はじまりの白


 母の若草色の膝掛けは、幼い私の宝物だった。
 当時を知るものの言葉によれば、私はその膝掛けがたいそう気に入っていたらしく、昼寝をすれば毛布に使い、庭に出れば外套代わりに羽織っていたというが、あいにくと覚えていない。記憶にあるのは、髪飾りで頭に留められた膝掛けの重みと、目の前で揺れる刺繍の花だ。
 子どもの遊びでは、身近なものが様々な道具に変わる。膝掛けを花嫁のヴェールに、大人ものの外套を花嫁衣装に見立てた”お嫁さんごっこ”は、私のお気に入りの遊びの一つだった。
 記憶と想像の混じった光景のなかで、幼い私は膝掛けを頭にかぶり、外套の裾を引きずって廊下を歩いている。開かれた扉をくぐれば、そこはお城の子ども部屋ではなく、神聖な儀式の場だ。紅色の絨毯を踏みしめて、私は長机の祭壇に向かう。
 ヴェールをめくるのは、外套を貸してくれた騎士の大きな手。赤と緑に塗りつぶされていた両眼が、彼の青い瞳を映す。どちらともなく微笑むと、私たちは手を取って、誓いの言葉を口にするのだ……。
 竜騎士のささやかなものから貴族の華やかなものに至るまで、結婚式には幾度も立ち会ってきたが、私が結婚という言葉を思い浮かべたとき、なぜかついてまわったのは、その幼い情景だった。トラキアでは決してありえない場面の意味を知ったのは、数年ほど前のことであったけれども。
 そして今日。遠い日と同じ、花をあしらったヴェールを着けて、私は本物の花嫁になる。


