[法話]
昨年の夏に亡くなられましたが、スイスにジャン・エラクルという念仏者がいました。
もとはカトリックの司祭で、真剣な求道の過程でたまたま釈尊の教えに遇い、さらに親鸞聖人の教えを知って、それに強く惹かれて浄土真宗に改宗した人です。そしてジュネーブに信楽寺というお寺をつくって、毎週日曜日に法座を開き、多くの人びとに教えを伝えてきました。その著『十字架から芬陀利華へ』という本に、師はみずからの精神の遍歴を詳しく述べています。それによると、親鸞聖人の教えを学ぶにつれてエラクル師がもっとも強く心を惹かれるようになったのは、「正信偈」の、
極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。
(『浄土真宗聖典(註釈版)』207頁)
というところだったそうです。そして、これは自分のために説かれたものだとしか思えないというのです。先に紹介した著書で師は、「煩悩におおわれ、怒りっぽく、享楽を好み、愚かで傲慢」な自分であるにもかかわらず、「そういう私を包み込む大慈悲がありました」と書いています。
さて、今月の言葉は、『大無量寿経』の四十八願の中の第三十三願の意を汲んだもので、阿弥陀さまの大悲に遇うと、私たち凡夫の本質である煩悩が照らし出され、しかもその煩悩の身のままが大悲の光につつまれていることをも知らされるということでしょう。煩悩のさわりを離れるということは決して煩悩がなくなるということではありません。私たちは一生の間、貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴(おろかさ)という三大煩悩を離れることができないことは、親鸞聖人が『一念多念証文』に、
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず……
(『浄土真宗聖典(註釈版)』693頁)
と述べておられるとおりです。しかもこの煩悩が救いのさまたげになるのではなく、このような私がそのままで阿弥陀さまの大悲に包まれている安心と喜びに変わるのです。
阿弥陀さまのお浄土を願うべくもない煩悩のこの身が、その煩悩ゆえにこそ大悲のはたらく目当てであることを知らされるとき、それはなにものにも代え難い大きな安堵となります。すなわち、身も心もやわらぐのです。
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