「ちょっと言い過ぎでしょ、有里ちゃん」 有里に厳しい言葉をかけられた後藤が、軽く顔をしかめている。二人のやりとりに慣れているのか、ハンドルを握る広報部長は、声を立てて笑っていた。 自分も笑っていいものか判断に迷ったものの、クラブハウスから持ちこまれたような馴染みのある空気が、椿の肩の力を抜いたのは確かだった。有里が指摘したとおり、彼が一人で日本代表の集合場所に向かっていたならば、緊張のあまり途中で身動きが取れなくなっていたかもしれない。 「忙しいのにクラブハウスを抜け出してきたんだから、戻ったら溜まった仕事片付けてよね?」 「分かってるよ」 「後藤さんだけじゃなくて、部長もですよ」 有里の声を聞いた瞬間、広報部長の背筋がわずかに伸びたのを、椿は後ろから見ていた。他のクラブの事情は知らないが、一介のスタッフがGMや部長よりも強い発言力を持っているのは、多分ETUだけだろう。 「でもまあ、椿君の晴れ姿のためだもの。ちょっとくらい仕事が忙しくなっても平気よね」 東京ダービーの直後に椿が日本代表に選出され、ETUの広報部が多忙を極めていることは、当事者としてコメントを求められている椿も知っていたが、有里の顔に不満や苦労はうかがえなかった。どちらかと言えば、後藤の方が疲れているように見える。 「俺のために時間を使ってくれるのは本当にありがたいんですけど、みなさん、無理はしないでくださいね」 考えていることを上手に言葉に出せないせいで、有里に苦労をかけているという自覚に突き動かされた結果、椿に向けられたのは、驚きの表情だった。丸く見開かれた部長の目が、ルームミラーに映っている。 「すいません、生意気言って。でも、永田さんが倒れたときは大変だったって世良さんから聞いてるんで……」 母が体調を崩した幼い日の光景が、椿の頭に蘇る。有里はETUにとって、まさしく母親のような女性なのだ。肩書きはなくても、家やクラブという集団に属する人間にとってかけがえのない存在。 「有里ちゃん、ついに椿にまで言われるようになったか」 「ちゃんと反省してます。もう、あんな無理はしません」 笑みを浮かべる後藤とは対照的に、有里が頬を膨らませた。どうやら、先ほどとは形勢が逆転したらしい。 「椿君、心配かけてごめんね。それと、ありがとう」 「いえ……」 まっすぐな感謝の気持ちと、有里の笑顔が椿には眩しい。さりげなく移動させた視線の先には、東京の空が広がっていた。 「そういえば、椿君」 有里に名を呼ばれて、椿はこころもち姿勢を正した。 「夏頃の話だけど、私のこと、名前で呼んでなかったっけ?」 車の空調が故障したかのような寒気と熱気が、椿の体を駆け巡った。 「そういえば、有里ちゃん、わざわざ俺に報告してくれたもんな。『椿君が名前で呼んでくれるようになった』って」 後藤という証人がいれば、有里の勘違いで押し通すという手段は使えない。椿は口下手で、嘘は苦手だが、隠しておきたい事の一つや二つはあるのだった。 「残念。せっかく椿君に心を開いてもらえたと思ったのに」 有里の黒い瞳が椿の心に突き刺さる。仕事での付き合いを重ねるうちに、彼女に家族のような親しみを覚えたのは事実だ。彼女を名前で呼ぶチームメイトを、羨ましいと感じたのも否定はできない。 「お前、本当に度胸ついたよな」 勇気を振り絞って彼女の名前を呼んだ椿を、宮野は心から賞賛したものである。だが、広報スタッフの名を呼んだ椿が得たものは、若干の気恥ずかしさと達成感だけではなかった。 「有里さん!? 永田さんじゃなくて有里さん!?」 「椿。てめぇ、誰に断ってあいつのこと名前で呼んでんだ?」 「お前、いつの間に有里さんとそんな仲になったんだよ?」 ETUにおいて、有里のファーストネームを呼ぶことができるのは、おそらく選ばれた人間だけなのだ。年長のチームメイトの剣幕を前に、椿には引き下がることしかできなかったのである。 「もしかして、取材で無理をさせすぎて嫌われちゃった?」 「椿君。時には無理なものは断ることも大事だよ」 「いえ、あの。そういうことじゃないんです。取材は難しいこともありますけど、だからって、俺は永田さんを嫌いになったりはしません」 音が切り取られたかのように、車内に沈黙が広がる。だが、椿の胸に後悔が広がるよりも早く、有里が声を詰まらせていた。 