同和対策審議会答申

1961(昭和36)年、政府は同和対策審議会を発足させ、内閣総理大臣は「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方策について」諮問しました。審議会は全国調査や精密調査を行ったり、総会を42回、部会を121回、小委員会を21回開催したりするなど、4年間にわたって慎重に審議を重ね、1965(昭和40)年8月11日に答申しました。
 答申は第一部「同和問題の認識」、第二部「同和問題の経過」、第三部「同和対策の具体案」の三部構成になっていますが、その前文、及び第一部について掲載します。

昭和40年8月11日
内閣総理大臣 佐藤 栄作 殿
同和対策審議会会長 木村 忠二郎
昭和36年12月7日総番194号をもって、諮問のあった「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方策」について審議した結果、別紙の通り答申する。
前文
昭和36年12月7日内閣総理大臣は本審議会に対して「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方策」について諮問された。
いうまでもなく同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる課題である。したがって、審議会はこれを未解決に放置することは断じて許されないことであり、その早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題であるとの認識に立って対策の探究に努力した。その間、審議会は問題の重要性にかんがみ存置期限を二度にわたって延長し、同和地区の実情把握のために全国および特定の地区の実態の調査も行った。その結果は付属報告書のとおりきわめて憂慮すべき状態であり、関係地区住民の経済状態、生活状態、生活環境等がすみやかに改善され平等なる日本国民としての生活が確保されることの重要性を改めて認識したのである。
したがって、審議もきわめて慎重であり、総会を開くこと42回、部会121回、小委員会21回におよんだ。
しかしながら、現在の段階で対策のすべてにわたって具体的に答申することは困難である。しかし、問題の解決は焦眉の急を要するものであり、いたずらに日を重ねることは許されない状態にあるので、以下の結論をもってその諮問に答えることとした。
時あたかも政府は社会開発の基本方針をうち出し、高度経済成長に伴う社会経済の大きな変動がみられようとしている。これと同時に人間尊重の精神が強調されて、政治、行政の面で新しく施策が推進されようとする状態にある。まさに同和問題を解決すべき絶好の機会というべきである。
政府においては、本答申の報告を尊重し、有効適切な施策を実施して、問題を抜本的に解決し恥ずべき社会悪を払拭して、あるべからざる差別の長き歴史の終止符が一日もすみやかに実現されるよう万全の処置をとられることを要望し期待するものである。
第1部 同和問題の認識
1.同和問題の本質
いわゆる同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においても、なおいちじるしく基本的人権を侵害され、とくに、近代社会の原理として何人も保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、最も深刻にして重大な社会問題である。
その特徴は、多数の国民が社会的現実としての差別があるために一定地域に共同体集落を形成していることにある。最近この集団的居住地域から離脱して一般地区に混住するものも多くなってきているが、それらの人々もまたその伝統的集落の出身者なるがゆえに陰に陽に身分的差別のあつかいをうけている。集落をつくっている住民は、かつて「特殊部落」「後進部落」「細民部落」などの蔑称でよばれ、現在でも「未解放部落」または「部落」などとよばれ、明らかな差別の対象となっているのである。
この「未解放部落」または「同和関係地区」(以下単に「同和地区」という。)の起源や沿革については、人種的起源説、宗教的起源説、職業的起源説、政治的起源説などの諸説がある。しかし、本審議会は、これら同和地区の起源を学問的に究明することを任務とするものではない。ただ、世人の偏見を打破するためにはっきり断言しておかねばならないのは、同和地区の住民は異人種でも異民族でもなく、疑いもなく日本民族、日本国民である、ということである。
すなわち、同和問題は、日本民族、日本国民のなかの身分的差別をうける少数集団の問題である。同和地区は、中世末期ないしは近世初期において、封建社会の政治的、経済的、社会的諸条件に規制せられ、一定地域に定着して居住することにより形成された集落である。
封建社会の身分制度のもとにおいては、同和地区住民は最下級の賎しい身分として規定され、職業、住居、婚姻。交際、服装等にいたるまで社会生活のあらゆる面できびしい差別扱いをうけ人間外のものとして、人格をふみにじられていたのである。しかし明治維新の変革は、同和地区住民にとって大きな歴史的転換の契機となった。すなわち、明治4年8月28日公布された太政官布告第61号により、同和地区住民は、いちおう制度上の身分差別から解放されたのである。この意味において、歴史的な段階としては、同和問題は明治維新以後の近代から解消への過程をたどっているということができる。しかしながら、太政官布告は形式的な解放令にすぎなかった。それは単に蔑称を廃止し、身分と職業が平民なみにあつかわれることを宣言したにとどまり、現実の社会関係における実質的な解放を保障するものではなかった。いいかえれば、封建社会の身分階層構造の最底辺に圧迫され、非人間的な権利と極端な貧困に陥れられた同和地区住民を、実質的にその差別と貧困から解放するための政策は行われなかった。したがって、明治維新後の社会においても、差別の実態はほとんど変化がなく、同和地区住民は、封建社会とあまり変わらない悲惨な状態のもとに絶望的な生活をつづけてきたのである。
