サテライトとは異なるスケジュール、新たなロッカー、そして新たな背番号。トップチームへの昇格は、椿を取り巻く環境を変えたが、持ち前の性格のせいか、そこにはまだ怯えと緊張が漂っていた。 人間関係に問題はない。同い年の宮野とはすぐに仲良くなれたし、世良や赤崎は、椿が一日も早くトップチームに馴染めるように世話を焼いてくれる。先輩の黒田や村越は少し怖くて近寄りがたいが、悪い人ではないことは理解しているつもりだ。 コーチやチームメイトに怒鳴られないように、そして呆れられないように、少しでもミスを減らしたい。午前の練習に間に合うようにクラブハウスに到着した椿が目にしたものは、白いビニール袋を提げてロッカールームを出る女性広報の姿だった。 「おはよう椿くん。早いね」 笑いかける有里に向かって、椿はぎこちなく頭を下げた。ペンやカメラが見当たらないことに、ひそかに安堵する。サテライトとは比べものにならない取材の量に、彼はまだ慣れてはいなかった。 「何かあったんですか?」 広報の業務に加えて、有里はクラブの細々した雑用も一手に引き受けている。電球の交換でもしたのかとロッカールームを覗きこんだ椿が見たものは、選手たちのロッカーに並んだスポーツドリンクのペットボトルだった。 「今日はバレンタインデーだから。私からの贈り物です」 有里に言われて、椿は二月十四日という日付が意味するものに気がついた。開幕を控えてサッカーに集中していたと言えば恰好がつくかもしれないが、単に商店街を飾るピンク色のハートや、テレビ番組の特集コーナーが目に入っていなかっただけである。 「チョコは体重、気にしてる人もいるから、欲しい人だけに用意してるの。給湯室に置いてあるから、椿くん、みんなに伝言お願いできる?」 椿の返事を聞くと、有里は軽い足取りで廊下を駆けていった。練習が始まるまでに、彼女にはやるべき仕事が残っているのだろう。 「お前さあ、何て顔してんだよ」 「差し入れもらっただけで、この世の終わりみたいな顔するやつ、初めて見たぜ」 未だに自分のものだという実感が薄いロッカーの前で、ペットボトルを握りしめたまま立ちつくす椿に、清川と石浜が笑いかけた。二人は有里から贈られたスポーツドリンクとカードを、大事そうにバッグにしまいこんでいる。スポーツドリンクには、選手に宛てた小さなメッセージカードが添えられていたのだった。 「有里さん、毎年あざーっス!」 「ここで言っても意味ないでしょう。直接、本人に言わないと」 赤崎は先輩にも後輩にも遠慮がないが、礼儀はわきまえているらしい。先ほど、有里に礼を言いそびれたことを思い出して、椿はうなだれた。 その日の午前練習は、有里が監督を引っ張ってきたおかげで定刻通りに行われた。バレンタインデーを理由にメニューに手が加えられるようなことはなかったが、一足早く春が訪れたかのような、どことなく和やかな雰囲気を、椿はコーチやチームメイトから感じ取っていた。 「黒田ぁー!」 練習を終えた選手たちに、サポーターが声をかける。黒田は複雑な表情で、野太い声の主である大男に近づいていった。村越の周囲には、人だかりができている。 「記念日に思いを託すなんて、皆、健気だね」 女性ファンに手を振りながら、ジーノが穏やかに微笑んだ。直々の指名で椿と赤崎が持たされた大きな紙袋は、甲高い声とともに贈り物で溢れかえった。 「サッカー選手って、すごいっすね……」 「お前も選手だろ。何、感心してんだよ」 王子宛のプレゼントをクラブハウスに運び入れ、整理まで請け負う羽目になった二人が食堂に入ったのは、チームメイトの大半が昼食を終えたあとだった。 「二人とも遅かったわね。これ、私たちから」 「ホワイトデー、期待してるからね」 チョコチップ入りのカップケーキが果物とともに盛りつけられた小皿を、椿と赤崎は礼を言ってトレイに移した。気にかかったのは、一般的に三倍と言われるホワイトデーの相場である。赤崎の皿が空になった頃合いを見計らって、椿は尋ねた。 「お返しは、いつもどうしてるんすか……?」 「皆で金出して、菓子とか用意してる。……去年は確か、丹さんと堺さんが買いに行ってたな」 手ごろな価格で女性が喜びそうなものなど、まるで見当がつかない。若手が有無を言わせず買い出しを命じられるわけではないことに椿は安堵したが、赤崎の言葉にそれは打ち砕かれた。 「言っとくけど、食堂のオバちゃんたちにだけだからな、そうしてるのは」 「……それじゃあ、永田さんや他の人たちには、自分でお返し用意しなくちゃいけないってことですか?」 頷く赤崎の呆れた顔を見ながら、椿は大きなため息をついた。 「他の人って、お前、誰かにもらったのかよ?」 「いえ……」 消え入りそうな声に、今度は赤崎がため息をつく番だった。