竜騎士としての訓練を始めた日から、アルテナは毎日の武器の手入れを欠かしたことがない。それは、王女として育てられてきたトラキア王家を捨てて解放軍に身を投じた後も、変わることなく続いていた。 その日も、アルテナは武器の手入れのために一人でペルルーク城の武器庫へ向かっていた。武器庫の扉に手をかける寸前に彼女が動きを止めたのは、武器庫の中に人の気配を感じたためである。 「誰かそこにいるの?」 帝国軍の間者。その考えを、アルテナはすぐさま打ち消した。熟練した間者ならば、武器庫にいることを悟られないように気配を隠すだろう。ましてや、扉の前に立つときに物音を立てたりはしない。 「城のなかにいらしたのですか、アルテナ様」 内側から武器庫の扉を開いたのがフィンだと知って、アルテナの顔は少し和らいだ。幼い日に自分の世話をしてくれた騎士は、十七年経った今でも、アルテナの助けになってくれていた。 「珍しいわね、リーフは一緒じゃないの?」 武器庫に他の者はいなかった。アルテナは武器庫に足を踏み入れると、フィンが槍の手入れをしていた場所のそばに腰を下ろした。 「今はお出掛けなのですが、今日の夕方にはリーフ様と槍の稽古をする約束があるので、こうして手入れをしています」 リーフは最近、剣だけでなく槍や斧、弓の鍛練を始め、さらにセティやアーサーから魔法の手ほどきを受けている。あらゆる武器と魔法を扱うことができるマスターナイトの資格を得ようとしているのだ。 「あなたから見て、リーフに槍の素質はありそう?」 「もちろんです。何と言ってもリーフ様は、槍騎士ノヴァと、キュアン様の血を引いておられますから」 リーフのことを話すとき、フィンがいつも嬉しそうに微笑むことを、アルテナは知っていた。そして、そんなリーフが少しだけ羨ましくもあった。 「フィンの顔を見てると、やっぱり私は、レンスターの王女だって気がするわ」 槍を磨いていた手をとめて、フィンは不思議そうな顔でアルテナを見た。アルテナは懐かしそうな顔で、壁に立て掛けられていた槍を手にとっていた。 「おかしなことだと思うけれども、フィンの顔を見ていると、レンスターにいたころの記憶が甦ってくるの。フィンも、父上も母上もリーフも、ちゃんと子どものころの記憶のなかにいるのよ。今まで忘れていたのが、不思議なくらい」 アルテナは近ごろ、少しずつではあるが、レンスターで育った幼い日を思い出しつつあった。だが、アルテナが生まれてすぐに、キュアンとエスリンはフィンを連れてグランベルに向かっており、帰国後はシグルド救援のための出兵の準備やリーフの世話で忙しく、彼女がレンスターで両親と過ごした時間は、ごく短いものだった。 「フィンも、大変だったでしょう。子どもの相手なんて」 キュアンとエスリンは、できるだけアルテナと一緒にいる時間を持とうとしたが、アルテナの遊び相手は主にフィンの役目だった。主君の家の子どもの世話は、騎士見習いにとって、重要な仕事の一つである。もっとも、その頃のフィンは、正式な騎士の資格を得ていたのだが。 「アルテナ様は私の言うことを、よく聞き分けてくださいましたから、それほど辛いとは思いませんでしたよ」 「私は、ということは、リーフは手のかかる子どもだったのね」 「いいえ、そんなことは決して!」 アルテナはいたずらっぽい表情でフィンを見上げた。慌てて首を振るフィンの様子がおかしくて、知らず知らずのうちに笑みがこぼれた。 「リーフに言いつけようかしら?」 「アルテナ様」 「分かっているわ、冗談よ」 二人は顔を見合わせて笑った。しばらく笑い合った後、フィンに見つめられていることに気づいて、アルテナはなぜか背筋を伸ばした。その耳に、フィンのつぶやきが届く。 「本当に、本当にアルテナ様は、大きくなられたのですね」 「十七年も経ったんだもの。変わらないほうがおかしいわ」 フィンは軽く息を吐いて、眩しそうに目を細めてからうなずいた。 「そうですね。十七年も経っているのですから。アルテナ様もリーフ様も、本当にご立派になられました。キュアン様もエスリン様もきっとお喜びでしょう」 フィンの言葉で、アルテナは両親のことを考えた。その人たちのことを、フィンやリーフと再会するまで忘れていたのだと思うと、気分が重くなった。 「私ね」 うつむいた自分の言葉の続きをフィンが待っているのが、アルテナには分かった。 