よりよく生きるために

古典(古事記・日本書紀等)の神話にも明らかなように、神々さへも過ちを犯されますが、神々は常に反省と向上の道を歩まれて、自らの犯された過ちを改めるために「みそぎ」や「はらへ」を事始められておられます。

もちろん人も、失敗したり、時には知らずに過ちを犯することがあります。
これを放任しておくことは、神の御心に背くことであり、人間として退歩するだけではないでしょうか?

より良く生きるために、浄明正直な心に立ち返り、神々から生みなされた人間本来の誠の姿で生きたい

そのためにも、人々が幸福な人生を送るために欠く事のできない人権を考えるための情報発信になればと、このホームページを作成しています。


人権とは

一言でいえば、「社会において幸福な生活を営むのに必要な人間として当然にもっている固有の権利」ということができます。
即ち、すべての人間が、生まれながらに持っている能力を、日々の生活の中で最大限に発揮して、より幸福な人生を送るために欠く事のできない権利といえます。

人権は、人間の尊厳と表裏一体の関係にあります。ですから、人権が尊重されないところでは人間として尊厳を保つことができず、反対に人間の尊厳が認められないところでは、人権の尊重もありません。人権の尊重は、人間の尊厳の自覚とともに生まれ、人間の尊厳の自覚が強くなればなるほど、人権の尊厳も強く要求されてくるものです。
ですから、人権を尊重し、人権が侵害されないようにするには、まず私たち一人ひとりが、人権とは何か、人権の尊重とはどういうことか、はっきり理解しなくてはなりません。

ただ人権といっても、私たちの日常生活においては空気や水のようなもので、人権が尊重されている間はその大切さに気がつかないものです。
それが侵害されたとき、初めてこれは大変だと気づくのです。しかし、侵されてしまってからでは既に手遅れなのです。憲法12条も「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。・・・」と規定して、人権の保持については、国民自身がその努力をしなければならないという責務と義務を負っていることを明らかにしています。
人権思想の普及と定着が何よりも必要とされる理由は、ここにあるのです。

人権とは、いのちを大切にすること...ではないでしょうか?


同和問題とは

同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においても、なおいちじるしく基本的人権を侵害され、とくに、近代社会の原理として何人も保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、最も深刻にして重大な社会問題である。(昭和40年8月11日同和対策審議会答申)とある通り、我が国固有の重大な人権問題であるのです。

未だに多くの人が苦しんでいる。そんな社会で良いのでしょうか?

予断と偏見

私たちは日頃ものを見たり考えたりするとき、頭からこうだと決めてかかり、誤ったも のの見方をしている場合がよくあります。
その際、充分な考慮や調査をしないで事前に判断することを 「予断」、相手に対する非好意的で否定的な見解を「偏見」と言います。それに対して「差別」とは故意に人権を認めなかったり侵したりすることで、社会的に疎外する ことなのです。
差別が予断と偏見を生み、予断と偏見が差別を支えるといった関係を持っています。
「予断と偏見」は一人ひとりの意識の問題でもあります。人を見下したり、遠ざけ たりすることによって自己の優位性を保とうとする個人の弱さがそれを支えているのです。

その克服のためには人権問題を正しく学び、自己の確立をはかることが大切なのではないのでしょうか?


違うことを尊ぶこと

神社は、八百万の神々の信仰と言われます。神々が個性をもって独立しておられ、互いに助け合い、足りないものを補っておられるのです。特定の神の信仰だけを絶対化していないのです。
自分と違うことを尊ぶ。共生共栄なんですね。

もちろん神社に集まる人々も、仕事や思想、もちろん生活体験も違います。ですから信仰の受け取り方も違います。
けれどもそういう違いを超えてお祭りで一つになります。議論があっても、意見が違っても、感情が分かれていても神まつる時は一つとなります。

実際生活の中でも、お互いを尊重し、助け合って暮らしませんか?


生日の足日(いくひのたるひ)

祝詞の中で「今日の生日の足日に」という古くからの表現があります。今日という日が、最も相応しい良き日である、という意味合いの言葉ですが、一日一日を神さまの恩頼によって、生命を充実して生活を営みたいとする人の心根に基づく表現ともいえます。

日に吉凶なし、といわれるように本来日毎に差異はないといえます。大切な日々毎日を充実するために、如何様に自分自身の生活を慎しむのか、という観点から本来日の吉凶が受け止められてきたのではないでしょうか?

日に吉凶があるのではなく、生活態度にこそ吉凶があるのです。


kasajima@mx.biwa.ne.jp
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