相応和尚伝1


肖像画

現在、長浜市にある「五先賢の館」において海北友松・小堀遠州・片桐且元・小野湖山らと共に、千日回峰行の資料等が展示されている。



近江の五先賢

和尚の出身地は、近江国浅井郡(長浜市北野町)俗姓を檪(くぬぎ)氏と称した。父親は非常に穏やかで、郷土の人々からも広く敬愛され、また夫婦揃って非常に信仰心にも厚かったと言われている。二人の間には長らく子どもが無かったので、常に子どもを授かること願っていたが、ある夜、母親は短剣を呑む夢を見て懐妊し、天長八年(八三一年)に男子を出生した。この男子がのちの相応和尚だと伝えられている。
 


出家と法名「相応」

比叡山に入ったのは、承和十二年(八四五年)十五才の時であった。そして、十七歳の時に出家。そのころから修行の暇をみては毎日山中に入り、美しい花を取っては根本中堂の薬師御宝前に捧げることを密かに続けていた。彼の僧坊の近くには、円仁の山坊があり、円仁は常にこの奇特の行を欠かさぬ年若い学生に注目していた。
 円仁が座主になった斎衝元年(八五四年)、相応は初めて座主から直接の声をかけられ、その信心の堅固なところを見出されて、早速にも得度せしめ自分の直弟子となるように勧められた。しかし、そのころ毎夜根本中堂に参籠して、本尊薬師の御宝前に、五体没地して悲願の血涙を流し、受戒の選に入らんことを祈願する若い僧侶があったので、彼はまずその者を自分の代わりに得度せしめられるよう推し、自分はその後に機会を得て受戒させていただきたいと申し出た。円仁はこの申し出を聞いて、彼のゆかしい善行を益々賞したと言われている。
 果たして斎衝三年(八五六年)になると、大納言西三条良相から円仁座主に宛てて一通の書信が届いたが、それは将来自分の供養のために、自分に代わって修行謹慎の僧がいれば得度せしめてほしい。我はその僧を一生の師範と仰ぎ、導師としての深い瑞縁を結んでいきたい。この善根に相応しい若い学徒を求めたいということが書き連ねられてあった。円仁は直ちに彼を呼びだし、西三条大納言家の良縁に応ずる者として得度せしめ、西三条良相の名「相」の一字を取り、「汝良縁の相応するところなり」として、ここにその法名を「相応」と呼ぶことになった。相応の二十五才のときであった。