そんな重い空気を割るように、個包装されたチョコレートがテーブルに乗せられる。椿が顔を上げると、紙袋に手を突っこんでいる世良と目が合った。 「給湯室行って来た! たくさんもらってきたから、お前らにもやるよ」 「世良さんは気楽ですよねぇ。こいつなんか、もうお返しのことで真っ青になってるってのに」 「すげえな、悩むほどたくさんもらったのかよ?」 赤崎と椿が同時に首を振り、食堂の一角に世良のため息が落ちた。 「俺、永田さんにスポーツドリンクのお礼、まだ言ってないし、お返しだってどうしたらいいか……」 ユース出身の赤崎や、人懐こい世良に笑い飛ばされることを覚悟の上で、椿は言葉をしぼり出した。トップチームに昇格して日が浅く、永田有里との交流が少ないことが、彼の不安を増幅させる。しかし二人の先輩は、神妙な顔つきで椿の言葉を聞いていた。 「お前のこと人見知りだと思ってたけど、そこまでとはな……」 視線を落とした椿を、世良がチョコレートのパッケージを開けながら励ました。 「そういうのって、簡単にどうにかできるもんじゃないだろ。とりあえず、今できることを考えようぜ」 「え、じゃあ、永田さんにお礼……」 「よし、じゃあ事務室行くか!」 勢いよく顔を上げ、世良はチョコレートを飲みこんだ。 「仕事中みたいっすね……」 右手でマウスを操りながら、有里はコンビニで買ったらしいサンドイッチを食べていた。クラブハウスの外はおろか、食堂にも行けないぐらいに忙しいのだろう。引き返すという選択肢を頭から消し去るべく、繰り返し膝を叩く椿を置きざりにして、赤崎と世良は事務室に入っていった。 「お仕事中、それともお食事中すかね? 失礼します」 「有里さん、昼メシ、それだけっすか? ダメっすよ、キチンと食わないと」 キャンプ前に有里が過労で倒れた場面を目にした世良が珍しく口調を強めた。最悪の事態が頭を駆け巡るばかりで、何も考えられなかったと語った先輩の興奮した面持ちを、椿は覚えている。事務机に置かれたアロエヨーグルトのパックと蜜柑が、彼の不安をわずかに拭った。有里は年ごろの女性らしく、菓子や果物は好きなようだ。 「これでも気をつけてるつもりよ。それはそうと、三人揃ってどうしたの?」 「俺はチョコレートをもらいに来ました。まだ給湯室に残ってますよね?」 ストレートな赤崎の物言いに、有里と世良、そして自身の机で作業をしていた後藤が一斉に吹き出した。先輩の度胸が、椿には羨ましい。 「わざわざ聞きに来たんだ。大目に買っておいたから、まだ大丈夫だと思うわよ。……椿くんも?」 「はい、俺は、それと、お礼を。朝の飲み物の……。あの、ありがとうございました!」 椿は勢いよく頭を下げた。灰色が視界を埋める。事務机にぶつかりそうになった彼の肩を、赤崎と世良が背後からつかんで止めた。 「大丈夫か? シーズン前なんだから気をつけろよ」 「ッス、大丈夫っす」 後藤が驚いたように立ち上がるのが見えて、椿は手と首を同時に振った。有里の苦笑いに顔が熱くなる。 「椿くんは緊張しすぎ。いつもそんなだと、試合に出ても活躍できないわよ?」 「活躍って、俺がですか?」 自分自身を指さして、椿は尋ねた。 「三人とも、達海さんにレギュラー候補だって言われてたでしょう。それに椿くん、足スゴイじゃない」 「ピッチの中、犬みてぇに走ってますもんねぇ」 「王子に犬扱いされてるのは、お前もだろ」 赤崎と世良のやり取りに、有里が弾けるように笑いだした。選手たちに目を配り、長所に期待を寄せてくれる彼女の快活さは、椿には少し眩しい。 一日も早く、トップチームと広報の取材に慣れてね。カードに記されたメッセージを椿が実践するには、時間がかかるかもしれない。それでも、優しい人たちに見守られて、頼もしいチームメイトと同じ道を行くならば、力の限り走っていけるような気がした。 有里の机の周辺を、後藤は穏やかな眼差しで見守っている。有里と三人の選手の会話は、まるで仲の良い姉弟のようだ。 彼女は今朝、後藤の机に水色の紙で包装された小さな長方形の箱を置いていた。事務所のスタッフやマスコミ関係者にはチョコレートを、選手にはスポーツドリンクを用意する気配りは、プロフットボールクラブという特殊な職場環境から生まれたものだろう。選手とそれ以外の人間を、有里は区別しているのだ。 後藤が見たところ、現在、有里に好きな相手はいないように思われる。幼いころから、有里の一番はETUだ。彼女の特別な人間になりうるのは、チームを勝利に導くことができる達海猛のような人間なのかもしれない。 だが、女心とは難解なものだ。恋心と憧れの違いが、男である後藤にわかるはずもない。安かったから。達海の朝食にチョコレートクリーム入りの菓子パンを付けた有里の言葉を思い返して首をひねりながら、後藤はトリュフチョコレートを大切そうに口に運んだ。 |