アウグストは時おり、血の通わぬ冷徹な男と謗られることがある。情ではなく理を選び、名ではなく実に重きを置く姿勢が反感を招くのだが、軍師としても政治家としても無能にはほど遠く、新トラキア王国に欠かせぬ人材であることは広く認められていた。 そのアウグストが円卓に並べた羊皮紙に目を落として、フィンは軽く首を振った。十日後に控えた戴冠式の招待客名簿である。正確には名簿の一部と言うべきだろう。そこに記されていたのは、若い男の名前ばかりであった。栗色の髪の青年が、書類を手にとって眉をわずかに寄せる。 「リーフ様、この名簿に書かれた方々には、共通する点がいくつかごさいます。それが何かお分かりですかな?」 新王国重鎮の張りのある低い声が、部屋に響く。その主人は羊皮紙を前に短い呟きを何度か繰り返してから、口を開いた。 「男ばかりということか? それに皆、僕より二つか三つ年上、姉上と同い年くらいだ。……それにしては、アレス王のお名前が見当たらないが」 リーフの答えはアウグストを満足させるものではなかったようである。軽く首を振り、アウグストはアグストリア国王の名が記されていない理由を明かした。 「アレス王はご結婚なさっておいでです」 名を連ねているのは独身者のみということだろうか。改めて羊皮紙を見やると、妻や婚約者がある者の名は、一人として挙がっていない。アウグストが次に放つ言葉を、フィンは予測していた。 「リーフ様。できるだけ早いうちに、アルテナ様の結婚相手を決めるべきです。来たる戴冠式は、その良い機会かと存じますぞ」 王族として、聖戦士の直系として、アルテナには子を残す義務がある。それを果たすには、まず夫となる男性を選ばねばならないのだが、新トラキア王家の縁戚になるからには、誰でもよいというわけにはいかない。まえもって候補となる人物を選んでおき、戴冠式後の宴席でアルテナと引き合わせるのだと告げて、アウグストはリーフの顔を見据えた。隠しきれていない若い表情が、リーフの心の内を示していた。 「ご不満のようですな。ですが、以前にも申し上げましたぞ。王族の結婚は、愛情のみで成り立つものではないと」 アウグストの正論は、しかしリーフの心を動かせないことを、フィンは知っていた。リーフがナンナに求婚したとき、アグストリアとの外交など若い王子の頭にはなかったし、彼の両親であるキュアンとエスリンもまた、政略とは縁のないところで互いを選んだのだった。彼らレンスター王家の人間にとって、結婚とは愛しあう男女がより深くより強く結びつくための方法であって、国に利益をもたらすための手段ではない。 「僕は、姉上に幸せになってもらいたいと思っている。好きでもない相手と結婚させるなんて、そんなことができるものか」 引き結ばれた唇が、頑なともいえるリーフの意思を表わしている。だが、アウグストは怯みも諦めもせず、さらに言葉の槍を振りかざした。 「では、アルテナ様が思うお方と結ばれるのであれば、結婚に賛成していただけるのですな」 アウグストの質問は、リーフの不意を突いたようだった。琥珀色の瞳が、瞬きを繰り返している。思案する表情がわずかに崩れ、口元に笑みがこぼれた。 「それなら構わないさ。フィンもそう思うだろう?」 「……ええ、それはもちろんです」 アルテナの幸福を願うフィンの心に偽りはない。それどころか、亡きキュアンとエスリンに代わってアルテナの幸福を手助けし、見届けることが自身の使命であるとさえ、フィンは考えている。だが、それが結婚という形で現れたとき、フィンの胸を占めたものは、リーフへの返事を一瞬ためらわせるほどの苦い痛みだった。 「一度、姉上と話し合わなければならないな」 リーフの呟きに応じて頷くと、アウグストは話題を変え、戴冠式当日の警備について報告をはじめた。見透かすように細められた眼差しが、なぜかフィンの気に触った。 アルテナが竜から降り立つと、民衆の歓声が門の内側から押し寄せてきた。