Sorry , only Japanese .

我が家に子供が生まれ、賑やかになりました。みなさまの御健康をお祈り申し上げます。・・・・・

メッセージボード:「





1。「全国石王会」の会員の皆様へ!!
未加入の「石王」姓の方がいらっしゃいましたならば、当方まで御連絡をお願いします。
会員名簿により手紙や電話等で適宜お互いに連絡をなさって下さい。

次回の全国大会について

平成23年の開催を済ませ、次回の幹事を北海道のK.I氏にお渡し致しました。
次回の開催場所は北海道の札幌市内で、開催日は平成25年9月10日です。




2。私について

小生の趣味の1つに「クラシック・ギター」があります。たとえば「禁じられた遊び(スペイン民謡)」とか「小さなロマンス(ワルカー作曲)」などです。あなた若しくは友人でこの趣味の方がおられましたら、男女をとわず当方までご連絡ください。サークル(場所:滋賀県湖南市、サークル名:サラバンド)メンバーをご紹介致します。
夜のしじまをつくギターの音色は、心も和み、いいものですよ。あなたもいかがですか?
ただし、小生は未熟です。



歌舞伎にも趣味があります。
歌舞伎十八番の一つに「勧進帳」があります。
初めて歌舞伎を鑑賞したのは先代松本幸四郎、すなわち初代松本白鴎の弁慶でした。
とても感動しました。
主君義経を助けんがために、安宅の関守の富樫の前で堂々と何も書かれていない勧進帳を読み上げる度胸や、最後の場面で、声こそ出さないが、所作で富樫に感謝し、またお客様へは無事にその舞台で弁慶のお役を務めることができた事に感謝し、花道を抱え飛び六法で引き下がる場面は何回鑑賞してもいいものですね。
義経を山伏と言い張る弁慶と、義経と知っていて弁慶の心を察する富樫との心のふれあいが、私はとても好きです。勧進帳を読み上げる時のせりふは「それ、つらつらおもん見れば、大恩教主の秋の月は、涅槃の雲に隠れ、生死長夜の永き夢、驚かすべき人もなし。(中略)帰命稽首、敬って白す。」です。

「どどいつ」
◇無事に関所を 通れてうれし
    六法(ロッポウ)踏む足 春の風
◇役目(ヤクメ)に生きるか 情けの道か
    風が富樫(トガシ)の 胸に吹く
◇移り変った 昭和の御代(ミヨ)に
    ほしい富樫(トガシ)の 思いやり


3。全国の石王さんへ!

石王の苗字の由来について当家に、下記の記録が残っています。
「人皇58世光孝天皇之御宇仁和元年乙巳(885年)ノ歳禁裏之御調納ヨリ蔵田郷庄申奉ル其節石王ノ先祖此計之頭領被仰付當地之御調司ル故五穀壱石貳石之字ヲ取リ石王蔵田民部藤原朝臣吉治被任領之」

江戸時代の儒学者に山崎闇斎がおりますが、その弟子に三宅尚斎がおり、さらにその弟子に石王塞軒なる者がおります。お墓は京都市の真如堂にあります。墓石には「石王黄裳先生」と刻まれています。この宅門3傑の1人が石王塞軒です。
石王塞軒(1701〜1780)」について
塞軒名は明誠、通称安兵衛、後康介、黄裳、の号あり。父は則之、元禄14年4月18日甲賀郡水口駅に生まれる。はやく京都三宅尚斎の門に入り講学数年、久米訂斎・井沢灌園と共に宅門3傑と称せられ、塞軒その魁たる。大洲侯に聘せられたが、親が老いたる故に辞して水口に帰り孝養する。親の没後、宝暦3年,江戸に下り仙台侯の請に応じて孟子を講じ、翌年阿波侯の聘に応ずる。居ること数年で職を辞し、再京に上って帷を下し道を講ずる。最太極図説に詳しく太極図説大意講義2巻を著す。時人性理断治、太極康介と併称する。安永9年正月21日没す。享年80歳。所著太極講義の他、読書適講・黄裳文集等がある。

