真夜中の偶然


  石の壁と布の帳を越えて寝室に飛びこむ轟音と雷光を避けるかのように、アルテナは幾度目かの寝返りを打った。帝国との決戦を前に気が昂ぶっているのか、頭と体の一部が眠りを拒んでいる。仮眠を取ることも、戦士の重要な役割だと自身に言い聞かせるが、意のままにできたのは瞼だけだった。
 既に蝋燭の尽きた部屋で、アルテナは静かに眠りを待つ。閉ざした眼を、白い光が突いた。やや遅れて、地響きにも似た音が耳を打つ。眉を寄せ、アルテナは目を庇うように手を置いた。
 やがて長い指が、額の上で握り締められる。何も掴めるはずがない。求めるものが、更に高いところにあることをアルテナは知っていた。闇のなかに、腕を掲げる。上へ、上へと。
 気がつけば、竜に跨って故郷を見下ろしていた。どうやら夢の世界に入りこんだようだと冷静な判断を下す一方で、アルテナは目的から遠ざかったことに苛立ちを覚える。彼がトラキアにいるはずがない。気を取り直して手綱を引いたが、アルテナの竜は動かなかった。彼女の最も古く、最も信頼のおける部下は、長きにわたるトラキアとレンスターの確執をおそらく知っているのだろう。
 せめて着陸をと思ったが、なおも竜は動かない。アルテナは吐息とともに首を振り、北に向かって手を伸ばした。
「ねえ、だっこ!」
 幼く甲高いその声を、アルテナは知っている。共に歩いて欲しいときや、抱っこをせがむときに、彼女は周りの人間に小さな手を差し出していたものだ。
 大人には大人の都合があり、たとえ王女であっても、常に要求が通るわけではないことをアルテナは成長とともに学んでいったが、守役を務める青い騎士だけは例外で、一度として彼女の求めを拒んだことはなかった。
 父ほどではないにせよ、フィンの手は力強く、そして温かかったに違いない。遠い思い出を、アルテナは古く頼りのない記憶ではなく、現在の想像によって補っている。彼の手は、レンスターの王女として愛され、慈しみを受けた幼い日々の、いわば象徴であった。
 寝台に腕を落とし、アルテナは諦めたように瞼を起こした。体を休めるための眠りに、心を乱されてはたまらない。雷は未だ鳴り響いていたが、シアルフィからは次第に遠ざかりつつあった。
 レンスターに比べ、トラキアでの生活が辛かったかと問われれば、答えは否である。父は厳格で、穏やかな微笑みなど決して浮かべる男ではなかったが、玉座にあっても竜の背にあっても、トラキアの安寧に心を砕く姿に、アルテナは尊敬の念を抱いていた。武芸と学問に勤しんだのは、国と民のために力を尽くすという王族の務めを果たし、微力ながらも父の助けとなるためであった。女の身であれば、いずれは政略によって何処かに嫁がされることも予想していたが、年若いターラの公女と婚約した兄とは違い、アルテナのもとに縁談が持ちこまれることはなかった。
 娘がトラキアと袂を分かつことを、トラバントは予想していたのかもしれない。沸き起こった考えが、アルテナの心を冷やす。親子の絆は血の繋がりよりも強いのだと言い切って家族でありつづけるには、実の両親の仇という真実は重すぎた。今までの自分を取り巻き、支えてきたものが一瞬にして崩れ去ったとき、アルテナは元凶とも言える男、長いあいだ父と呼んだ男に刃を向けた。胸のなかで渦を巻く深い怒りと悲しみと絶望に、そのとき彼女は突き動かされていた。
 咄嗟の機転でアルテナを救い、解放軍に送りだしておきながら、和睦に応じなかったアリオーンの真意は分からない。彼はトラキアの戦いで傷を負い、ユリウス皇子とともに戦場から姿を消したという。彼が再び、それも近いうちに解放軍の前に立ちふさがるのは、アルテナにとって予想されたことであった。兄と刃を交えるのは本意ではないが、解放軍の仲間や部下、そして弟を危険に晒すわけにはいかない。覚悟は決まっているはずであった。
 思い出が築いた虚像に、アルテナが安らぎを求めたところで、事態が変わるわけではない。突きつけられた未熟さの前に、ノヴァの加護や竜騎士の誉れは意味を持たなかった。
 夜半にもかかわらず、シアルフィの城内では兵士たちが慌ただしげに動き回っている。短い挨拶に応えながら、アルテナは階下の練兵場を目指した。敵襲に備えて平服で寝台に潜りこんでいたおかげで、身支度を整えるのに時間はかからなかった。
「このような時刻に、まだお休みになられていなかったのですか」