年配のレンスター人には、生前の王太子夫妻や幼いアルテナを見知っている者が多い。過去を懐かしむ彼らの声に呼び起こされたのか、フィンの目の前に、若い主とともにシレジアから帰還した日の光景が不意に現れた。 病身をおして出迎えたカルフ王の周りを、ランスリッターが固めている。作法通りの挨拶を短くすませ、レンスターの国王一家は肩を叩いて再会を喜びあう。輪の中心にいるのは、祖母に抱かれた幼いアルテナだ。やがてキュアンがフィンを招き寄せ、父王の正面に立たせる。緊張と恐縮に体を強張らせた騎士見習を見つめる国王の眼差しは、穏やかで優しい。短いねぎらいの言葉にも、家族の情がこもっていた。深く頭を垂れるフィンの耳に、王妃の声が入りこんでくる。アルテナ、あなたの父様と母様が戻って来ましたよ。ご挨拶なさい。 「お帰りなさいませ」 言葉を覚えたばかりのアルテナが、かつて両親に向けた挨拶を、フィンはそのまま口にしていた。奇しくも、という気はしない。たとえアルテナの記憶になかったしても、レンスターは彼女たちの故郷なのだ。迎える言葉が、他にあるはずがなかった。 「城でリーフ様がお待ちです」 ランスリッターの敬礼を受けながら、レンスター王家の紋章を施した馬車の前に向かう。鎧装束のせいか、アルテナの後姿は見る者に実父の面影を感じさせた。 もしもキュアンが生きていて、子どもたちの成長を見届けたならば、アルテナにどのような縁談を用意したことだろう。幼い娘が嫁ぐことを想像しただけで、胃痛や頭痛を引き起こしていた彼のことだ。廷臣たちと言い争い、子どものように駄々をこねた挙句、エスリンに諭されなければ、アルテナの婚姻を認めようとはしないだろう。そして、アルテナをより幸福にできそうな男を、渋々ながら婿に選ぶのだ。 やはり親子なのだ。想像のなかのキュアンの憮然とした表情と、先だってリーフが浮かべた不服そうな表情が、驚くほどにフィンのなかで重なっている。それは、たとえ縁談が進められたとしても、アルテナに悪い結果がもたらされることは決してありえないのだと、確信させる表情だった。 「アルテナ様、リーフ様にお会いになる前に、お伝えしたいことがございます」 表情を改めたフィンの隣で、アルテナがこころもち体を伸ばす。リーフたちの家族愛と思いやりの前で、自身の痛みに何の意味があるだろう。アウグストとリーフの間で、先日交わされたやりとりを、フィンは静かに告げた。 「急な話に驚かれたこととは思いますが、案ずることはありません。リーフ様は心よりアルテナ様の幸福を願っておいでです。もしも、アルテナ様に思うお方がおありなら、決して悪いようにはなさらないかと存じます」 フィンが唇を閉ざすと、広くはない馬車を沈黙が満たした。アルテナを追いかけ、あるいは待ち受ける民衆の歓声が、ひどく遠くに聞こえる。長い睫を伏せたアルテナは、物思いに耽っているようにも、沈黙に身を浸しているようにも見えた。 「もしも、私に愛する人がいるのならば」 馬車がレンスター城の正門に差し掛かったころ、ようやくアルテナが唇を開いた。 「リーフは、私がその人と結ばれるように、喜んで手はずを整えてくれるのでしょうね」 栗色の瞳を閉ざしたまま、アルテナは言葉を続ける。未来を予想してみせる声には抑揚がなく、冬の風のように冷たく乾いていた。 「でも、私の選んだ人が、同じように私を愛してくれているとは限らない。私の気持ちだけを無理に押し通して結婚するのが、本当に幸せなことだとは思えないわ」 閉ざされた唇の奥に、言葉にされなかった悲しみと諦めを感じて、フィンは改めてアルテナの顔を見直した。憂いに満ちた表情は、単なる仮定の話を口にした者が浮かべるものではなかった。 「アルテナ様ほどのお方に思われて、それを拒むような男がいるとは思えませんが……」 それはフィンの心からの言葉だったが、アルテナは喜ばなかった。柔らかさよりも凛々しさを感じさせる顔立ちが、もどかしげにフィンを見つめる。