昔から、前の祇園祭には神功皇后が遠征せられました出船の舩鉾が、後の祇園祭には凱旋の舩鉾が祭の掉尾を飾りました。この舩鉾は五百余年前、足利義教将軍の台命にて祇園祭が再興されました嘉吉元年(1441年)六月に此鉾も建立せられたらしいです。その後応仁の乱の犠牲となり、なくなりましたが、間もなく三十六基の山鉾が再起せられ、その中に此鉾も入っております。それが又も天明八年の京都の大火に全滅してしまいました。然し町内の人々は早速復興にかかり、文化・文政頃には各調度品も整い、飾りの織物も立派なものになりました。幕末元治元年七月十九日、維新の騒乱に、各山鉾と共に再び類焼し、舶形の木組などを焼いてしまいました。町内各戸でお預かりしていました数々の織物類や、舳の金幣、美事な刺繍の舵の外、大方の物が残り、特に古くからご神体神功皇后の御尊面が大切に守護して来られましたことは幸でありました。此御神面は人皇百十五代桜町天皇女御懐妊の節、
御腹帯と共に宮中へ宝暦八年寅六月十一日に差し出し無事御安産になり、その後迄御殿にお留置になり、菊の御紋付の文匣に御神面を納めて町内えお戻しになりました。其後も再三、宮中え差出しました。それで今だに安産の腹帯、安産の御守を授与されます。毎年此御神体の腹部に此帯を巻き、そのお下りを授けるの習はしになっています。皇后は臨月の御身を一ヶ月も後に易々と応仁天皇をお喜びになり、それにあやかって神功皇后を安産の神として崇めます。
(四条町文書より)
寄町制度当、大舩鉾については応永29年(1422年)6月14日、祇園祭礼を見物した、中原康富(公家?)の日記に舩の巡行を表す記事があり、この時期に舩があったことを示す。6月14日は後祭にあたるが、元々大舩鉾を所有していた舟屋町(東洞院御池上ル)の町史には、大舩鉾の建立は嘉吉元年(1441年)とあるので、1422年の舩は先祭の舩と考えられる。そうするとこの記述の6月14日ではなく7日ではないかと思われる。
現存する舩鉾や当大舩鉾がどのようにして作られたかを示す明確な資料はないようだが、現存の舩の説明を書いた高札には「神功皇后をめぐる説話によって鉾全体を船の形にし・・云々」とある。したがって、神功皇后がその昔、いわゆる「三韓征伐(現在においてはこの言い方は問題があるとして使用しない)」つまり今の朝鮮半島に出兵した際の往復の船、即ち行きの出陣の舩が現存の舩鉾、帰りの舩が当大舩鉾(凱旋舩鉾)である というのが通説になっている。「増補(祇園御霊会細記・・・文化9年藤田貞栄の筆記本のこと)の古実に「七日は行舩(ゆきぶね)なり、十四日は帰陣なれば、幡(はた)有といえども袋に入れ納め置きよし」(帰りはたたんで帰ったの意か)
四条町は明治2年まで、北四条町と南四条町に分かれていて、(南隣の舩鉾町にも北と南があり、またその隣の岩戸山町にはふたつのグループ{年寄}があった)鉾を出すのも隔年で受け持っていた。「増補」に「舳先大金幣一本、是文化十年癸酉六月新調、当年より龍頭は北四条町、大金幣は南四条町、いづれも隔年に出すなり」と記されている。
この龍頭は現存する舩鉾の「鷁首(げきしゅ)」と同じ構想と思われるので以前からあり、のちに南四条町の人々が大金幣を作り、龍頭は北四条町の専用としたのではないか。また増補には「{年寄}も両方にあり、両町より申し合わせ鉾を出す。鉾は一つ也」と特に断ってある。
祇園会に山鉾を出すのは今も昔も多額の費用を要する。これを山鉾町だけに負担をさせることは祇園会を不可能にする。そこで豊臣秀吉が天正19年より、新しくできた町や山鉾を出していない町を特定の山鉾の「寄町」(応援団)に指定し、これらの町々から「地ノ口米」と称する物を拠出させ、これを山鉾町の資金に充てた。
四条町の寄町
北四条町
東洞院通り御池下ル 笹屋町 柳馬場通り二条下ル 等持寺町
高倉通り四条上ル 帯屋町 高倉通り錦小路上ル 貝屋町
いづれも地ノ口米 二石六斗
南四条町
東洞院通り御池上ル 舟屋町 柳馬場通り御池上ル 虎石町
二条通り東洞院東入ル 松屋町 二条通り高倉東入ル 観音町
いづれも地ノ口米 二石三斗
現存する懸装品等(平成12年「大舩鉾」装飾品展目録より)
| 前 掛 | 雲龍波濤文様綴織 | |
| 後 掛 | 雲龍波濤文様綴織 | |
| 舵 | 緋羅紗地雲龍波濤文様刺繍 | |
| 水 引 | 緋羅紗地飛龍波濤文様刺繍 | |
| 水 引 | 金地雲龍文様 | |
| 水 引 | 緋羅紗地鳳凰文様刺繍 | |
| 掛 軸 | 昭和5年 中島荘陽 筆 | |
| 大金幣 | ||
| 敷 物 | 緋羅紗地唐草文様捺染 | |
| 御神体衣裳 | 立菱固綾小直衣 | |
| 御神体衣裳 | 唐花顕紋紗狩衣 | |
| 御神体神宮皇后 | 腹帯 | |
| 御 守 | ||
| 中 啓 | ||
| 鉦 | 天保10年(1839年) 南条勘三郎 作 | |
| 鉦 | 昭和59年(1984年) 五代目南条勘三郎 作 | |
| 飾 房 | ||
| 古文書 | 神事勘定帳 慶応2年(1866年) | |
| 通達書 明治8年(1875年) | ||
| 目 録 |


昭和60年宵山飾り 於 友禅会館