名所史跡の案内

 甲良の里を訪ねて 西明寺本堂
  一千年の法灯を燃やす
   天台の名刹に自然の真理を見る
西 明 寺
西明寺三重塔 一千数百年の歴史を物語る天台の名刹。南麓に連なる金剛輪寺・百済寺の2大寺とともに湖東三山の呼称で親しまれ、本山は比叡山廷層寺。本堂は国宝第1号指定。さらに三重塔も国宝で鎌倉時代を代表する建造物である。中世に織田信長の焼討ちにあうが僧侶・住民の機転により全焼をまぬがれ、多くの重文の仏像や宝物を今に残している。このほか本坊前には心字形をなす池泉鑑賞式庭園「ほうらい庭」が見事。また境内には春と晩秋に花を咲かせる珍しい“不断桜”や秋を彩る紅葉が素晴らしく、自然にひかれて訪れる人が多い。
甲良三大偉人伝

津城三十二万石余の大名となった誠意の人
 藤堂高虎(1555〜1630)
誕生
 天文二十四年(1555)、近江国藤堂村(在土)に生まれる。父藤堂虎高は京極家の後、浅井家に仕えた犬上郡数村の領主。藤堂家は、中原氏(平安時代以来の朝廷に仕えた大臣)の家柄であるが、高虎時代は状勢より藤僚氏系と名のった。
徳川時代
 慶長五年(1600)四十五歳・関ケ原戦で家康に従軍し、功績をたて今治二十万石の城主となる。以後、丹波篠山城・亀山城の普請奉行に任ぜられる。慶長十九年(1614)五十九歳・江戸城普請奉行となる。元和三年(1617)六十二歳・東照宮の縄張りを賞せられ、三十二万二千九百余石の大大名となる。寛永七年(1630)七十五歳・十月五日没す。寒松院(津市)に葬る。
藤堂高虎
十五歳にして191Cmの体格
 生まれたときから乳母の一人の乳だけではたらず、家来の女房から乳をもらった。三歳には餅を食い、六歳で大人の食事をし、七歳で40Kgの荷物を持ち、元服の十五歳には191Cmの筋骨たくましい怪童であった。
高虎公園内(高虎像)
高虎公園内(高虎像)
誠意ある人柄
 生涯を通じて誠意を冬くす人に対して必ず誠意を冬くす人であった。若武者時代は父に従って湖北の雄「浅井家」に仕え織田信長軍(姉川合戦)とよく戦った。浅井家滅亡後、秀吉の弟「秀長」に仕え、彼の実力が認められるようになる。主君秀長が死んだ時は、高野山で出家(僧になる)までする。徳川家康に武家屋敷を建てた時、自費を払って裏門を造営する。秀吉亡きあと、後見人石田三成の高慢なところに嫌気がさしていたところ、徳川家康の誠意に共感し、家康こそが私の主君と決断し、関ケ原戦で徳川軍として善戦する。家康は高虎の仕事に対する気構えと忠臣精神を認め、遺言状の後見人としての扱いをたまわり、伊勢国三十二万石余の大名となる。
築地土木の天才
 高虎の体は巨人であったが、指がなく全身は刀傷で切り刻まれていた。彼の武勇を語る証である。そればかりではない、高虎には築城工事に優れ名築城家としての才能があった。秀吉時代は伊予大洲城、宇和島城、家康時代は普請奉行としてヨーロッパ築城技術を取り入れた今治城、二条城、穴太衆(滋賀)の石垣技術をフルに利用した再建の大阪城、日本一高い石垣の伊賀上野城、伏見城の補修、そして城主となった津城、また、江戸城の修築などと日光東照宮である。家康の命によって日光東照宮の大棟梁となった甲良豊後守宗廣は、高虎と同郷である。ときに高虎四十五歳、宗廣二十八歳であった。
足利尊氏の知将として活躍したバサラ大名
 佐々木道誉(1296〜1373)
 今から約七百年前に滋賀県山東町清滝に生まれた(1296)道誉は、四十一歳のとき、甲良町勝楽寺に移住し、城を築き、鎌倉幕府の滅亡と南北朝・足利尊氏の室町幕府擁立に大きく関わり、その知将として活躍した異色の武将である。京極家は鎌倉幕府執権北条高時の側近として仕え、重用されていた。しかし、足利尊氏が後醍醐天皇(南朝)に応じて鎌倉の北条に兵を挙げるや(1334)道誉は、尊氏につく。以後、道誉は足利氏に仕え天下泰平の道を選び、彼の手腕は限りなく発揮される。
道誉の甲良移住 佐々木道誉