「お姉さま、どうかなさいました?」
 私が息をついた音を聞きつけて、ナンナが振りかえった。公務の合間を縫って式の準備を整えてくれた妹は、この日も私の身支度を手伝ってくれている。控えの間を動き回って侍女たちに指示を与える姿は若々しく、とても一児の母親には見えない。
「ええ……。少し、考え事をしていたの」
「考え事を?」
「たいしたことではないだけれど」
 小首を傾げた妹の姿が、正面の鏡に映る。腕の中で、白いヴェールが揺れていた。金銭を積めば大陸一の仕立て屋に注文することもできただろうに、私のために手ずから針を通してくれた、その心づかいが嬉しい。
「ナンナは、小さいころからリーフと一緒だったのよね」
 年かさの侍女が私の髪に櫛をあてる。その傍らに佇むナンナが相槌を打つよりも早く、呟きが私の唇を滑り出た。
「子どものころに結婚の約束をした人と、大きくなってから本当に結ばれるのって、どんな気持ちがするの?」
「お姉さまっ」
 紅を刷いたように、妹の頬が色づいた。からかったのではない。ただ、子どものころの他愛ない宣言が実現するとき、人はどんな思いでそれを迎え入れるのか、知りたかったのだ。何しろ、ナンナはわずか四歳のころに、弟の”求婚”を受け入れていたというのだから。
「あの子、小さいときから言っていたんでしょう? ナンナは僕のお嫁さんだって」
 髪を梳く侍女の手が、微かに震えていた。どうやら、笑いをこらえているらしい。その隣では、ナンナが両手で口元を覆っていた。
「もう、誰から聞いたんですか?」
「それは秘密」
 笑みを浮かべて言うと、私は顔を上げて鏡の中の自分自身と向きあった。髪のひと房が、侍女の手で ねじり上げられている。その動作を見守っていたナンナが、ややあって口を開いた。
「本当は、憶えてなかったんです。リーフ様が子どものころに仰っていたこと」
「あら、かわいそうに」
 幼い日の求婚を、恥ずかしそうにされど誇らしげに打ち明けてくれた弟が、やや気の毒に思える。だがそれは、ナンナの次の言葉を聞くまでのことだった。
「でも、リーフ様とは物心つく前から一緒にいましたから、離れて暮らすことなんて考えもしなかったんです。リーフ様と私はいつまでも一緒にいるものなんだって、そう思っていました」
 リーフ様には内緒ですよと言って、ナンナは照れたように笑った。その表情が弟のものに重なって、夫婦は長く連れ添うと似てくるのだという言葉を、私は思い出していた。時を重ねれば、やがて私たちもそうなるのだろうか。
「私にはリーフのことをとやかく言えないの。何と言っても、三歳のときに、未来のお婿さんを決めていたっていうのだから。……家系なのかしらね」
 ナンナは首を傾げるだけで答えない。侍女の乾いた手が髪から離れる。丁寧に結い上げられ、真珠の髪飾りでまとめられた栗色の髪は、私自身のものではないようだった。
「あなたとリーフのように一緒に生きてきたわけではないけれども、私たちは今日、子どものころの約束を実現させる。彼と本当の夫婦になるのだと思ったら、色々と考えてしまったのよ」
 肩をすくめて笑う私の耳で、大粒の真珠が揺れた。王族でさえも贅沢が許されないトラキアでは、決して目にすることのなかった高価な装飾品。
「私は、ずっと憶えていたのよ。お嫁さんごっこの相手をしてくれた、彼のことを」
 貧しい民の先頭に立って戦った養父と兄は、子どものままごとに興じるような人ではなかった。父でもなく兄でもない知らない誰かと、トラキアではない場所で過ごす鮮やかな情景を、私は心の奥に宝物のようにしまいこんできた。
「素敵じゃないですか。大きくなってからその人とめぐり合って、恋をして結ばれるなんて」
 ナンナは明るく言い、私の背後で手製のヴェールを広げた。薔薇の刺繍が波うち、目の前が白く覆われる。
「おきれいですわ、お姉さま」
 ヴェールの端をわずかに上げて鏡を覗くと、支度を整えた一人の花嫁が映っていた。控えの間の各所から、侍女たちの歓声があがる。着飾ることが楽しいとは思わないが、今日この日のために、私のために作られた花嫁衣装の美しさに悪い気はしない。この姿を目にしたとき、彼がどんな顔をするのかと思うと、自然と口元がほころんだ。
「アルテナ様、ナンナ様、陛下が部屋の外でお待ちです。そろそろ、お時間かと」
 駆け寄ってきた侍女が、遠慮がちに囁きかける。ナンナの手を借りて立ちあがり、私は扉へと歩き出した。部屋の外では、弟が待ちくたびれた表情で立ち尽くしていた。
「リーフ様、しっかりお役目を果たしてくださいね」
 そう言い残してナンナが入りこんだ聖堂から、低い音色が流れてくる。私と彼が夫婦になる誓いのときが、近づいているのだ。表情を引き締め、私は重い樫の扉を見つめた。
「姉上」
 わずかに顔をあげると、琥珀色の眼差しが私を見つめていた。いつの間に弟は私の背を追い越したのだろう。再会したころは、常に私を見上げていたはずなのに。
「どうぞお幸せに。それから、フィンをよろしくお願いします」
 祭壇の前で待つ彼は、弟にとっても大切なかけがえのない人なのだ。深く頭を垂れる弟に向かって、私は何度も頷いてみせた。胸が詰まって、言葉が出なかった。
「泣かないで下さい。式の前に姉上を泣かせたとあっては、私はナンナに叱られてしまいます。セルフィナとエダにも」
 私の肩の力を抜こうとしてくれているのだろう。弟の声はおどけていたが、どういうわけか表情には冗談のかけらがほとんど見当たらなかった。どうやら新トラキア王国の国王陛下には、妻のほかにも頭の上がらない女性が何人かいるらしい。思わず吹き出しそうになった私と、そう仕向けた弟に、老齢の神官が咎めるような眼差しを向けた。彼の合図で聖堂の扉が開かれる。高い窓から差し込む光のなかに、最愛の人の後姿が浮かんでいた。
 私が足を進めるたびに、銀糸の刺繍が施された白い裾がゆるやかに揺れる。白はすべてを覆う色だ。今日まで生きてきたすべてを花嫁衣装に包んで、私は彼のもとに行く。
「フィン、姉上を頼む。二人で幸せになって欲しい」
 リーフの低い声を、私の耳は捉えていた。わずかに顔をあげると、フィンがリーフに向かって、深く頷いているのが見えた。花婿の白い礼服が、引き締まった体を包んでいる。騎士である彼が、主君であるリーフを義理の弟として扱うことは決してありえない。私が選んだのは、そんな人なのだ。
「あなた、幸せになりましょうね」
 ヴェールごしに、私は囁きかける。微笑みを返してくれる優しい眼差しに、どうしようもなく涙が溢れた。こらえきれなかった雫が落ちて、花嫁衣装の襟に吸い込まれていく。
 すべてを包む白が、すべてに染まる色でもあることに、このとき私は思い至った。夫婦のはじまりを告げる色。白に包まれて誓いの儀式に臨むのが私たちならば、白を染めるのも私たちなのだ。私たちの未来がどんな色をつけるのか、それはまだ誰にも判らないけれども。
 コープルの若い声が、儀式の幕を開ける。絹の手袋に包まれた手を静かに差し出すと、私の花婿さんは正面を向いたまま、黙って握り返してくれた。


 フィンとアルテナの結婚式です。恋人になる前の話をまだ書きあげていないのに、
先にお嫁入り話をアップしてしまいました。
 そのわりに出張ってくれたのがリーフとナンナ。
フィンとアルテナの結婚式だというのに、話の中盤でのろけてくれました。
 作中でアルテナは白い花嫁衣装を着ていますが、
実際には白い花嫁衣装の歴史は浅く、
ヴィクトリア女王が白いガウンを着て式を挙げるまでは、
王族の女性は銀の花嫁衣装を着るのが通例だったようです。
  (参考文献:十九世紀イギリスの日常生活 松柏社)
まあ、イメージを優先させたということで。

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