 夢のなかに再び舞い戻ったかと、アルテナは目を疑った。先刻まで捜し求めていた男が、槍を振るう手を止めて彼女を見つめている。投げかけられた声には、驚きがにじんでいた。
「寝台には入ったのだけれども、眠れなくて。雷のせいかしら」
 竜騎士の台詞ではなかったと、冗談めかして付け加える。子どもではあるまいし、つまらないことで彼に心配をかけたくはない。
「良ければ、相手をしてちょうだい」
 手早く革の防具を身につけ、訓練用の槍の重さを確かめる。槍であれ剣であれ、今までにアルテナとフィンが手合わせをしたことはなかった。ともに解放軍の重鎮として多忙な身である。真夜中の偶然がなければ、二人きりで練兵場に居合わせることもなかった。
「アルテナ様の仰せの通りに」
 一礼ののちに槍を構えた騎士を、アルテナは戦士として見つめる。フィンが初陣を迎えたとき、彼女はまだ赤ん坊に過ぎなかった。解放軍で彼と戦歴を比較しうるのは、ハンニバルをはじめとするごく少数だろう。幾多の戦いに鍛えあげられた長身は、アルテナに鋼の槍を連想させた。
 気合の声と共に、フィンが先制の一撃を繰り出した。弾き返すと同時に後退し、アルテナはひとまず距離をとる。続けざまに突きかかってくる男の背後で、蝋燭の炎が揺らめいた。
 突き、薙ぎ払い、打ちかかる。槍を操るというよりも、槍そのものと化したかのようなフィンの動きに、アルテナは自身の例えが正しかったことを実感していた。
 重さよりも速さに主眼をおいた突きが、たやすく受け流される。反撃に備えて身を翻せば、厚い壁が見えた。フィンとのあいだに厳然と存在する、力と経験の壁。打ち貫けとばかりに、アルテナは勢いよく飛びこんだ。
 硬いものがぶつかる音を、アルテナは確かに聞いた。痺れと痛みが両手に広がる。壁に叩きつけられたアルテナの槍は、音を立てながら扉の前に落ちた。
「お見事です」
 賞賛を送るフィンが槍を手にしていないことに気づき、アルテナは床に視線を落とした。運か気迫か、見えないもので技量の差を補った結果が足元に転がっている。フィンが扱っていた槍は、アルテナのそれに比べて柄が長かった。
 伝説の槍騎士を相手に引き分けたならば、悪くはない。アルテナが息をつくと、汗と疲れが急激に襲いかかってきた。槍を元の位置に片付けてから、壁際にしゃがみこむ。その隣に、フィンが腰を下ろした。まだ余力を残しているのか、彼の呼吸に乱れはない。
「今夜はありがとう。また、機会があればお願いできるかしら?」
「ええ」
 頷いたフィンの顎から汗が落ち、首筋を濡らす。彼と再び手合わせをするときまでに、おそらく戦争は終わっているだろう。
「次は剣にしましょうか」
 言いながらフィンの左腕を抱えこむ。紐を解いて革の手袋をはずせば、汗ばんだ手がアルテナの眼前に現れた。甲に薄い刀傷が残っている。親指の付け根の下に穿たれた小さな穴は、矢を受けた跡だろう。
「だから約束よ。必ず、必ず生き残りましょうね」
「お約束いたします」
 言葉と掌に労わりをこめて、アルテナはフィンの手を包みこんだ。想像よりも熱い大きな手が与えてくれるのは、夢にまで見た安らぎではない。未だ動悸の治まらぬ胸を焦がし、こみあげる思いは、穏やかさとはかけ離れていた。
 たとえ貪欲と指さされようとも、アルテナには欲しいものがあり、守りたいものがある。そして、取り戻したいものがある。そして、その方法は一つきりではないのだ。子どものように甘えてすがれなくても、再び彼女がフィンの手を取れたように。
 練兵場の小さな窓から、鳥の鳴き声が聞こえる。重い雲の隙間から差しこむ光は白く弱々しかったが、それでも確かに夜明けを告げていた。


 以前「文章修行家さんに40の短文描写お題」のひとつ「今昔(いまむかし)」を書いたときに
思いついたのが、フィンの手を求めるアルテナの姿でした。
 無邪気に彼の手を取った子どものころとは、何もかもが違うのだと分かっているのに、
それでも彼の手にすがりたいアルテナの内面、とくに葛藤を描きたかったのです。
 ところがお姫さまは夜中に部屋を抜け出して、ちゃっかりフィンの手を握ることに成功。
 書き手としては予想外ですが、アルテナのラブパワー(もちろん親譲り)が強かったということで。

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