石王文丸(1738〜1810)」について
石王塞軒の従弟、父を安治といい水口祠官で、兄を基治という。文丸通称矢田部兵衛と称し、少時より和歌を好み冷泉家の門に入り後、小沢芦庵に学び、諸国を漫遊する。閑静適意の地に至って仮居数月、最久しく長崎に寓して門人を導いた。終生煩累を厭いて娶らず。水口に帰って文化7年11月7日に没す。享年63歳。
 「春立つと いぶきの高嶺 はるばると 雪もかすみて 今朝は見ゆらむ」
 「みやびたる 宿の垣根に 植うるとも 口惜しからぬ 夕顔の花」

石王基治(1741〜1799)」
水口町水口神社祠官で、駿河守藤原姓、治重の嗣。宝暦2年の許状があり、石王文丸の兄である。文丸と同じく冷泉家の門に入って歌学を修め、諸歌人特に大阪野田の里の狂歌師兼歌学者如雲舎紫笛和尚と親しく和歌及び書を能くした。寛政11年正月26日没。年59。
 花ざかり それかあらぬか 峯ふもと 雲にふづみて にほふ春かぜ

石王治実」について
文丸の弟で、林道と号した。詳伝を得がたい。
 住みすてて 年ふる郷の 窓の竹 たれわが友と 今は見るらん

石王敏治(1791〜1859)」について
水口神社祠官、土佐守矢田部敏治といった。文化14年の祠官許状がある。小沢芦庵門の前波黒軒の門に入って歌を能くした。安政6年没、年69。
 秋霧の いとしもふかく こめにけり 山田の稲の ほの見ゆるまで

石王治安」について
水口神社の祠官、正徳5年石王治之の後を承けて吉田家から祠官の許状を受けた。出雲守藤原姓を名乗った。塵止軒と号し、歌には知足と署名がある。夙に吉田家から日本書紀の伝授を受けた。また、冷泉家から古今伝授を受け、神学歌学の権威者として重んじられた。著書に「二条家古今伝授書」、「神教経」、「宗徳教」(文元3年写本)がある。
 押分けし 雲の羽袖は 千早振 神代ながらの 国ぞたのしき

石王浪々(1888〜1944)」について
水口神社神官、名は義治。初め湖月後浪々と号す。初め花月吟社同人として和歌を能くしたが、後水口の俳人南青村の門に入って俳句に親しむようになった。ラジオ俳壇等に雄飛して名を知られたが、昭和19年8月15日、年57歳で没した。

また、室町時代の能面師に「石王尉(イシオウジョウ)」の作者である石王兵衛正友なる人物がおります。当家と関係があるのでしょうか?
石王兵衛については、「続々群書類従第16雑部」椛ア群書類従完成会発行の342ページにあります。
六作
福来石王兵衛正友 ( フクライ イシオウ ヒョウエ マサトモ )
人皇百一代後小松院、応永年中ノ人、越前国一条住、一説石翁兵衛、応永ヨリ今年迄四百五年、応永年間は西暦1394年〜1427年ですので、600年ほど昔になりますね。また「申楽談儀」によると、「越前には、石王兵衛、其後龍右兵門、其後夜叉又其後文蔵、其後小牛、其後徳若也」と世阿弥の同時代、および少し前の面作者の名を年代順にあげている。


左の写真は「石王尉」です。









立命館大学のHPによると『平安人物志』人名録に安永4年版(学者)の中に石王正敦なる人物名があります。
名前1として石王正敦、名前2として石王幸介、字は幸輔、居所は京都市の三条粟田口南裏町、その他として
石王塞軒(水口出身儒者、『国書人名辞典』1巻108ページ)の関係者か?
とあります。この人物も当家と関係があるのでしょうか?


当家は滋賀県甲賀市水口町に在住しておりますが、同町に御鎮座の「水口神社」と深い関わりがあります。
古文書の中には、「織田信長」の花押(かおう)」すなわち現在のサインに相当しますが、次のものがあります。
「水口大宮(水口神社のこと)むき天神(綾野天満宮のこと)並びに美濃部家之諸き次第はらひ之義、永代可為石王太夫物也仍令申付如件・・・元亀2辛未年(1571年)7月13日上総介(花押)」


日本全国でも非常に数少ない苗字の「石王」さん、メールを下さい。お待ち致しております。このページの背景の「五・三の桐」は当家の家紋です。








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