「ありがとう、椿君。本当にいい子ね。名字呼びに戻ったからって、私気にしてないから」 「はい……」 謝罪も感謝も正解ではないような気がしたので、椿は返事だけにとどめておいた。 「椿はまだ若いんだ。今まで母親のことを『お母さん』って呼んでいた男の子が『お袋』や『オカン』を使うような、そんな微妙な時期に差し掛かってるんじゃないのか?」 「なるほど。昔、男の子だった後藤さんに言われると、説得力があるなぁ」 頷く有里の顔を斜め後方から眺めながら、椿は彼自身とチームメイトのために沈黙を守った。 再び、有里を名前で呼べる日が訪れたならば、それは椿の成長の証なのかもしれない。 和やかな空気を運びながら、ETUの営業車は目的地へと近づいていった。 「お前がクラブ総出でお見送りされてるのを見たときは、どれだけ過保護なんだと思ったが、俺の考えが浅かった」 椿の体調不良の原因はホームシック。チームドクターの診断が下りたわけではないが、ETUのチームメイトである夏木が合流した途端に椿が活力と食欲を取り戻したことから、そのように考える人間は少なくはなかった。椿がETUのスタッフに送り出される場面を日本で目にしていた八谷は、朝食の席で神妙に頭を下げたものである。 「椿、あの時は幼稚園児みたいだとか言って悪かった。選手に必要なものを理解している、優しいスタッフじゃねえか……」 感極まった表情とともに、八谷は椿の肩に手を置いた。ETUに対する彼のイメージには、おそらく誤解と思いこみが混じり合っているのだろうが、それらを訂正できる自信が椿にはなかった。言葉を使って物事を説明するスキルが低いことを、彼は自覚している。 「椿の見送りに来てたスタッフって、広報の姉ちゃんやろ。……なあ、あの子って彼氏おるんか?」 畑の質問に、朝食を取っていた選手たちがわずかに、しかし鋭く反応を示した。どことなく修学旅行の雰囲気が漂っていたU−22の海外遠征と同じように、A代表でも「コイバナ」は盛り上がるものだ。それらの聞き役を務めている椿の言葉と、ETUの名物広報のプライバシーに期待する気配が、テーブルの周りに漂っている。 「お父さん」 「あ?」 牛乳とオレンジジュースをグラス一杯ずつ飲み干した後だというのに、椿の唇はひどく乾いていた。そこから飛び出した単語に、畑が眉を寄せる。 「永田さんには、お父さんがいます」 「だから何やねん」 ごく当然の指摘を受け、椿は金魚のように口を開閉させた。通訳やコーチとテーブルを囲んでいるブランが、好奇心に満ちた顔で自分を見ているような気がする。朝食の席で予想もしない窮地に立たされた椿に救いの声をかけたのは、同い年の友人だった。 「それってもしかして、前に話してた会長さんのこと?」 黙って、そして勢いよく首を縦に振りながら、椿は隣席で味噌汁入りのカップを手にしている窪田に感謝をこめた視線を送った。 「ETUの会長て、あの怖そうなオッサンか!」 「確かに、あの人は『貴様のような男に娘はやれん!』と言いそうな顔をしているな」 逆さに振っても椿の父親からは出てきそうにないセリフを口にするイメージが、ETUの会長には付いているらしい。納得したように頷く八谷に、隣のテーブルから星野が口を挟んだ。 「八谷さん、そういうシチュエーション好きそうっすね」 「困難を乗り越えてこそ、愛は深まるものだろう」 八谷の笑い声と共に、会話の中心はいつしか川崎の二人に移った。 「窪田ちゃん、さっきはありがとう。おかげで助かったよ」 ホテルの食堂から自室に戻るエレベーターの中で、椿は窪田に心からの感謝を口にした。 「さっきのあれだね。僕も半分ぐらいは思いつきだったんだけど……」 視線が上を向くのは、窪田が考えこむ時の癖だ。それが彼のチームメイトや大阪ガンナーズサポーターから「交信」と呼ばれていることを異国の地で教えられた椿は、友人の言葉を静かに待つ。 「もし永田さんって人が、椿君にとっての『お母さん』だったら、さっきの『お父さん』って言葉の意味も変わってくるかもね」 「ええっ、怖いこと言わないでよ、窪田ちゃん!?」 弟分として目を掛けている選手に母親扱いされた挙げ句、夫役まで宛がわれていたと知れば、有里はきっと嫌がるだろう。眉をつり上げる彼女の顔を想像して、椿は首をすくめた。 |