「ねえ、おにいちゃんって、どんなひと?」 「おにいちゃんというのは、年が上の男のきょうだいのことです。女の人はおねえちゃん、男の人はおにいちゃんというのですよ」 「けっこんできるの?」 「できません。兄弟というのは、血がつながっていますから」 腕の中のリーフが眠りについたことを確かめると、エスリンは安堵の笑みを浮かべて寝台に座りこんだ。引き寄せられるように枕に頭を置き、リーフを隣に寝かせる。夜中にリーフが泣き出したために、昨晩はほとんど眠っていない。昼下がりの日差しが、エスリンの眠気を誘うのも無理はなかった。 重い瞼をこすって軍議に出ているキュアンに申し訳ないとは思いながらも、エスリンは両目を閉じた。リーフの寝息が子守歌となって、エスリンをまどろみの世界に連れていこうとする。 「ははうえぇ」 勢いよく扉を開く音に、子どもの甲高い声が重なった。顔だけを動かして扉の方向を見ると、赤い顔に涙を浮かべるアルテナと、彼女の肩に手をおいて必死になだめようとするフィンの姿があった。さらにリーフがむずかりはじめたので、エスリンは昼寝を諦めて起きあがった。 「どうしたの、アルテナ。何かあったの?」 「ははうえ、あのね」 それ以上は言葉にならず、アルテナは大声で泣き出してしまった。フィンが手巾でアルテナの顔を拭くが、栗色の瞳からは次々に涙が零れ落ち、止まることがない。アルテナは転んでも泣かないが、一度涙を流せば火がついたように、それも大火のように、ひどく泣き騒ぐのだ。 「泣いていてはわからないわ。フィン、何があったの?」 「それが、私にもわからないのです。アルテナ様が、着替えを終えて部屋から出て来られた途端、急に泣き出されてしまって。アルテナ様、そんなに泣いていては、リーフ様が起きてしまいますよ」 フィンが言い終えるよりも早く、新たな泣き声が部屋に広がった。リーフは姉に張り合うように大声で泣き叫んでいる。声を聞きつけて部屋に駆け込んできた年若い侍女が、途方に暮れた表情でアルテナとリーフを交互に見比べた。 「フィン、悪いけれども、リーフが寝るまで抱いていてくれる?」 フィンの腕にリーフを託すと、エスリンは泣き続けるアルテナの体を包むように手を置いた。 「私の居間に行きましょう。暖かい飲み物を用意してもらえるかしら?」 エスリンの言葉の後半は、侍女に向けられたものである。命じられた侍女は大きく一礼して部屋を出ていった。 アルテナが泣き止むまで、エスリンは膝に抱き上げて体を撫でてやった。暖炉の火が燃える居間に、鼻水をすする音が響く。ようやくアルテナが落ち着きを取り戻したころ、侍女が紅茶と焼き菓子を運んできた。 「ありがとう」 エスリンが礼を言うそばで、アルテナは黙りこんでいた。母の膝から長椅子に移されても、文句ひとつ言わない。アルテナの前に紅茶と菓子を並べながら、エスリンは何度目かの質問を口にした。 「アルテナ、さっきはどうして泣いていたの?」 やはりアルテナは答えない。紅茶茶碗の取っ手を握って俯いている。エスリンはため息が出そうになった。 「母様に言えないことなら、フィンに聞いてもらう?」 アルテナが、長く仕えた乳母や侍女よりも、そして自分たちよりも、守役のフィンに懐いていることをエスリンは知っている。親としては寂しいが、そうなった責任は、アルテナと一緒にいてやれない自分たちにあった。 フィンを呼ぼうと立ちあがると、服の裾をつかまれた。アルテナの栗色の髪が、大きく左右に揺れている。エスリンは寝椅子に座りなおした。 「フィンに聞いてもらうの、いや?」 首を縦に振るアルテナを見て、エスリンは考える。フィンに言えないことだからこそ、アルテナは部屋に駆け込んできたのではないか。だとすれば、アルテナは少なくとも、フィンの次くらいにエスリンを頼ってくれている。その気持ちに応えることが、母としての務めだろう。アルテナの両肩に手を置いて、ゆっくりと言い聞かせる。 「ねえ、アルテナ。アルテナがさっき、母様のところに来たのは、言いたいことがあったからでしょう? 言いたくないのなら、言わなくてもいいけれども、父様も母様も、アルテナのことが大好きだから、さっきみたいに泣いていたら、どうして泣いてるんだろうって、とても心配になるの。そのことは、覚えておいてね」 エスリンは静かに、真剣な眼差しでアルテナを覗きこんでいる。その気迫に圧されてか、アルテナの瞳は驚きの色が滲んでいたが、やがて消えた。 「うん、わかった、ははうえ」 真剣に頷いた娘に愛しさがこみあげてきて、エスリンはアルテナを思いきり抱きしめた。 「アルテナね、およめさんになれないの」 涙の理由を尋ねられたアルテナが、真っ先に口にした言葉である。それを聞いたエスリンは、当然のように目を丸くした。 「まあ、どうしてそんなことを言うの? 大人になったら、アルテナはきっと素敵な花嫁さんになれるのに」 「でも、フィンが」 「フィンがどうかしたの?」 「きょうだいは、けっこんできないって、テューアがいってたの」 テューアは、アルテナ付きの侍女の一人である。アルテナのたどたどしい説明によると、昼食のあとで服を着替えているときに、テューアが家族のこと、とくに兄弟姉妹とはどういうものかを教えてくれたそうだ。