物心ついたときから生命の危険と向かいあい、逃亡と潜伏を繰り返してきたナンナにとって、平穏とはささやかで不安定な、そして何にも代えがたい貴重なものであった。食事のたびに明日の蓄えや将来の飢えを不安に思うこともなければ、潜りこんだ寝台でかすかな物音に脅えながら夜を過ごすこともない安らかなひととき。乾いた土の匂いとともに過ごしたフィアナでの日々を砕いたのは、やはり軍隊の足音であった。 アルスターで、フレストで、ターラで過去にそうであったように、ナンナたちにとって平穏はかりそめのものであり、いつか終わりが訪れることを覚悟してはいたが、親しい人たちが目の前で切り結ぶことなどは、想像もしていなかった。ナンナにとってフィアナでの日々の象徴ともいえる二人。親身になって世話を焼いてくれたエーヴェルと、友人のマリータ。 「マリータ!」 エーヴェルの悲鳴まじりの声がナンナの耳を突く。襲いかかる刃を止め、受け流す姿が不意に揺れた。 「エーヴェル!」 エーヴェルの背中に杖を向けると、先端に埋めこまれた赤い石が滲んで見えた。いつの間にか瞳が潤んでいたことに気づいて、ナンナは顔を拭った。目を塞いだところで、突きつけられた刃が収められるわけではない。獣のように飛びかかったマリータの斬撃を、体勢を立て直したエーヴェルが弾き返した。 攻めるマリータと守るエーヴェル。二人の打ちあいが百を越えたころ、突如としてナンナの背後の扉が開け放たれた。見慣れた栗色の頭が飛びこんでくる。薄汚れた顔が、なぜかナンナを安心させた。エーヴェルもマリータも、これで助かる。 ナンナの期待は、しかし強く禍々しい力に容易く打ち破られた。流浪の身のナンナたちを迎え入れ世話を焼いてくれたエーヴェルが、波打つ金の髪が、端正な優しい顔が、冷たい石に変わる。口元を覆うナンナの横で、リーフが悲鳴をあげた。母がいなくなった幼い日の記憶が、不意に甦った。 「何やってんだ、リーフ。さっさと引き上げるぞ!」 剣がぶつかり合う音ともに、男の怒鳴り声が聞こえる。振り返ると、開かれたままの闘技場の扉の前で、長身の剣士が帝国兵と切り結んでいるのが見えた。 「リーフ様」 胸の苦いものを押さえつけるように、ナンナは声を絞り出した。帝国兵が迫ってきている。再び捕らえられでもすれば、脱出の機会は二度とないだろう。 「だけど、エーヴェルが……」 「今は逃げるんです! リーフ様」 リーフの肩に置いた手に、我知らず力がこもる。ここで二人が倒れれば、過去にリーフとナンナのために命を懸けてきた多くの人々の行いが水の泡と消えてしまう。彼らの犠牲を無駄なものにしないためにも、生き延びなければならないのだ。たとえ、そのためにエーヴェルとマリータを見捨てることになっても。 「ああ、そうだ……。行こう、ナンナ。詳しい話はあとだ」 頷いたリーフの表情に、苦痛の色が見て取れた。促すようにナンナの背に触れた掌が、ひどく熱かった。 出口にたどり着くまでに、リーフは二人の帝国兵を切り倒し、ナンナは一人に傷を負わせた。駆け抜けた回廊からは、いつしか帝国兵の気配が絶えていた。 「それじゃお先に!」 先ほど闘技場で剣を振るっていた男が、外に続く扉をくぐる。あとに続こうとしたナンナは、しかしリーフにつられて足を止めた。 「リーフ様……?」 エーヴェルの石像を食いいるように見つめるリーフの顔は険しい。返り血がこびりついた顔に、ナンナは手を伸ばした。 指先にほんの少し力をこめて頬の赤黒い塊を拭い落とす。その下から現れた皮膚は赤く色づいていた。リーフの熱と、その内側の痛みをすくい取るように、ナンナは指を滑らせる。リーフの痛みはリーフのものであり、ナンナの痛みはナンナ自身のものであったけれども、リーフは、ナンナが痛みを分かち、請け負い、そして委ねることのできる、ただ一人の人間であった。ナンナにとって、分けあうことと生きることは深い繋がりを持つ。乏しい食料や薄い毛布だけではなく、かけがえのないものを失った悲しみさえも分かちあい、今日まで生きて延びてきた二人だから。 リーフの存在が、困難に押し潰されずに前に進んでいく力をナンナに与えてくれる。そしてその力を、ナンナは逆にリーフにも与えたいと強く思うのだ。 「行きましょうか、リーフ様」 リーフと、彼の瞳に写った自分自身に向かって、ナンナは強く頷いてみせた。 |