福神漬けは好みで


 開始予定時刻の十五分前を過ぎても、その日のETUの練習場には、選手はおろか、コーチの姿もなかった。
 フットボールクラブにとって、練習スケジュールの変更は珍しいことではないが、それらはクラブの担当者によって速やかに通達される。しかしETUの番記者たちは、練習スケジュールが変更されたという連絡を、誰ひとりとして受けてはいなかった。
「公式には何も出てませんね」
 携帯電話を閉じながら、記者の一人が首を振った。
「オフですかね?」
「今のこのチームにそんな余裕はないだろう。次は村越が出停だってのに」
 話しこむ同業者の後姿から、藤澤はにわかに騒がしくなったクラブハウスに視線を移した。練習着に身を包んだ男たちが、ETUの敷地を出ようとしている。彼らを見送っているのは、トップチームの監督だった。
「椿選手!」
 達海猛と椿大介。二人にはETUの七番というだけではなく、コメントやインタビューが取り辛いというマスコミ関係者にとっては厄介な共通点がある。一瞬の判断で藤澤は後者を選び、勢い良く走り寄った。
「どちらに行かれるんですか? 今日の練習は?」
 呼びかけに応えて椿は足を止め、藤澤に頭を下げた。彼が動物に例えられるのは、プレースタイルに限ったことではない。緊張に強張った顔つきは、いっこうに人に慣れる気配のない野生の獣を連想させた。
「練習は……俺にもどうなってるのかわかんなくて。赤崎さんたちは買出しに行ってて、俺たちは今からこれ配って来るようにって、監督が……」
 紙の束から一枚を引き抜いて藤澤に差し出すと、椿は黒田たちを追いかけて走り去った。
「何なの、これ」
 白いコピー用紙に、藤澤の呟きが落ちた。チラシの文面によれば、本日、ETUのクラブハウスで、チキンカレーが無料で百人に振る舞われるという。クラブが企画したイベントであれば、事前に告知が行われていただろうし、当日に子どもの落書きのようなチラシを選手に配らせるはずがない。思いつきでETUの選手やスタッフを動かせる人間など、藤澤には一人しか心当たりがなかった。
「また変わったこと思いついたもんだなあ」
 山井が頭をかいた。カレーパーティーの発案者にインタビューを試みたものの、引き出すことができたのは、大盛りのカレーが食いたくなっただの、スポーツ選手だから鶏肉がいいと思っただの、そんな発言だけだったらしい。日ごろ監督とマスコミの間に立って、忙しげに動き回っている広報担当者の姿は見えなかった。
「あー、永田さんのエプロン姿、撮っとくんだった」
 撮ってどうする気よ。若い記者の呟きに、藤澤は心の中でツッコミを入れた。その傍らで、山井が腕を組んでいる。どうやら彼は、クラブハウスに残って取材を続けるつもりらしい。
「クラブ総出でカレー作ってるみたいだな」
 突然のカレーパーティーが、単なるファンサービスや息抜きだとは藤澤には思えない。野菜を切るスピードが川崎戦のスタメンに影響するはずもないが、選手を買出しやチラシ配りに行かせ、そしてカレーまでも作らせる達海の意図を見極めたかった。
「こんなことなら、ここに来る前に、メシ食うんじゃなかった。失敗したな」
 藤澤は、山井に冷ややかな眼差しを向けた。
 ケガやヤケドなどのアクシデントもなく調理は順調に進み、ETUのクラブハウスが食欲を刺激するカレーの香りに包まれたころ、それに誘われたかのように人が集まりはじめた。チラシではなくインターネットを通じて、カレーパーティーの開催を知った者もいるのだろう。若い男性が携帯電話を操作しながら、クラブハウスの様子をうかがっていた。
 最初に会議用の長机が選手の手で運び出された。そして業務用炊飯器と食器。カレーの入った大鍋がコンロに置かれると、参加者から歓声が上がった。男性スタッフの誘導で、鍋の前に列が作られる。
 エプロンを着けた男性のなかに、藤澤は会長と副会長を見つけた。イベントにありがちな長い挨拶などせず、彼らは鍋をかき混ぜている。河童がカレーを食べるかどうかはともかくとして、いつの間にかETUのマスコットも姿を現していた。不在の者を除き、クラブ総出という言葉に偽りはないようだった。
 クラブハウスの周辺は、歓声と笑い声に溢れている。談笑の合間にサインや写真撮影に応じる選手たちも、楽しげな表情を浮かべていた。
「盛り上がっていますね」
 藤澤の声に顔を上げたのは、取材を通じて顔なじみとなった広報部の女性職員だった。記者が言っていたとおり、シンプルなデザインの白いエプロンを身に着けている。
「今日のイベントは、監督が企画されたそうですね」
「そうなんです。急なことで、最初は驚きました」
「選手はどうです? チラシを配りに行った椿選手は、困惑しているように見えましたが」
 藤澤を見上げる丸い瞳に、思案の色が漂った。カレーを味わう人々を眺めながら、彼女は腕を組む。
「そうですね、まったく驚いてなかったと言えば、嘘になると思います。でも、選手たちがパーティーのことを知った時には、食堂の人たちは既に動き出していましたし、チラシも出来てました。それで、サポーターや地元の人が来てくれるんだから、やらないわけにはいかないってことになって」
「誰かが選手をまとめあげた?」
 村越という答えを、藤澤は心のどこかで期待していたのかもしれない。キャプテンとしてETUを支え続ける男が、選手やサポーターから強い支持と信頼を得ていることは、サッカー関係者にとって周知の事実である。しかし広報の返答は、藤澤の考えを容易く打ち崩した。
「私が見た限り、そういうのはなかったと思います。指示をもらって作業をしているうちに、いつの間にか、企画を成功させようっていう雰囲気ができていた。そんな感じでしたね」
 達海監督は何も言わなかっただろうか。藤澤が質問を重ねようとしたとき、広報は顔を上げた。藤澤よりもわずかに低い視線の先で、スタッフの一人が手招きをしている。右手を上げてそれに応じた直後、彼女は藤澤の名を呼んだ。
「カレー、よければ食べていってくださいね。味は保証しますから!」
 藤澤の表情を見届けると、広報は笑みを浮かべてカレー鍋のもとへ駆けていった。
 戸惑いはしたものの、選手やスタッフは与えられた役割を果たしたのだ。サポーターや地元住民の表情を見れば、その成果は明らかである。カレーパーティーというイベントを成功させるために、ETUの人間が自ら行動を起こすことが、達海の目的だったのかもしれないと藤澤は思った。
 改めてETUの敷地を見渡し、彼女は歩き出す。年齢性別を問わずに築かれた人々の輪は温かく、和やかな空気に満ちていた。