その後、大正時代になって、米騒動が勃発した際、各地で多数の同和地区住民がそれに参加した。その後、全国水平社の自主的解放運動がおこり、それを契機にようやく同和問題の重要性が認識されるにいたった。すなわち政府は国の予算に新しく地方改善費の名目による地区の環境改善を行うようになった。しかし、それらの部分的な改善によって同和問題の根本的解決が実現するはずはなく、同和地区住民はいぜんとして、差別の中の貧困の状態におかれてきた。
わが国の産業経済は「二重構造」といわれる構造的特質をもっている。すなわち。一方には先進国なみの発展した近代的大企業があり、他方には後進国なみの遅れた中小企業や零細経営の農業がある。この二つの領域のあいだには質的な断層があり、頂点の大企業と底辺の零細企業とには大きな格差がある。なかでも、同和地区の産業経済はその最底辺を形成し、わが国経済の発展からとり残された非近代的部門を形成している。
このような経済構造の特質は、そっくりそのまま社会構造に反映している。
すなわち、わが国の社会は、一面では近代的な市民社会の性格をもっているが、他面では、前近代的な身分社会の性格をもっている。今日なお古い伝統的な共同体関係が生き残っており、人々は個人として完全に独立しておらず、伝統や習慣に束縛されて、自由な意志で行動することが妨げられている。
また、封建的な身分階層秩序が残存しており、家父長制的な家族関係、家柄や格式が尊重される村落の風習、各種団体の派閥における親分子分の結合など、社会のいたるところに身分の上下と支配服従の関係がみられる。さらに、また、精神、文化の分野でも昔ながらの迷信、非合理的な偏見、前時代的な意識などが根づよく残っており、特異の精神風土と民族的性格を形成している。このようなわが国の社会、経済、文化体制こそ、同和問題を存続させ、部落差別を支えている歴史的社会的根拠である。したがって、戦後のわが国の社会状況はめざましい変化を遂げ、政治制度の民主化が前進したのみでなく、経済の高度成長を基底とする社会、経済、文化の近代化が進展したにもかかわらず、同和問題はいぜんとして未解決のままでとり残されているのである。しかるに、世間の一部の人々は、同和問題は過去の問題であって、今日の民主化、近代化が進んだわが国においてはもはや問題は存在しないと考えている。けれども、この問題の存在は、主観をこえた客観的事実に基づくものである。
同和問題もまた、すべての社会事象がそうであるように、人間社会の歴史的発展の一定の段階において発生し、成長し、消滅する歴史的現象にほかならない。したがって、いかなる時代がこようと、どのように社会が変化しようと、同和問題が解決することは永久にありえないと考えるのは妥当でない。また、「寝た子を起こすな」式の考えで、同和問題はこのまま放置しておけば社会進化にともないいつとはなく解消すると主張することにも同意できない。
実に部落差別は、半封建的な身分的差別であり、わが国の社会に潜在的または顕在的に厳存し、多種多様の形態で発現する。それを分類すれば、心理的差別と実態的差別とにこれを分けることができる。心理的差別とは、人々の観念や意識のうちに潜在する差別であるが、それは言語や文字や行為を媒介として顕在化する。たとえば言葉や文字で封建的身分の賤称をあらわして侮蔑する差別、非合理な偏見や嫌悪な感情によって交際を拒み、婚約を破棄するなどの行動にあらわれる差別である。実態的差別とは、同和地区住民の生活実態に具現されている差別のことである。たとえば、就職・教育の機会均等が実質的に保障されず、政治に参与する権利が選挙などの機会に阻害され、一般行政諸施策がその対象から疎外されるなどの差別であり、このような劣悪な生活環境、特殊で低位の職業構成、平均値の数倍にのぼる高率の生活保護率、きわだって低い教育文化水準など同和地区の特徴として指摘される諸現象は、すべて差別の具象化であるとする見方である。
このような心理的差別と実態的差別とは相互に因果関係を保ち相互に作用しあっている。すなわち、心理的差別が原因となって実態的差別をつくり、反面では実態的差別が原因となって心理的差別を助長するという具合である。そして、この相関関係が差別を再生産する悪循環をくりかえすわけである。
すなわち、近代社会における部落差別とは、ひとくちにいえば、市民的権利、自由の侵害にほかならない。市民的権利、自由とは、職業選択の自由、教育の機会均等を保障される権利、居住および移転の自由、結婚の自由などであり、これらの権利と自由が同和地区住民にたいしては完全に保障されていないことが差別なのである。これらの市民的権利と自由のうち、職業選択の自由、すなわち就職の機会均等が完全に保障されていないことが特に重大である。なぜなら、歴史をかえりみても、同和地区住民がその時代における主要産業の生産過程から疎外され、賤業とされる雑業に従事していたことが社会的地位の上昇と解放への道を阻む要因となったのであり、このことは現代社会においても変わらないからである。したがって、同和地区住民に就職と教育の機会均等を完全に保障し、同和地区に滞留する停滞的過剰人口を近代的な主要産業の生産過程に導入することにより生活の安定と地位の向上をはかることが、同和問題解決の中心的課題である。
以上の解明によって、部落差別は単なる観念の亡霊ではなく、現実の社会に実在することが理解されるであろう。いかなる同和対策も、以上のような問題の認識に立脚しないかぎり、同和問題の根本的解決を実現することはもちろん、個々の行政施策の部分的効果を十分にあげることをも期待しがたいであろう。

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