誠実さを貴び思慮を巡し、法を作り布告し、慎みを大事にする事である。
    もし公平な精神を失い、良い思慮を棄て、自分勝手な法を敷く様な事があれば、その者は国を食いつぶす虫の様なものだ。
    これからどうやって国を治めていくのか?
    私が言っている事をお前たちは守れているか?いや、守っていない。私の前だけ従っていれば良いものではない。
    私一人の頭では限界がある。どうしてお前たちが取るに足らない存在だなどと言えるだろうか?
    お前たちも内に考えを持っていることだろう。隠さず話して欲しい《
>>息子や大臣を集めた時の発言

   「卿らが人を推薦する時は門閥に拘ってはならない。ただ心持清明で、才能に溢れ、大業を補佐するに堪えられる者を推薦せよ。
    すなわち一芸に優れた者を、だ。当然、そういう者はなかなか見つからない。見つけたら、とにかく急いで高位に就かせよう《
   「天子は天に任ぜられる。廷臣は天子によって任ぜられる。卿ら大臣職は憧れの的であり、才能ある者が国政を任されるべきだろう。
    (卿らはゆえに登用されたのだから)知恵を惜しむな。国務はやる事が多く、だから賢才を集める必要がある。能力に応じて職を与えよう。
    もし行政・軍事・財政に適正の無い者が取り仕切れば、どうなってしまうのか?
    勇敢で用兵術に長けた者は軍を指揮させれば良い。経済に通じた者には国政を任せれば良い。
    法典をよく知る者には裁判を任せれば良い。儀典に慣れた者には国家行事を任せれば良い。
    それぞれこれという者を挙げよ。沢山の官職を用意してあるのだから、大至急、広く探すのだ《
>>五大臣・10ジャルガチ任命にあたって

    「私は率先して倹約を行い、どんな小さなものでも勿体無いと思う。お前たちも私に習って欲しいと思うのみだ《>>近侍の者に述べた言葉

   「利を嗜むな、義心を嗜め。
    お金を愛すな、徳性を愛せ。
    おおよそ国政というものは徳義を貴ぶ。
    自分は昔からこれを怠らなかった。お前等もこれを学べ《
   「天下に万能な人間はいない。
    知っている事もあれば、知らない事もある。
    できる事もあれば、出来ない事もある。
    それぞれその人にあった仕事を任せよ。そうすれば物事はスムーズに進む。《
>>息子たちに述べた言葉


   ヌルハチは始祖にあっては珍しく酒を呑まなかったという。
   大ハーンに即位したとはいえ、戦闘に明け暮れたのだから、贅沢をするヒマもなかったであろう。
   思えば20代で旗揚げし、60代で亡くなるまで息切れをする事がなかった。するヒマもなかったのかもしれない。
   唐の玄宗を見るに、国政の頂点を維持するのはかなりの体力と精神力が必要の様である(彼は息切れしてしまった)。
   清の康熙帝ですら、早く引退したいと嘆いたという。
   建国期と安定期では職務も負担も異なるかもしれない。しかし、このスタミナは敬朊に値する。
   現代的な価値観から見れば失点も多いかもしれないが、しばしば自身に限界があると語っているのは、普通なかなか言えない事ではないかと思う。
   
   

 
 

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