小谷城跡

小谷城を舞台に繰り広げられた歴史絵巻。
湖北の歴史は小谷城を舞台に繰り広げられました。一度、小谷城跡を見ていただければ、その理由がわかるはずです。側を北国脇街道が近江と越前を結び、まさに自然の要塞。それゆえに多くの武将たちがここを我がものにせんと競ったのでしょう。
初めてここに城を築いたのが浅井家初代の亮政。大永4年のことでした。以後、浅井家は江南を支配していた六角家と近江の覇を競うことになるのですが、これも三代の長政の時代になると完全に浅井家の優位が確定します。長政は賢君であっただけでなく、武将としてもぬきんでた力を持っていたのです。

小谷城案内図

●国手旨定史跡の典型的な山城

浅井氏の居城小谷城は、湖北町と浅井町にまたがる小谷山上にあり、湖北一市三郡のほぼ中心にあってこれを一望することができます。北陸路と中仙道の要所を押さえ、また琵琶湖にも近くまさに重要な地にあります。今もなお、山上には浅井三代の城の遺構、麓の清水谷には根小屋跡が残っていて、典型的な中世山城として、国の指定史跡になっています。小谷城跡は規模も極めて壮大であり、地形をたくみに利用した独特の工夫も凝らされており、日本五大山城の一つに数えられています。

五大山城とは、北から
上杉氏の越後春日山城
畠山氏の能登七尾城
浅井氏の近江小谷城
六角氏の近江観音寺城
尼子氏の出雲月山冨田城
を言います。

戦国の山城の場合、近世の城と違う点がいくつかあります。近世の城は平城が一般的なので、満々と水をたたえた水堀と石垣に代表されますが、戦国の山城は土塁さ空堀が特徴です。土塁に囲まれた平坦面を曲輪と言いますが、山の自然地形を利用しながら土塁・空堀・曲輪をうまく配置して、いかに攻められにくい城を作るかがポイントでした。城跡を歩きながら、「ここに空堀があるのはどうしてなのだろうか」「この土塁は敵をこっちに誘い込むためのものかもしれない」などと、戦国武将の知恵と工夫の足跡をさぐることができます。