相応和尚伝2







千日回峰

この日から相応は、いよいよ「籠山十二年」の修行に入ることとなった。籠山をはじめて五年ほどたったころ、円仁からは不動明王法、別尊儀軌護摩法などを親しく授けられたが、深くその秘法に感じ、これこそ将来自分がなお深く探究し、更に大成していくべき指針を示す秘法でるとし、いつかはこの法によって日本国土にも現身の不動明王を顕現し、叡岳には生身不動明王を留めて、法と国との鎮護にしたいというのが、大きな生涯の悲願ともなって拡がり始めたのである。以来、相応は山中さらに幽深の地を求めて歩いたが、ある夜薬師如来の示現をこうむり、比叡山南岳の地を指示せられたので、ここに一草庵を結んで苦修練行を重ねる日が始まった。
 今日の東塔無動寺渓の歴史はここに始まる。斯く無動寺建立の基礎を拓いたというので、別名を「建立大師」或いは「無動寺大師」などとも称せられる所以である。
 無動寺の草庵において、最初三カ年は常に六時の行法を行い、「鎮護天下国土」を祈請し、暇さえあれば大般若経を転読しつつ、自他の罪障消滅を祈るのが主たる行儀となっていた。相応和尚は、当時各地の名山大岳において盛んに行われていた修験道的な色彩も次第に取り入れて整備、大成し、一種独特の山岳遊巡の法を編み出した。そして、これを回峰修験と称した。
この、回峰修験とは、比叡山東塔の無動寺明王堂を拠点として、山中の石仏・霊木などの聖地を巡礼し、一日に約三十キロの行程をひたすら歩き通す荒行である。今日では「百日回峰」と「千日回峰」があり、百日回峰を終えた行者のうち、特に選ばれた者が千日回峰を行ずることができる。千日回峰は足かけ七年間をかけて行われる修行で、途中、五年目には「堂入り」という人体の極限に近い荒行が待っている。堂入りとは、足かけ九日間、無動寺明王堂に籠り、この間、不眠、断食、断水、不横臥でひたすら不動明王の真言を唱え続けるというものであり、これらの行はいかなる理由があっても中断することは許されず、千日回峰に臨む際には、自ら命を絶つことも覚悟していると言われている。 
 また、回峰行者は不動明王の表現とされていることから、その衣帯装束はみな不動尊の象徴となっている。頭には前後に長い檜製蓮華笠を頂き、足下は白脚絆に白足袋、蓮華草履。腰に降魔の剣を差し、右手には檜扇、左手には念珠、みな生身不動を擬する姿とされている。