花の名前


 つまんねえ。
 驚きと怯えの入り混じった視線を左頬に受け、持田は考えを声に出していたことに気づいた。発言に注意を払うよう周囲から指導を受けている彼だが、決して動かない事実を口にして何が悪いのかという思いもある。
 ETUユースとの練習試合は、持田にとって実に退屈なものであった。
 都内に本拠地を置くプロフットボールクラブの下部組織とはいえ、東京ヴィクトリーとETUとでは歴史はもちろん、プロの舞台に送りだした選手の数も比べ物にならない。そしてチームの成熟度と選手の質の圧倒的な差を、東京ヴィクトリーのユースは持田のダブルハットトリックという形で示したばかりだった。
 一本目の練習試合が終わると、監督はスタメンを大きく入れ替えた。格下のチームを相手に新しいフォーメーションを試し、スタメンとサブを行き来している選手に出場機会を与えるのは珍しいことではない。持田が気に入らないのは、彼のチームが優位に立っているにも関わらず、相手を圧倒するには至っていないことだった。
 持田の苛立ちは、ETUユースの選手たちにも向けられている。スポーツの世界において、実力に大きな差のある相手の胸を借りるのは珍しいことではないし、世間の指導者は、敗北から得られるものの貴重さを口にするものだ。赤と黒のユニフォームに身を包んだ同世代の少年たちは、そんな綺麗事を疑いもなく信じているように 持田には見えたのである。
 勝つという強い意思があるわけでもなければ、楽しいわけでもない。持田はそんなサッカーに付き合わされるのは御免だった。
「持田、お前も集中しろ」
 コーチの声が、ピッチを走る選手だけではなく、ベンチの持田にも飛んできた。サッカーへの理解を深めるには、試合に出場するだけではなく、見ることも重要だという考えには同意するが、目の前で繰り広げられているテンポの悪いゲームから持田が学べそうなことは見つかりそうにない。
 両陣を行き交うボールに視線を固定したまま、持田はなけなしの忍耐力を費やし、約三十分後に試合終了のホイッスルを聞いた。
 二本目の試合結果は一対〇。タイムアップ直前に押しこんだゴールが決め手となり、東京ヴィクトリーユースが二勝目を挙げた。
 バレーボールのように取得したセット数で勝利が決まるスポーツならば、練習試合は東京ヴィクトリーユースの勝利で終わっていただろうが、サッカーは違う。監督は三本目の試合に持田を出場させる気はないようだったが、帰宅の許可をくれるわけでもなかった。わざとらしく腹を押さえ、持田は立ち上がる。
「おい、持田……」
「便所」
 戸惑うチームメイトに背を向けて、持田は歩きだしていた。気の乗らない事から抜け出して、適当に時間を潰す方法を彼はいくつも知っているのだ。
「持田クン、今日はもう試合出ないの?」
 聞き覚えのある声が持田の耳に入ってくる。ユースでの活躍が認められ、世代別代表にも選ばれている彼は、少しずつではあるがファンを得つつあった。都内とはいえ、アウェイの練習試合にまで足を運ぶ彼女たちの熱心さには、持田も感心させられる。
「決めるのは監督だけど、今日はもう出番無いだろ」
 肩をすくめる持田を見て、少女たちが落胆の表情を浮かべた。
「えー、どうする? もう帰る?」
「でも、特別に四本目の試合やるかもよ? そこで持田クン出番あるかもしれないじゃん」
 練習試合を最後まで見るべきか話し合う少女たちの脇を通り抜けて、持田は目的の場所に足を向けた。
 トイレから戻る途中で道に迷ったという言い訳を通用させるには、ETUの敷地は狭かった。特に目を引くような施設があるわけでもないし、下手に動き回ってスパイなどという疑惑をかけられるのも面倒だ。いっそグラウンドを抜け出そうかとも考えたが、生憎と浅草寺や仲見世通りに持田の心を動かすような物はなかった。
 その代わりに彼の目を引いたのは、ETUのスタッフジャンパーを着た男性と、その隣に立つ小学生ぐらいの女の子だった。おそらく、彼女は選手かスタッフの家族なのだろう。クラブハウスに出入りする子どもの姿は、東京ヴィクトリーでも見かけるものだった。