「父上や母上は忙しくて、一緒にいる時間は短かったけれども、寂しくはなかったわ。でも、寂しくなかったからって、親のことを忘れてしまうなんて、薄情な娘ね、私」 何の疑問も持たずにトラキアで十七年も過ごし、両親を殺した張本人を父親だと思い込んでいた娘を、親たちはどう思っているだろう。薄情だと怒っているだろうか。愚かだと嘆いているだろうか。そんなことを思って、アルテナは深くため息をついた。 「キュアン様とエスリン様が、アルテナ様を薄情などと思われるはずがありません」 驚いて顔をあげたアルテナは、穏やかだが自信に満ちたフィンの声を聞いた。 「お二人とも、本当にアルテナ様のことを大切に思っておられましたから。アルテナ様が無事に生きておられて、リーフ様と再会されたことを、きっと喜んでおられますよ」 アルテナは首を振った。フィンの言葉を信じ、受け入れるには、アルテナはあまりにも両親のことを知らな過ぎた。 「キュアン様とエスリン様は、アルテナ様のことをいつも気にかけておいででした」 アルテナの様子に、フィンは気づいたようだった。ひと呼吸おいてから、言葉を続ける。 「シグルド様とともにヴェルダン、アグストリアにおられた時、お二人は毎日のように、アルテナ様のことを案じておられました。行く先々の町で、アルテナ様へのお土産を探しておられました。寂しがっておられるアルテナ様のためにも、一日も早く戦いを終わらせてレンスターに帰ろうと、口癖のようにおっしゃっていました」 アルテナは瞬きもせずにフィンの言葉を黙って聞いていた。いつの間にか、フィンの頭の上の小さな窓から、夕日が差し込んでいた。 「レンスターに戻ってからは、お二人ともお忙しくて、アルテナ様と一緒にいる時間は短かった。そのことを、とても残念に思っておられました。そこで、毎晩私にアルテナ様の様子を尋かれたのです。どこで何をしたか、元気だったか、欲しがっているものはないかと。そして、私におっしゃったのです」 一言一句たりとも違えることがないように、フィンは記憶を探りながらその言葉を紡ぎだした。 「『自分たちは戦いに身を置き、親としての務めを果たすことができなかった。子どもに顔を忘れられても文句は言えないが、この子たちが戦わずに済むような、平和な時代を作りたい。そしてお前には、子どもたちが健やかに成長できるように、手助けをして欲しい』と」 フィンの話に聞き入っているうちに武器の手入れを忘れていたことに、アルテナは気づいた。そして、アルテナが忘れていたものは、それだけではなかった。 「そうね、そうだったわ」 幼い日の光景を、アルテナは思い出していた。 昼下がりのレンスター城の中庭で、フィンがアルテナを追いかけている。幼いアルテナは身軽に逃げ回る。二人は鬼ごっこをしているのだ。 「アルテナ、フィン!」 駆け回る二人に、中庭に面した城の窓からキュアンが声をかける。アルテナが疲れを忘れて走り寄ると、弟を抱いた母エスリンが顔を出して、呼びかけるのだ。 「そろそろおやつにしましょう。アルテナ、フィンと手を洗ってらっしゃい。今日はアルテナの好きなキイチゴのパイよ」 アルテナは喜びの声をあげ、追いついてきたフィンに飛びつく。フィンはそのままアルテナを抱えあげ、アルテナの小さな体を、窓ごしにキュアンの腕へ移動させる。キュアンの体にしがみつきながら、小さなアルテナは笑う。 顔を見合わせて、嬉しそうに両親が微笑んでいる。アルテナが手を伸ばしてリーフの頬をつつくと、父の手がアルテナの髪を優しく撫でてくれた。 「フィンが仕えてくれた、私とリーフの父上と母上だものね。フィンの言う通りよね。……ありがとう、フィン」 「そこまで改まって言われては恐縮です、アルテナ様」 フィンの笑顔は、昔と変わらない。穏やかで優しい笑みは、両親の笑みにどこか似ていて、アルテナの心を落ち着かせてくれた。 レンスターでの幼い日、アルテナの側には優しく笑う騎士がいた。彼の背中ごしに、アルテナを見てくれている父母がいた。他の誰でもなく、アルテナ自身がそのことを知っていた。寂しいと思うはずがなかったのだ。 「ねえフィン。私に、父上と母上のことと、リーフが小さかったころのことを、もっと話してくれる?」 アルテナの両親は、既にこの世にはいない。だが、優しく笑った騎士は、今もアルテナの側にいる。彼女の弟と、父母の思い出を守りながら。 「はい、アルテナ様、喜んで」 フィンは、笑ってうなずいた。 |