それは片言しか話せなかったころのリーフが、自分の要求を思い通りに伝えられなかったときに浮かべた表情によく似ていた。 「アルテナ様……」 呼びかけたものの、かける言葉がフィンには思い浮かばなかった。幼いリーフとはわけが違うのだ。頭を撫でてあやしてやれば機嫌が直るというものではない。気まずい雰囲気を持て余しているフィンに向かって、アルテナが何事かを言いかけた。 だが、フィンはそれを聞くことができなかった。アルテナの到着を告げる先触れの声が、彼女の囁きをかき消したのである。馬車が上下に揺れ、御者が馬の歩みを落とした。 馬車から降りると、アルテナはリーフをはじめとする出迎えの人々に囲まれてしまい、フィンは彼女の言葉を聞き返す機会を失ってしまった。そして、二人きりで話をすることはおろか、顔をあわせることすらないまま、戴冠式を迎えたのである。 篝火に照らされた庭にひと気がないことを確かめて、フィンは芝生に腰を落とした。冷えた空気が火照った体には心地よい。 夜空では冬の星たちが、新たな王の誕生を祝うかのように輝いている。リーフの戴冠とそれに続く式典を滞りなく終えることができ、フィンは肩の荷が下りた気分だった。夜の風が、人々の笑い声と竪琴の音色を運んでくる。城の大広間では、賑やかに和やかに宴が続いているのだろう。 リーフは酒に弱い。それでも祝いの言葉とともに注がれる酒は断れず、フィンやナンナがいわば身代わりとなって杯を空けていたのだが、フィンとて酒豪ではない。そこで主君の許しを得て、外へ涼みに出たのだが、思ったよりも酒が体に回っているらしく、しばらくは立ち上がれそうになかった。気を抜けば背中を投げ出して寝転がってしまいそうだ。 「フィン、こんなところにいたのね」 アルテナの声が、酔いとまどろみに引きずられかけていたフィンに揺さぶりをかけた。衣装の胸元を、紅い宝石が飾っている。刺繍を施された裾が、長い足とともに芝生に投げ出された。 「お召し物が汚れますよ」 小声でたしなめたが、アルテナは答えない。柔らかな頬が朱に染まり、形の良い唇が濡れていることを、フィンは意外に思った。どうやら弟と違い、彼女は酒が飲めるようだ。 「あなたを探していたの。話したいことがあって」 「私に、ですか?」 橙の篝火が、アルテナの横顔に影を浮き立たせる。縁談の件で何かあったのかとフィンは一瞬身構えたが、アルテナが口に出したのは、彼女自身のことではなかった。 「……フィン、あなたが旅に出るというのは、本当なの?」 フィンは軽い瞬きとともに息をついた。旅立ちを迎えるまでに、幾人から同じ問いを受けることになるのだろう。それは、リーフをはじめ、ごく限られた者しか知らされていないことだった。 「……ええ。リーフ様のお許しも、すでにいただいております」 「そうらしいわね。……それで、出発はいつなの?」 アルテナの問う声が闇に弾ける。リーフが許可を出したのだから、リーフでさえも引き止めることができなかったのだからと、彼女自身に言い聞かせるような諦めの粒をフィンはそこに感じた。 「できるだけ早く発ちたいのですが、まだ決めておりません」 実はまだ荷造りも手がけていないのですと、フィンは短く付け加えたが、行き先は既に決めてあった。シアルフィからユングヴィを経てヴェルダンヘ。アグストリアを越えてシレジアへ。そして、キュアンとエスリンが最期を迎えた地、イード砂漠へ。それは、フィンが自身の過去を振り返り、亡き主君の足跡を追う旅であった。 「でも、長い旅になると聞いたわ」 「ええ。リーフ様からは三年のお暇をいただきました」 アルテナが息をのむ気配が伝わってきた。改めて、フィンは三年という月日の長さを思う。かつて、キュアンとエスリンがフィンを伴ってシグルド救援に向かっていた二年半のあいだに、アルテナは片言もままならない赤子から、挨拶のできる幼子へと成長を遂げていた。