 延元二年(1337)造営は、父祖の地伊吹山麓の柏原を捨てて甲良の勝楽寺に根拠を定めた。甲良への移住の理由は、京都の事変にすぐ応えるためであり、周囲は難攻不落の佐和山城や、大軍移動に困難な中山道摺針峠(彦根)を越える柏原より、はるかに理にかなっていた。第二に勝楽寺城は、城攻めには険しく、さらに前衛本隊を甲良の中心尼子に置き、左右の多賀、河瀬に攻撃型の道進部隊を配するなど戦闘体制に適した地でもあった。道誉はこれ以後、七十八歳(1373)に没するまで足利幕府の要人として、勝楽寺を根拠に活躍する。
バサラ大名の筆頭−道誉
 「婆娑羅」とは、室町時代の流行語で、遠慮なく振舞い、派手で傍弱無人なことをいう。この時代道誉はドンチャン騒ぎを好み、自由奔放でバサラ大名の典型といわれた。特に京都の妙法院事件は、有名である。道誉の部下がこの寺の紅葉の見事さに、思わずその枝を折ったところ門主に見つかり、部下は山法師に痛めつけられた。この報告を受けた道誉は、「わが入道の配下に手向かうとは、片腹痛し…」と自ら二百余騎を率いて妙法院に火を放ったのである。これは道誉の既成の権威に対するすさまじいまでの反骨心であった。
文化人道誉
 しかし、道誉はけっして無節操に傍若無人の振舞いをしていたのではない。一見、野放図に見えながら内乱期を通じての道誉の行動には、一本の筋が通っていた。それは、足利尊氏に対する強い忠誠であった。また、この日本人ばなれした人物−造営は日本の古典芸術、茶道、華道、能楽、連歌など出発点としての奥義を極めていた。歌集では、最初の連歌撰集「菟玖波集」には、道誉の八十一首が入り、彼の非凡さが伺える。「茶」の世界で道誉が選んだ茶器珍器の中には、近世になって信長や秀吉、また茶道の宗匠たちによって受けつがれた大名器があることも道誉の審美眼の高さを物語る。中世芸能の最も華やかなものに能楽と狂言がある。道誉は早くから猿楽能の保護者で、とくに近江猿楽には道阿などを支援し、歌舞の神秘さと幽玄さを特色とする高踏的な芸風を育てた。狂言の世界は、猿に始まり狐に終わるといわれる。「釣狐」の演技はまさに秘曲に値し、その白蔵主狐の伝説が勝楽寺に伝わり、狐塚も残り、道誉との関係が伺われる。バサラ大名道誉は、後世日本芸能の元祖といわれる教養文化人でもあった。
日光東照宮の寛永大造替の大棟梁
 甲良豊後守宗廣(1574〜1646)
甲良宗廣の祖と生誕地
 甲良宗廣は甲良町法養寺に生まれる。甲良家は、中性から甲良に住む工匠で、もともと社寺の建築造営を担う大工を職務としていたと思われる。現に、永禄九年(1566)に造営された重要文化財の油日神社楼門(甲賀町)も棟札に、「内棟梁大工御子息甲良五郎左衛門殿・・・」とあり、甲良家が有力な名工であったことを物語っている。甲良光広の孫にあたる宗廣は、慶長九牛(1604)三十歳の時、幕府に召し出され、江戸の僧上寺造営の棟梁をはじめて務めたのである。そのあと、彼の畢生の業績として後世に伝えられた日光東照宮造営の大棟梁となった。甲良家の始祖ともなった宗廣は、幼年期から郷里の近くにある湖東三山の西明寺・金剛輪寺・.百済寺といった優れた建造物に親しみ、これらが格好の研究材料になる恵まれた環境にあったといえる。
藤堂高虎と宗廣
 東照宮は初め元和二年(1574)、同郷の藤堂高虎が作事奉行として造営されたが、現在に見るほどの立派さはなかった。同郷の宗廣が幕府作業方棟梁に召され絢襴豪華、壮麗無比の東照宮に生まれ変わった。
帰郷後の宗廣
 宗廣は、六十三歳(1636)になった時、大棟梁の職を「子の宗次に譲り、甲良に帰郷する。しかし、生誕他の法養寺は、水害が多く彦根藩により村落が移されたため生家もなく、やむなく隣村四十九院の檀家の唯念寺に住まいすることとなった。宗廣は帰郷しながらも郷里の寺院の造営に援肋する。まず唯念寺の本堂を寄進し新築するが、惜しくも幕末に焼失する。また、信長の兵火で焼失し、甥が住職をしていた百済寺(愛東町)の本堂造営にあたる。晩年、宗廣は法衣の自像を彫り、唯念寺に残し、正保三年(1646)、七十二歳で情熱の生涯を終えた。 甲良豊後守宗廣
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