「ああ、惜しい!」
 ETUユースの選手が放ったシュートがクロスバーをを叩く。ボールをゴールキーパーが押さえこみ、前線へと蹴り上げた。
「今のはヴィクトリーのDFが上手かった。山本に正面を向かせなかっただろう」
「確かに、今、体が斜めだった」
 男の言葉を聞きながら、女の子は頷きを繰り返している。指導者が喜びそうな「サッカーを見て学ぶ姿」に、持田は軽く鼻を鳴らした。
 やがて男は腕時計に視線を落とし、少女に向かって軽く手を振りながらクラブハウスに消えて行った。
「あのさ」
 音を立ててフェンスをつかみ、持田は女の子の注意を引くことに成功した。丸い瞳が持田の胸元に縫い付けられたエムブレムを見上げている。
「君、今日誰か暇な選手知らない? トップでもサテライトでもいいんだけど」
「……東京ヴィクトリーのユースの人?」
 両眼はおろか、女の子の全身に警戒の色が満ちた。その原因が自身の発言にあることを承知の上で、持田はさりげなく足を運ぶ。少女の斜め後ろに陣取り、フェンスに両手を着けば、小さな体は簡単に閉じこめることができた。
「そう、だから怪しい者じゃない」
「会ってどうするの。ユースの練習試合、まだ終わってないでしょう」
 東京ヴィクトリーユースのベンチを見るために、女の子は軽く爪先を上げた。
「そうだな、選手のサインでももらおうか。強くても弱くてもプロだもんな」
「それ、ウソでしょう」
 身元が分かっているというのに、否、逆に正体が明らかになったせいか、女の子はあからさまに持田を怪しんでいる。近ごろの小学校では、見た目で人を判断してはいけないとは教えていないのだろうか。自身の言動を棚に上げて持田は眉を寄せた。
「一対一で勝負したいんだよ。あいつらじゃ俺の相手にならねえの、見てただろう?」
 持田は軽く顎を上げる。その先では彼のチームメイトが鋭く右足を振りぬいていた。赤と黒のユニフォームを着た何人かの選手が芝に膝をついている。
「……でも、ユースもトップも、練習すればきっと強くなるもの。そうしたら東京ヴィクトリーにだって勝つんだから!」
 確信というよりも願望に近い発言を鼻で笑われ、女の子は両目を吊り上げた。柔らかそうな頬がハムスターのように膨らんでいる。その反応の一つ一つが、持田には新鮮で面白い。
「そんなに単純な物じゃねえんだよ、サッカーは」
 経験値を稼げばレベルが上がるコンピューターゲームとは違い、サッカーでは努力が結果につながらないことなど珍しくもない。技術の向上に反復練習が欠かせないのは確かだが、単純にトレーニングの量を増やせば効果が現れるというものでもない。
「知ってる。サッカーだけじゃなくて、人生ってそういうものでしょう」
「人生!?」
 年齢の割に考えている事が深すぎる。吹きだしかけた持田の視線の下で女の子は首を振り、再びゴールネットが揺れる様子を見守った。
「下町の子は面白いねえ。俺は人生についてそんな風に考えたことねえよ。超ウケる」
 高校生といえば、人生はともかく進路について考える時期だが、持田のそれはほぼ決まっていた。サッカーがなければ生きていけない自らの性質を、彼は嫌というほどに自覚している。その理不尽も非情さも承知の上で、熱く激しく全身全霊を懸けて戦う世界に身を置くのは当然の選択だった。
「好きな時に好きなようにボールが蹴れるなら、俺はそれで十分だ」
「……東京ヴィクトリーの人なのに、たつみみたいな事言うんだね」
 年齢に釣り合わない深みを帯びた女の子の表情が、持田の好奇心をくすぐった。どうやら、彼への警戒心は薄れたらしい。
「へえ、達海さんと話するんだ。仲良いの?」
「たつみと仲が悪い人なんていないよ!」
 女の子は誇らしげに胸を張った。その表情に、持田は彼女が達海猛をヒーローとして扱っていることを確信する。
「俺も仲良くなりたいって言えば、達海さんは俺と仲良くしてくれるかね?」
「それは分からないよ。でも、達海は東京ヴィクトリーの人だからって、意地悪はしないと思う。……試合の時はするかもしれないけど」