 昼間の賑やかさが去ったクラブハウスで、有里はパソコンに向かっている。
 カレーパーティーの片づけを終えて、選手や多くのスタッフは既に帰宅していたが、広報の彼女には、まだ仕事が残っていた。その日のクラブの出来事を、レポートとして公式サイトに掲載するのだ。カレーパーティーは楽しい話題をいくつも提供してくれたが、有里自身がカレー作りにかかりきりであっために、選手が調理を手伝う様子や、チラシを配る姿を撮影できなかったことが惜しまれる。
 ETUがカレーパーティーを行ったというニュースは、居合わせた記者たちの手で、既に発信されている。マスコミのネットニュースやリーグジャパンの公式応援サイトだけではなく、サポーターのブログや不特定多数の人間が書きこむ掲示板も、多くの人々の意見に触れることができる場だ。レポートを書き終えると、有里は右手をキーボードからマウスに移動させた。
 カレーパーティーはおおむね好評であったものの、当日にチラシを配るという告知方法には、やはり問題があったようだ。パーティーが行われることを知っていれば、会社を休んででも参加したという嘆きに、有里は思わず詫びを入れたくなった。次のイベントがあるとすれば、前もって計画を立て、告知や宣伝にも力を入れるべきだろう。
 新たなページを開いた途端、有里は動きを止めた。大きく開かれた瞳が瞬きを繰り返し、わずかに開かれた唇から、弱々しいうめき声が漏れる。廊下を通りがかった達海が、それを聞きつけて事務室に顔を出した。
「どうした? パソコンでも壊れたか?」
 有里が力なく示した液晶画面には、ETUの選手たちが配っていたカレーパーティーのチラシが表示されていた。ご丁寧に「作:達海監督」というキャプションが付いている。人々の注目を集めるという点において、チラシの効果は大きかったが、必ずしも大きければ良いというものでもない。パッカくんを名乗る画面上の生き物から目をそらし、肩を落としながら、有里は搾り出すように言った。
「達海さん。今度、何かやるときは、必ず広報を通してよね。お願いだから……」


 サイト開設十周年企画でリクエストを募っていたときに、コツメさんから
「いつか藤澤さんばなしを書いてください」というメッセージをいただいていました。
 一年以上経ち、ようやく藤澤さんが主役の話を書くことが出来ました。
 カレーパーティーがきっかけで、石神さんはスタメンを手に入れたわけですが、
具体的には何をしていたのでしょうか。
 コータ君が「いい奴」と言っていたので、子どもを相手にサッカーや人生の
面白くてためになる話をしていたのかもしれませんし、
 食堂のオバちゃんと談笑しながら、カレー作りを手伝っていたのかもしれません。
石神さんは自炊をしている感じはしませんが、なぜか大根のカツラ剥きや
野菜の飾り切りができそうなイメージがあります。

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