後藤さんが、お父さんに挨拶をしました。


 永田有里という女性に、箱入り娘と言う表現を用いると、彼女を知る者の大半は不思議そうな表情を浮かべ、それが居酒屋「東東京」のビールケースだと知らされると、一様に笑みをこぼす。小さな少女が料理や酒を運び、大人の注文に応える姿は、多くの客を微笑ましい気分にさせたものだ。
 成人した彼女は、広報スタッフとして、いまやETUに欠かせない人間となっている。勤勉で飲みこみが早いという評価は、決して後藤の贔屓目ではないだろう。そして、通訳を志していた時期のある彼女には、語学という大きな武器があった。
「有里ちゃんも、一緒にイングランドに来てもらいたいんです。この時期、広報が忙しいのは承知していますし、無理をさせることになりますが……」
 渋い茶でも飲んだかのような永田会長の表情に、後藤は肩を強張らせた。仕事とはいえ、嫁入り前の娘と、二人きりで海外に行かせてほしいという申し出に、快く首を振る親は稀である。
「あいつはどう言ってる。後藤君に着いて行くつもりなのか?」
「ええ。昨日、返事をもらいました。有里ちゃんが来てくれるなら、俺も心強いです」
 永田会長は首を振った。たとえ会長の権力をもってしても、娘の意思は曲げられないことを熟知しているのだろう。有里が後藤の頼みに応じてくれたことは、実にありがたかった。
 ETUの星と呼ばれた男と共にピッチを駆けた日々は、後藤にとって忘れがたいものだし、ヒーローの思い出は、有里の心の中に大切に仕舞い込まれているものだ。達海猛の記憶は、後藤と有里だけではなく、かつてETUに関わった大勢の人々が共有している。永田会長は幾許かの期待を込めて、後藤の渡英に許可を出したのだろう。
「……役に立つかどうかは、分からねえぞ」
 それは遠まわしな拒絶ではなく、事実の指摘であった。達海を探す手がかりは、送られてきた一枚のポストカードしかないのである。リターンアドレスが記されていないのが、良くも悪くも自由だった達海らしいと後藤は思うが、単にルーズなだけだと有里には呆れられた。
「確かに、達海を見つけだす見込みは薄いかもしれません。ですが、有里ちゃんは俺の力になってくれます。それで充分です」
出発を前にして、有里は異国の地に赴く後藤の不安を和らげ、一人ではないという安心感を与えてくれていた。彼女の同行が叶わなければ、達海も見つからない。そんな妄想にも似た考えが、後藤の口調を強めた。
「……まあ、向こうで通訳を雇うよりは安上がりだろうな」
 永田会長の落ち着きはらった表情が、顔を上げた後藤の目に飛び込んできた。
「あいつもガキじゃねえんだ。気をつけて、行ってきてくれ」
 目の奥からこみあげてくるものを抑えながら、後藤は頭を下げた。ETUのGMとして、一人の人間として、彼は信頼を寄せられている。父と娘への感謝をこめて、力強く彼は言った。
「ありがとうございます。たとえ何が起こっても、有里ちゃんは俺が守ります」



「居酒屋って、確かおやっさんのところだろ? お前、よく叱られてべそかいてたよなあ」
「泣いてない! だいたい、何でそんなことばっかり思いだすのよ!」
 達海と有里のやりとりを、後藤は笑いを噛み殺しながら聞いている。居酒屋の娘をきっかけに、達海はETUに在籍していたころに親交のあった人々を、記憶の底から引き上げつつあった。現在のETU会長は、有里の父親として頭に残っていたようだが、そこに怒りのイメージが付いているのは、有里が叱られている姿を目にしていただけではなく、達海自身にも雷を落とされた経験があるからだろう。
「あのおっかなかったおやっさんに、よく海外旅行なんて許してもらえたよなあ。それも後藤と二人きりなんて」
「仕事だから当たり前でしょう。どうして皆、それがすごいことみたいに言うの?」
 有里は不機嫌そうに息を吐いた。永田会長は厳しい父親だと周囲からは思われているし、本人も家長としての威厳を保ちたいと考えているようだが、実際は娘に頭が上がらないことは、永田家と親しい者ならば誰もが知っている。一〇年の月日は有里の外見だけではなく、親子の力関係までも変えてしまったのだ。
「後藤、信頼されてんだね」
「だったらいいんだけどな。単に有里ちゃんには、男として見られてない気がするよ……」
 苦笑とともに、後藤は達海に耳打ちする。窓ガラスに近づけた有里の横顔は、異国の景色に心を弾ませる少女のものであった。


大人としてきちんと仕事をしていても、
有里ちゃんにはまだ幼い一面が残っていると思っています。
後藤さんと二人で旅行に行っても何もないのは、
そんな彼女の少女らしさが原因なのかもしれません。

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