「あの人、そういうの本当に巧いもんな!」
 声を立てて笑う持田に、少女はわずかに戸惑った表情を浮かべた。彼女が引いている赤と黒の太い線を踏み越える気はないが、持田はより強く人の目を引きつける、選ばれた者だけが纏える色を知っていた。
「君、代表に興味ある? 最近は達海さんも呼ばれてるだろ」
 女の子の目が丸く見開かれた。トリックプレーを成功させたかのように、持田は唇の端を持ちあげる。
「A代表なら年齢なんて関係ないし、リーグじゃ敵同士の俺と達海さんがチームメイトになる可能性もある。俺さ、あの人とボール蹴りたいんだよね」
 出会ったばかりの、ETUを応援している子どもに向かって、自分は何を言っているのか。心の中で嘲いながら、持田はフェンスの先に視線を向ける。東京ヴィクトリーの追加点がゴールに叩きつけられた。
「たつみとサッカーしたいなら、練習サボるのは良くないよ。監督に叱られちゃう」
「俺の心配してくれるんだ。優しいね」
 喉の奥で持田は笑う。彼にとって、ユースのサッカーは少しばかりサイズが合わなくなった制服のようなものだった。脱ぎ捨てる気はないが、窮屈さを覚える時もあれば、着崩したくなる時もある。
「でも、俺が叱られて試合に出られなくなったら、ETUが有利になると思わない?」
 黒い瞳が揺れたのは、ほんの一瞬だった。女の子は何かを振り払うかのように、勢いよく首を振る。何かの拍子に外れてしまうのではないかと、柄にもない不安が持田の頭をよぎった。
「ベストメンバーと戦わないと意味ないよ。今度の東京ダービーだって、たつみが成田をやっつけて、ETUが勝つんだから!」
「成田さんまで呼び捨てかよ」
 生意気、礼儀知らずとサッカー以外の事で目をつけられがちな持田でも、トップチームの選手を呼び捨てにはしない。応援するチームや生まれ育った土地の違いを差し引いても、ともに試合を観る女の子の言動は新鮮で、持田の心を浮き立たせた。
「でもまあ、俺がトップに上がったら、ETUに勝ち目なんかないだろうけどね。いくら達海さんだって、一人で二人をどうにかできるわけないもんな」
 大げさに肩をすくめながら、持田は女の子の様子をうかがった。柔らかそうな唇が震え、頬が赤く染まっている。それこそが彼が求めていたものだった。思いつく限りの言葉と行動で、女の子の反応を引き出したい。幼少期の持田は、気になる相手にちょっかいを出した挙句、泣かせてしまうタイプだった。
「でも、たつみなら二人がかりでも負けないよ! お兄さんこそ、そんな態度ばかり取って、プロのセンレーを受けて痛い目に遭っても知らないんだから!」
「持田」
 ユニフォームに刻まれた数字を強調するかのように、持田は女の子の眼前で自身の胸を叩いた。トップチームはもちろん、日本代表の十番もまた、いずれは自分が背負うものだと彼は当然のように考えている。
「持田。それが達海さんとETUをブッ倒す男の名前だよ。それなりに有名だと思ってたんだけど、君がETUにしか興味ないなら、知らなくても仕方ないか」
「下の名前は?」
「……レン。草かんむりに連絡の連だよ」
 表情を消しながら、持田は小学生にも分かるように漢字を説明した。今でこそ、海外でも通用しそうだと思えるが、幼いころは名前に関するトラブルが絶えなかったものである。個人を示す便利な情報でありながら、本人には選べないのが名前の不便なところだ。
「ハス! お花の名前だね」
「そう、花の名前。こんな可愛げの欠片もない男に、何を考えてこんな名前付けたんだろうね?」
 小さな棘を含ませた持田の問いに、女の子は考えこむ素振りを見せた。その表情を歪ませたいのか輝かせたいのか判断がつかないまま、持田は女の子の様子をうかがう。少なくとも、浅草土産に喧嘩を高値で買う必要はなさそうだった。
「ありがたいから、じゃないかな?」
「は? ありがたい?」
 間違いなく持田は意表を突かれた。ピッチの上ならば抜き去られていただろう。
「ハスはね、仏様が座る花なんだって。夏になると不忍池にたくさん花が咲いて、すごくきれいなの」
