小谷城の生い立ち・小谷城の七不思議

●小谷城の生い立ち

小谷城は初代亮政が大永年間(1521〜1528)に築城したものとされ、落城は三代長政の天正元年(1573)8月28日と言われています。小谷城攻略の武功第一として、秀吉は浅井氏遺領のうち十二万石相当と小谷城を拝領し、9月中には入城します。後に天下を取る秀吉ですが城持大名に初めてなったわけです。その後約二年半を在城し、天正4年(1576)春頃今浜を長浜と改め、石畳、城楼、町屋、寺院などを移しました。ここに小谷城は廃城となります。このように時期が明瞭であり、廃城後破壊から守られたことは、城郭研究上極めて重要なことであり、学術的にも大変価値の高いものといえます。部分的に行なわれた発掘調査の結果では、清水谷には焼土が発見されましたが、山の上では発見されませんでした。小谷城は落城の際燃えなかったのです。
長浜城は、のちに井伊氏によって彦根城へ移されます。現に西の丸の三重角櫓の説明札には、「元小谷城天守」と書かれております。

●小谷城の七不思議

  1. 浅井氏先祖のナゾ
    古代からの豪族であるとう説と、藤原三条大納言公綱説、物部守屋説と意見が分かれているが、いずれと断定しがたい。
  2. 築城年代のナゾ
    浅井三代記によると、永正13年(1516)9月28日に起工し、同年10月20日に完成したとあるが、これについてはそれ以前から築かれていたという説もあるし、またもっと後の年代であるともいう。
    確かな資料によって確認できるのは、「朝倉宗滴話記」という資料により、大永5年(1525)7月16日以前には既に存在していたということである。
  3. 建造物のナゾ
    小谷城は、板葺きかこけら葺きであったらしく、瓦の破片も出ていない。三層の天守矢倉は、現在彦根城西北の鐘の丸といい、また今はなき土佐矢倉ともいう。
  4. 飲料水のナゾ
    馬洗池の水は、はるかに遠い天吉寺山の元池からサイフォン仕掛の樋で採ってきていたという伝説がある。そのなごりが今も虎姫町三川の元三大師の井戸替え行事だという。落城間際、織田信長は浅井の将兵からこの秘密を聞き出し、導水管を切断して城内の水源を押さえた。城内の飲料水はやがて底をついたが、長政はその竹の樋から白米を流して水がまだあるように見せかけたという「白米城伝説」が残っている。果たして本当にそうだったのか、伝承に頼るだけである。
  5. マムシのナゾ
    落城の際、この山で討死した800人の侍たちの魂はマムシとなって生き残り今でも城跡を守っている。ここでマムシを殺せば、鳴き声を合図に山中のマムシが襲いかかってくるといわれている。
  6. 秘宝のナゾ
    浅井一族が持っていた莫大な金銀財宝は、朝日夕日の差す南の尾根のどこかに今もなお眠っているといわれている。
  7. 子孫のナゾ
    長政の子は長男万福丸、長女茶々、二女お初、三女おごうの一男三女となっているが、三男虎千代丸は落城の際、家臣に伴われて近江町長沢の福田寺に匿(かくま)われ、後に僧になったと伝えられているが、お市以外の女性の子ではなかろうか。