そして、きょうだいは結婚ができないのかというアルテナの質問に、テューアははっきりと、できないと答えたらしい。 「おまつりのときに、きいたの。フィンはアルテナのおにいちゃんなんだって。おにいちゃんは、きょうだいなんでしょう? だから、アルテナはフィンのおよめさんになれないの」 エスリンは、吹き出しそうになった紅茶を辛うじて飲みこんだ。咳きこみながらアルテナを見ると、瞳の端に涙が滲んでいる。話をしているうちに、悲しみを思い出したのだろう。エスリンは手を伸ばして、アルテナの頭を撫でた。 「アルテナは、フィンのお嫁さんになれないことが悲しかったのね」 「うん」 アルテナの答えにためらいはない。エスリンは笑みをこらえながら説明をはじめた。 「心配しなくてもいいわよ。きょうだいっていうのは、お父さんとお母さんが同じ人のことでしょう。アルテナのきょうだいはリーフだけ。フィンは違うのよ」 「ほんとう?」 レンスター草原に住む兎のように、アルテナは全身を耳にしてエスリンの言葉を聞いている。来年のアルテナの誕生日には、大きな兎のぬいぐるみを贈ろうか。エスリンはそんなことを考えた。 「ほんとうよ。母様がお嫁に来る前から、フィンはお城にいたんだから」 「でも、フィンが……」 アルテナは顔をしかめている。だがエスリンには、生真面目で正直すぎるぐらいに正直なフィンが、アルテナを傷つけるような嘘をつくとは思えなかった。 「きっと、何かの間違いよ。アルテナは、フィンのお嫁さんになれるわ。それとも、アルテナは母様がうそを言っていると思う?」 「ううん!」 勢いよく首を振ったアルテナの顔に、花が咲くような笑みが浮かんでいる。機嫌の治ったアルテナは、紅茶と焼き菓子を平らげると、「フィンとおそとであそんでくる!」と言い残して、部屋を飛び出していった。 「それで、結局はアルテナの勘違いだったのか」 子ども用の寝台で寝息を立てるアルテナに目をやると、キュアンは頷きながら胸をなでおろした。アルテナとリーフの泣き声の合唱は、会議の間にいた彼の耳にも届いていたのである。しかし軍議を抜け出すわけにもいかず、キュアンがエスリンから事情を聞いたのは、一日の執務を終えた夜のことだった。 「ええ。そういうこと。お兄ちゃんという言葉だけが、頭に残っていたようね」 葡萄酒の瓶を手に、エスリンが微笑む。エスリンは、夕方にフィンを捕まえて事情を聞きだしていたのだ。そして彼女の思ったとおり、「フィンはアルテナのお兄さん」発言は、アルテナの誤解だったのである。兄さんという呼びかけが、血の繋がりのないものに使われる場合もあることを、幼い王女は知らなかったのだ。 「それにしてもアルテナは、そんなにフィンのお嫁さんになりたかったのか。……エスリン、まさかこのことをフィンに言っていないだろうな」 「さあ、どうかしら?」 娘の言葉と妻の返答のどちらが気に入らなかったのか、キュアンは寝台に腰を下ろすと、面白くなさそうに刺繍入りの枕を軽く叩いた。誰が見ても八つ当たりである。苦笑とともにエスリンは青い杯を差し出した。 「安心して、キュアン。フィンにはうまくごまかしておいたから」 それが子どもの勘違いであっても、アルテナが泣いた理由を知れば、フィンはきっかけとなった自分自身を、厳しく責めるに違いない。彼の性格を考えて、エスリンは真相を隠したのだが、キュアンの意図は別のところにあるようだった。 「それならいい。いや、よくないか。私は、フィンをアルテナの婿にするために守役につけたんじゃないからな。まあ、フィンはああいうやつだから、心配はないだろうが」 さらにキュアンは、そういう時は父親のお嫁さんになれないことを悲しむもんじゃないのかと愚痴をこぼした。エスリンがひらめかせた表情にも気づかず、葡萄酒に口をつける。 「でも、フィンと結婚すれば、アルテナは遠くにお嫁に行かなくてすむわね」 エスリンの予想以上に、その一言には効き目があった。キュアンは激しくむせて、鼻と口を手で押さえている。エスリンはキュアンの正面に立ち、リーフのために用意しておいた綿布で顔を拭いてやった。 「言っておきますけど、あなたのお嫁さんは私だけ。これだけは、他の誰にも、アルテナにだって譲りませんからね」 やっとの思いで息を整えたキュアンが苦情を述べるよりも早く、エスリンは夫の顔を両手で挟みこんでいた。軽い怒りから驚きへと変わる栗色の瞳に、エスリンの少女のような微笑みが映る。 「ああ、そうだな。私の妻は君だけ。君の夫は私だけだ。リーフには、母上と結婚するだなんて絶対に言わせないからな」 優しげに細められた栗色の瞳に気をとられているうちに、エスリンはキュアンに抱き寄せられた。背中を撫でる夫の手が心地よい。そのまま寝台に横たえられると、エスリンはリーフの眠る揺り籠に向かって囁きかけた。 「今夜は起こさないでちょうだいね」 「ああ、まったくだ」 キュアンは低い声で笑い、壁の蝋燭を吹き消してエスリンの隣に寝転がった。おやすみの挨拶とともに口づけを交わす。唇が離れると、エスリンは夫の胸に額を寄せて、夫婦を包む温もりとまどろみに身をゆだねた。 数日後、アルテナとフィンのお嫁さんごっこに交ぜてもらおうとしたキュアンが、「ちちうえは、しさいさまのやく!」と言われて本気で落ち込んだ姿を、エスリンは笑いながら眺めていた。 |