月宮殿山の由来 
上京町の四宮祭礼における出し物の変遷(四宮祭礼牽山永代伝記より)

  元禄六年の牽山練物番列の”ねりもの”の中に「小具足 上京町」

  享保十九(甲寅)年 「一、上京町小具足 木曽願書ねりものに替る」

  宝暦十(庚辰)年 「一、上京町木曽願書練物 玉井に替る」

  安永五(丙申)年の番列に「十四番 上京町 鳳凰臺山」 

  寛政三(辛亥)年「一、上京町鳳凰臺山 月宮殿に替る」


 ここにあるように、上京町は古くは練り物を出していました。木曽願書(きそのがんじょ)は
 木曽義仲が題材で、義仲の墓が大津にあることから、題材として取り上げられたのでしょうか。
 また、玉井(たまのい)は天孫神社のご祭神である彦火火出見尊と蝉丸神社のご祭神の豊
 玉姫が登場する物語であり、いずれも地元に関わりの深い出し物を出していたことになります。

 いっぽう鳳凰臺山とはどういった趣向の山であったかは不明です。鳳凰臺山は安永五年創建と
 されていますが、それを裏付ける確実な資料も残されていません。ただ、箱書きに安永五年の墨
 書が多いところから、鳳凰臺山の創建を安永五年と推測しているにすぎません。現存している部
 材で鳳凰臺山当時のものがあるのかどうかも不明です。唯一屋根を支える四本柱に”安永五年”
 の墨書があるので、もしかすると鳳凰臺山の頃からのものであるかも知れません。そのほかには
 旧の見送り下幕(鳳凰の図柄がある)や、旧の泥除あたりが鳳凰臺山に使われていた可能性が
 あります。


月宮殿山の意匠について

 月宮殿とは能楽の「鶴亀(喜多流では月宮殿)」から取材しています。
 あらすじは
 唐の玄宗皇帝が新年の節会に際し、月宮殿において毎年恒例の観亀の舞をご覧になります。
 鶴亀の長寿にあやかり、千年万年の延齢を授けるその舞に悦ばれ、皇帝自身も月宮殿にて、
 舞楽を奏で、臣下達は、四季折々の舞を舞って、国土豊かに太平の御代の、千代万代のめで
 たさを祝います。皇帝も、我が代の万歳を祝いつつ、輿丁の昇く輿に乗って、その名も目出度き
 長生殿に、還御されるというものです。

 月宮殿山では玄宗皇帝の前で鶴・亀の冠をつけた男女が皇帝の謡いに合わせて舞を舞う様を
 からくりで演じています。