慈覺大師和讚




慈覺大師和讚
歸命頂禮比叡の四祖     慈覺大師の別傳を
尋て少しく記さんに     諱は圓仁俗姓は
壬生と聞ゆる下野の     都賀の郡の産にして
崇神天皇第一の       皇子の苗裔なりとかや
頃は延暦十三年       誕生日の嘉氣を見て
大慈寺廣智は此兒を     予に與へよと約せしに
年是九歳母公は       前語を愼み付屬しぬ
性質聰敏丈五尺       經藏中に誓ひては
觀世音經搜り得つ      頻りに修齊し内典の
大旨を稍く悟りける     夢に一人の大沙門
笑を含てものかたる     是は叡山の大師そと
示すを聞き慕しき      意を廣智は知ぬれば
開山大師に屬しける     大同三年十五歳
夢相に違はぬ師を仰ぎ    常に謹み事ふれは
鐘愛深く止觀なる      眞俗二諦の不生滅
世人未た解せされは     汝此義を流傳して
圓意を弘通せよかしと    文義の骨隨授かりて
聰明年少十が中       唯一人そ領知しき
弘仁六年沙彌と成り     翌年受具して執小は
師の歎なれは明の春     圓頓大戒をぞうけし
其後誓て扉を閉ちつ     一行三昧修しぬれは
四十に及て身もつかれ    我命久しからしとて
幽かに閑けき北洞に     終を待程練行し
天の妙藥夢に得て      道標たちまち健かに
四種三昧を修行して     如法堂をそ造りける
此頃遣唐使をえらぶ     ときに先師の夢告にも
入唐求法せしめてん     但浪風に漂流し
舟中辛苦を愍めり      果して請益敕有て
承和五年の六月に      大使藤の朝臣と
太宰府よりそ纜を觧く    萬里の洪涛楫を折り
危きことも多かりて     開成三とせのふみ月に
揚州海陵縣につき      府中の開元寺に入りて
節度使監軍立代り      惠施する絹は十余匹
遍く寺僧に與えてそ     その一分をそ領しける
上都の高僧宗叡に      悉曇梵學研究し
全雅阿闍梨に金頂の     潅頂曼荼羅相傳ふ
はやくも四年歸朝至り    海上たちまち逆風に
吹れて海州界による     宿願遂んと身を抽て
東海縣にととまれは     日暮し路を海賊も
慈心を起こて送りける    第二の船も風あしく
又登州へ吹もとす      冥護を赤山明神に
請て本願成せんと      祈れはある夜に大千を
かくる秤子を買得たる    ゆめみて無上の法門を
得へき驗しと歡ひぬ     新羅の張詠曾て我
國恩ありと宿望の      聖跡巡禮ゆるしふみ
持來てなくさめ奉る     刺使は旅糧を施しぬ
龍興寺に到れるに      副使も盛膳供養しつ
判官蕭慶中よりそ      禪法門をつたへける
中音
五台山に登りては      諸徳に謁して主客とも
たかひに文殊と疑ひぬ    北台にては山上の
雲霧か中に一隻の      可怖畏の獅子そ顯れぬ
普通院の房よりは      五色の放光祥雲の
師の頂上を照せるを     數十僧見て驚歎す
志遠和尚に台教を      三十七卷傳寫しつ
南台にては聖灯の      普く照らすを見玉ひぬ
文殊閣のち造りしは     此感應の故とかや
八月長安城にして      上將軍の仇士良
奏して元政阿闍梨にそ    金潅受つ明年に
義眞に從い胎潅頂      並びに蘇悉地傳へける
刀子を得りし夢により    五台の文殊の守護と知る
九佛閣を圖せしむる     畫工の怠り怒りては
金剛神そ責けらし      玄法寺にて法全の
阿闍梨に儀軌を傳習し    六とせの間に諸經論
五百五十有九卷       兩部曼荼羅舍利道具
二十一種そ得たまいし    其後南天寶月や
城中衆徳も祕けいをは    惜しまず爲に指授しけり
會昌天子の破法にも     先師の冥助あつけれは
たやすく歸國の牒至る    大夫等云くもろこしの
佛法和尚に隨て       東に去るとそなけきける
ある夜の夢に達磨等     諸祖の擁護の告げを得て
心たのしき春風に      商船にてそ進發す
みのりも早き秋の空     筑紫にこそは着にけれ
今年唐の大中元       我朝承和十四年
ことさら旅懷を敕問す    嘉祥元年めでたくも
都の春の花衣        吾立杣に三千の
僧徒は雲とあつまりて    隨喜贊歎潅頂を
願えば六月十五日      件の法を修すへしと
大法師位記賜い       乃至まことに黒白の
津梁なりとそ記しける    年の三長齊に屬しき
來る五月の甘露日      聖算無量法灯の
絶せぬ修行に内藏寮の    千僧供を敕賜わり
檢校參議善男にて      三昧耶戒者は千余人
太子踐祥の除災には     熾盛光佛頂をこそ
最勝なれと奏しつつ     惣持院を建立し
五台の念佛うつしては    常行三昧始行せり
上音
仁壽四年に座主と成     金剛頂又蘇悉地經
各七卷疏を作り       佛意如何と祈れるに
曉夢に日輪射ると見て    冥感ありて後の世に
傳るへしと悟り知る     貞觀元年大内に
黴れて菩薩の大戒を     法號ともに授けける
つついて都の受戒人     潅頂男女合しては
凡そ二千人余なり      顯揚大戒論も成る
靈石埋みて宿願の      文殊樓をそ造立す
この程熱病患ひてそ     六年正月十三日
諸弟子に遺誡したまはく   遍昭所求の大法は
安惠に受よ門徒等は     楞嚴院を修繕せよ
好學輩は經論を       他處にな移しそ來たり見よ
禪院建立せんことは     彼土に在りし日赤山の
神に契れる宿願そ      同志かならす果すへし
我沒後には樹を植えて    只そのしるしを遺すへし
此外遺命多かれど      要を摘んでここに載す
黄昏たちまち流星あり    翌晩弟子の一道は
房中音樂あるをきく     大師は諸事を辨了し
乃ち淨身香を燒く      大毘盧遮那佛四親近
毎名諸弟子に誦念させ    自ら彌陀を念しつつ
稍子の刻にいたるころ    北首右脇にしてこそは
永くせん化したまひけれ   時に春秋七十一
夏臈は四十九年にて     實に貞觀六年の
正月十有四日にて      知も知ぬも悲惜せり
大師天性寛柔に       喜怒をは色に形はさす
身は滄溟を渡り得て     三密一乘みなもとを
難厄凌きて窮めしは     佛の護念そ深かりし
八年七月隘號を       慈覺大師と賜りぬ
或いは上足承雲は      棺上隻履のみを見つ
開けば靈體在まさす     この日日光山堂堂の
落政に師は虚空より     一履を携え下り來て
その慶導を勤めきと     のちに傳へてきこえけり
又同州の七所にて      同時に説法即日に
羽州立石寺の龕に      宴座下摩ふともいへり
ああ奇なる哉妙なりや    本より觀音應迹と
仰げば心も及はれす     慈顏の月は隱るとも
冥鑑絶せぬ光風に      峯雲たたよう末學の
谷水むせふ塵語軟語     第一義空に歸し給へ

慈覺大師和讚
尾張國春日井郡野田
密藏院大僧都圓龍謹撰印施



ホームへ 資料室へ 美術室へ 閲覧室へ 記念館へ
怪Vo\oV kanden@mx.biwa.ne.jp//HGF00575@nifty.ne.jp
◆Biwaネットへメール
◆Niftyへメール