産声をあげたばかりの新トラキア王国にも、同じことが言えるだろう。そして、国に残る者と去る者のうえにも、時間は平等に降り積もるのだ。 「三年も経てば、リーフ様にはお子様がいらっしゃるかもしれませんね。それから」 フィンは一瞬、唇を閉ざし、ためらいを押し切って言葉を続けた。遠い昔に見たエスリンの花嫁衣裳が、記憶のなかで白く翻った。 「アルテナ様は、ご結婚されているかもしれませんね。残念ながら、婚礼には立ち会えそうにありませんが」 アルテナの結婚は、彼女自身と新トラキア王国のものなのだ。彼女の婚礼を、フィンはいずれ旅の空で知り、静かに祝うのだろう。胸の痛みを、時の流れに捧げることで思い出に変えて。 「何を言っているの?」 訝るような声に、しかし怒りが含まれていたのはフィンの思い過ごしではなかった。向き直ったアルテナの栗色の瞳が、貫くような光を放つ。 「私はまだ、どこにも嫁ぐ気はないわ。……トラキアが立ち直って、安定するまでは」 鋭い槍にも似た閃きが、フィンを突いた。確かな安堵とわずかな期待が、心の奥から静かに溢れだす。だが、フィンは自身を戒めるように、吐きだしかけた息を強引に飲みこんだ。その感情は、騎士である彼にとって決して表にだしてはならないものだった。 南トラキアと名を改めた旧トラキア領の復興と発展は、アルテナにかかっている。レンスターの至宝ゲイボルグの継承者として生まれ、トラキアの英雄トラバントの娘として育った彼女だけが、統一に戸惑う民衆を導き、彼らが心に築きあげた南北の壁を取り払うことができるのだ。だが、人々が寄せる期待と信頼は、容易に重圧へと姿を変える。アルテナが押し潰されてしまわないか、それがフィンの気がかりであった。 「ですがアルテナ様、決してご無理をなさいませんように。お体を大切になさってください……」 アルテナの決意とは裏腹に、フィンはその横顔に危ういものを感じる。国を背負う責任は、王であるリーフのほうが遥かに重いが、彼のそばには妻ナンナがいる。キュアンとエスリンのように互いを慈しみ、支えあうことで、若い国王夫婦は重荷を分かちあえるが、アルテナは独りでトラキアに向かわねばならないのだ。 襟元から入り込んだ夜風が、フィンの肌を冷たく撫でつける。吐き出した白い息が、音もなく夜に溶けるのを見届けて、フィンは立ち上がった。 「風が冷えてまいりましたね。城に戻りましょうか、アルテナ様」 フィンが差し出した右手に、アルテナが掌を重ねた。腕に力をこめ、静かにアルテナを立たせる。踏みつけられた芝生が、小さな音を立てた。 「ねえ、フィン」 それはいまにも夜風に運び去られそうな、低く短い呼びかけだった。足を止めたフィンを、アルテナが見据える。形の良い唇が、わずかに震えていた。 「あなたも……あなたもどうか、無事に戻ってきてね」 アルテナの不安げな表情に、幼い泣き顔が重なる。遠い記憶に導かれるように、フィンはアルテナの掌を胸元に引き寄せていた。凍えた風から庇うように、左手を添える。 「このフィン、必ずやレンスターに戻って参ります。ですからアルテナ様、どうか……」 どうか彼女が、孤独の冷たさに震えることがないように。そして安らぎと温もりが、常に傍らにあるように。その願いは強く大きくフィンの心を満たしていたが、彼はその半分も口に出さなかった。 「どうか、お元気で。このフィン、旅先からお祈りいたします」 頷きとともに、アルテナの豊かな髪が揺れた。指先に込められた力が、フィンの礼服を押さえつけて皺を生む。重ねたままの掌から、互いの温もりと自身の鼓動が伝わってきた。 身を案じる言葉と、ささやかな温もり。それが闇を掻く一瞬の閃きであっても、フィンはアルテナに支えになるような何かを残したいと願わずにはいられなかった。なぜならばアルテナがフィンに与えてくれたものは、灯火となって、彼の帰る場所と護る人を、確かに照らしだすのだから。 いつかその手を取る日まで。 |