浅井氏三代

●浅井氏三代

浅 井 長 政 像
(小谷城址保勝会蔵)

時代は今から約500年ほど前の戦国時代にさかのぼります。
江北(近江北部)の浅井氏が、戦国大名として台頭するのは、亮政の時代からです。それまで江南は六角氏、江北は京極氏が守護大名として覇を競っておりました。
その京極氏が1523年(大永3年)高清の時跡目争いが起こりました。次男高慶をたてようとする執権上坂信光派に対抗し、家臣の浅井氏らが長男高延を擁して、ク-デタ-を起こしてその勢力を一掃し、小谷山上に築城して京極父子を迎えたのが始まりです。
二代目久政は、長男新九郎に六角義賢の一字をもらい受けて賢政と名乗らせたり、賢政に六角氏の家臣の娘を娶(めと)ったりと、勢を争う江南の六角氏との「協調路線」をとりながら、領内の水争いを治め、部下の武将を掌握し、支城網を固めながら力を蓄えていきました。亮政と長政の活躍ぶりが目につくので、久政は地味に見えがちですが、戦国大名浅井氏の発展にとってかなり重要な役割を演じていたといえます。
しかし、六角氏との協調路線に反対の賢政は、何人かの家臣と組んで父久政を隠居させ、六角義賢と手を切ってしまいます。そして、1560年(永録3年8月)当時16歳の若さにして2倍半におよぶ六角義賢軍を野良田(彦根市野良田町)に打ち破り、賢政という名を長政に改め、一躍その名を馳せることになります。長政がこのように思い切った行動に踏み切ることができたのも、小谷城という要害堅固の城があったからであろうといわれています。

こうして、北近江の独立した戦国大名として歩み始めた長政であるが、軍事的にみて孤立したままでいるのは危険でした。浅井氏は、初代亮政の時代から越前の朝倉氏と同盟関係にあったわけですが、ここでもう一つ新しい同盟の動きがもち上がってきます。それが織田信長です。当時上洛を志す信長にとって浅井氏の実力は重大な関心事となっていました。そこで信長は自分の妹お市の方を長政に嫁がせ、同盟を結びます。

長政・お市(小谷の方ともいう)の平和な家庭も十年余りにして破れるときがきます。1570年(元亀元年)4月、信長が突如、湖西路を通り越前の朝倉義景を攻めたとき、長政は朝倉氏との同盟関係の方を重視し、織田軍の退路を断ちます。信長は、命からがら京都に逃げ帰り、6月その報復のため、徳川家康の援軍をえて近江に出陣してきます。そして、6月28日卯刻(午前6時)、浅井・朝倉軍は姉川を挟んで織田・徳川軍を迎え撃つことになります。これが、「姉川の合戦」です。前半戦は北軍有利のうちに進み、浅井の先鋒磯野勢は数倍する軍勢の信長の本陣まで斬り込みました。しかし、朝倉勢が退き、三方を包囲されるに及んで、巳刻(10時)遂に小谷城へと敗走せざるをえなくなりました。

柿川の戦いでは約5万3千人の兵士が戦ったと言われ、美しかった柿川の水はまっ赤な血の色となり、何千人もの死体が河原を埋めたといいます。その辺りにはいまでも「血原」という地名が残っています。
この日から、1573年(天正元年)落城の日まで、三年余りの長い籠城生活が続くわけであるが、小谷城はその3年間に修築と補強が行われ「戦国五名城」に数えあげられる堅固な城に仕上げられていったのです。
長政は、石山本願寺の顕如とむすび湖北一向一揆を味方に、また比叡山延暦寺とも結んで信長に抵抗します。さらには、武田信玄とも結んで信長包囲網の一環に重要な役割を果たします。しかし、信長は、浅井方の武将を誘降し、横山城や虎御前山砦を小谷城に対する付け城として攻めたてます。

結局、天正元年4月12日に武田信玄が病死したのをきっかけに足利義昭が追放されると、信長は朝倉義景を破り、ついに8月27、28日両日の織田軍の総攻撃によって久政、長政ともに自刀し、小谷城は落城してしまいます。
妹婿の反逆に対する信長の怒りは深かったとみえます。長政と父久政、朝倉義景の首級は京都へ送られた後獄門にかけられました。それでも恨みが晴れなかったらしく、首級を箔濃(ハクダミ・クルシ塗りして金粉をかけたもの)にして保存し、天正2年の年賀の席でこれら箔濃を肴に大喜びしたといわれています。