「仏様!」
 持田は予想もしていない腹筋のトレーニングを強いられることになった。飛び抜けたサッカーセンスと鋭すぎる眼光から、怪物だの悪魔だのと人ならぬもの扱いを受けた経験はあるが、人を救う貴いものを引き合いに出されたのは、生まれて初めてだった。
「それに、レンコンは栄養があって体にいいんだよ!」
「そうなんだ。よく知ってるね」
 得意げに笑う女の子を前に、持田は膝をついた。高校生離れしたフィジカルとメンタルを誇る彼だが、笑いには弱かった。授業中の態度に真剣さが見られないと教師に叱責されたこともある。
「急にどうしたの? 大丈夫?」
 全身を震わせる持田の姿に、女の子は激しくうろたえた。助けを求めて周囲を見回す。その動きと持田の大きな笑い声は、ETUの練習場に居合わせた者にとって、無視できないものだった。
「持田!」
 険しい表情のコーチが持田を手招きしている。頷きと目線を返したものの、笑いの波が引くまでは立ち上がれそうになかった。
「ユリちゃん」
 スーツ姿の男が女の子に呼びかけた。二人の顔を見比べる迷ったような表情に、持田は年長者らしく応じてみせる。
「俺なら大丈夫。叱られないうちに行きなよ」
 大きく頷いて、女の子は駆けて行った。足を止めて振り返り、持田に手を振る姿に、男が慌てたように走り寄る。
「花の名前ねぇ」
 フェンスに手を掛けて立ち上がり、持田は女の子の名前を尋ねておかなかったことに思い至った。ユリと言われて真っ先に思い浮かべたのは白い花だが、赤と黒を心に抱く小さな女の子には、原色の大きな花の方が似合う気がする。
 とはいえ、敵チームに花を持たせる気などない。腹を撫でる手つきとは裏腹に、ベンチに戻る持田の足取りは力強かった。



 ホームでの東京ダービーを目前に控え、クラブハウスはどことなく慌ただしげな雰囲気に包まれている。持田はクラブの広報だけではなく、記者からもコメントを求められたが、両チームの順位と過去の戦績を鑑みれば、現場との温度差は明らかだった。
 持田はETUにさしたる思い入れはないが、達海猛とボールを蹴りたいという願いが叶えられなかったことだけは、心の隅に引っかかっている。
 海外移籍を果たしながら、デビュー戦で選手生命を断たれ、表舞台を去った男。サッカー人生において交わることのなかった人間を、近ごろの持田は足の痛みとともに、時おり思い浮かべるのだった。
「それじゃユリちゃん、車回してくるから」
 達海猛のチームメイトだった男が、部下らしい女性に声をかけていた。持田の記憶が確かならば、後藤恒生はETUのGMである。役員が広報業務に駆り出されるとは、ETUは人手不足なのだろう。
 玄関に佇む若い女性が持田に気づいて会釈した。若くエネルギーにあふれた黒い瞳が、遠い記憶に揺さぶりをかける。
「なあ。君、ETUのスタッフだろ。前に、俺とどこかで会ったことない?」
 持田は密かに舌打ちをこらえる。ナンパでも、もっと気の利いた言葉が出てくるはずだ。
「もしかしたら、プレシーズンマッチでお会いしたかもしれませんね。ご挨拶が遅れてすいません。私、ETU広報部の永田と申します」
 女の態度は柔らかかったが、警戒と困惑の光が両眼に灯っていた。
「ナガタさんね。さっき後藤さんにユリちゃんって呼ばれてたな。ユリって、花のユリ?」
 サッカー人生において、数えきれぬほど花を受け取ってきた持田だが、彼自身の名を戴く花を渡された事はなかった。仮にその花が手向けられる日が来るとすれば、それは持田蓮というサッカー選手が死を迎えた日かもしれない。
「たまに言われるんですけど、漢字が違うんですよ。私の名前は……」
 仄暗い予感を溶かすように、女は微笑んだ。


持田さんは東京ヴィクトリーの下部組織出身なので、
もしかしたら練習試合か何かで
ETUの本拠地に足を運んだことがあるのではないかと考えました。

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