酒と食事と、何よりも店の雰囲気が気に入って、足しげく通うようになった居酒屋は、店主一家がETUを応援しているということもあり、いつしか選手たちの馴染みの店となっていた。 「お前ら、有里ちゃんが可愛いからって、おかしな道に走るなよ?」 冗談交じりに後藤をからかう年長の選手もまた、居酒屋の看板娘を贔屓にしている一人だ。居酒屋「東東京」の有里ちゃんはまだ義務教育の真っ只中なので、どれだけ店が忙しくとも、夜の九時には仕事を切り上げてしまう。彼女の都合に合わせて店に足を運んでいるうちに、いつしかETUの選手たちは、夜遊びや朝帰りなどとは縁の薄い、規則正しい生活を身につけていた。 とはいえ、学生時代の有り余るパワーとアルコールをぶつけ合うような飲み方を、誰もが忘れたわけではない。チーム最年長の選手でさえ、まだ三十代半ばなのだ。しかし居酒屋「東東京」は会社帰りのサラリーマンが静かに酒を楽しむ店であり、客席も少ない。そして、体育会系男子の飲み会は、有里ちゃんの教育上、好ましいものではない。 ETUの選手とスタッフ全員が詰めかけてもゆとりのある、馬鹿騒ぎに寛容な、酒と料理の美味い店。忘年会の幹事のような役回りをいつの間にか押し付けられた後藤に、助けの手を差し伸べたのは、居酒屋「東東京」を営む永田一家であった。 平日の夕方、ETUの練習場に遊びに来た有里ちゃんが、練習を終えた選手たちと他愛ない話に興じながら、父の迎えを待つ姿は、いつしか見慣れたものになっていた。彼女はたまに、学校の同級生とともに練習の見学に訪れたが、その日、彼女が連れてきたのは、どちらかといえば小柄な中年の男性であった。有里ちゃんの親しげな様子からすると、親戚か何かだろう。 「私の叔父さん。隅田川スタジアムの近くで、お店やってるの」 店というのが兄のところから独立した居酒屋で、ETUのホームゲームの日には大勢のサポーターで賑わっていること、選手たちには兄の店だけでなく、スタジアム近くの自分の店にも立ち寄ってもらえればありがたい、などという営業トークを、姪が世話になっている礼とともに早口でまくし立てると、有里ちゃんの叔父さんは店の準備があるからと、名残惜しげに練習場を去っていった。 「お父さんと叔父さん、いい年して、しょっちゅうケンカしてるんだよ」 有里ちゃんは複雑そうな表情で、後藤に耳打ちした。どうやら彼女にとって、後藤は「難しい話」ができる相手らしい。永田家の兄弟関係はともかくとして、スタジアム近くの店という言葉が、後藤の興味を惹いた。 「叔父さんの店、予約はできる?」 「もちろん。前に見に行ったら、けっこう広くて、二階は座敷になってた」 叔父さんの店なら、ETUの皆で宴会とかできるね。笑いかける有里ちゃんが不意に顔を上げた。彼女の視線の先で、達海が腕を組んで何やら考えこんでいる。 「お前の叔父さんってさー」 有里ちゃんの叔父さんの後姿を、達海は指さした。彼の言葉を聞き漏らすまいと、有里ちゃんは達海に体を寄せる。 「あれってやっぱ、づっ……!」 小さいが痛みを連想させる音が人の減りつつある練習場に響いた。力加減を誤って、達海の口を引っぱたいてしまった有里ちゃんが、ひたすら途方にくれた表情を浮かべている。 「ごめんなさい。でもそれ、秘密だから。絶対に、絶対に、秘密だから!」 有里ちゃんに口を押さえつけられたまま、達海は再び彼女の叔父の姿に目をやり、そして頷いた。その動作に安心したのか、有里ちゃんの手が静かに達海の口元から離れていく。 「わかった。絶対に、絶対に、絶対に、秘密なんだな」 「そう! ぜったい!」 勢いよく首をふる有里ちゃんの頭の上で、達海は笑っている。彼の人の悪い笑みに気づいていたのは近くにいた後藤だけだろう。 人は誰しも秘密を抱えている。しかし、外見から容易に判断できる秘密は限られるものだ。有里ちゃんは皮肉にも、自分自身の口で、叔父さんに秘密があることを、暴露してしまったのである。 可愛くても働き者でも、子どもは子ども。達海とじゃれあう有里ちゃんを眺めながら、後藤は柔らかく目を細めた。 「有里ちゃん、今度会ったときでいいから、俺が謝ってたって、叔父さんに伝えといてくれるか?」 頷いたものの、有里ちゃんは疑問を抑えることができませんでした。最近、有里ちゃんがETUの練習場に遊びに行くと、必ずといっていいほど、叔父さんへの伝言を頼まれるのです。一週間ほど前に、叔父さんの店でETUの選手とスタッフが飲み会をしたことは知っていましたが、その時の様子を有里ちゃんとお父さんに話してくれた叔父さんは上機嫌でしたので、謝らなければいけないようなことがあったとは、とても思えません。それに、伝言を頼んできた人たちは、誰ひとりとして、謝る理由を有里ちゃんに教えてくれないのです。 お店の食器を落として割っただけなら、叔父さんもお父さんもたぶん、怒りはしないでしょう。有里ちゃんがやったのなら、お小遣いから弁償することになるかもしれませんが、お客さまを相手にそんなことは言わないと思います。それに、居酒屋「東東京」では、テレビで鑑定してもらえば高い値段がつくような凄い食器は使っていません。 「後藤さん、後藤さん」 ファンサービスを終えた後藤選手が、有里ちゃんの声に振り返ります。あのね、と小声で切り出せば、後藤選手は有里ちゃんが話をしやすいように、さりげなく体をかがめてくれました。 「チームの人たちが叔父さんのお店に行ったときに、何があったか知ってる?」 後藤選手は優しくて頼りになる大人ですが、嘘や隠し事が苦手なひとです。驚いたように有里ちゃんの顔を見て、気まずそうに目をそらしたその態度が、有里ちゃんに答えを教えてくれました。 「後藤さん、知ってるんだ」 有里ちゃんの追及に、すこし困ったような表情を浮かべた後藤選手でしたが、やがて観念したように目を伏せました。 「まあ、あの時はみんな酔ってたから」 「居酒屋で飲んでたんだから、当たり前でしょ?」 「それで、ちょっと羽目をはずした連中がいて」 「うん」 やや回りくどいような気がしますが、後藤選手の言葉は次第に核心に迫ってきています。有里ちゃんの眼差しは、いつしか期待に満ちあふれていました。 「有里ちゃんの叔父さん、むしり取られたんだ」 叔父さんが何をむしられたのかは、聞くまでもありませんでした。人間の体で、むしることができる部分というのは、限られています。真相が明らかになって、胸のつかえが取れたのは良いのですが、有里ちゃんは新たな疑惑に直面してしまいました。 「達海さん、もしかして喋っちゃった!?」 秘密だって言ったのに! 気づいたときにはすでに遅く、後藤選手は顔をしかめて耳を押さえていました。有里ちゃんは慌てて後藤選手に謝ります。 「達海は何にも言ってないよ。割と早いうちに潰れちまってたし」 「だったら何で……」 言葉を続けようとした有里ちゃんの目の前で、後藤選手は人差し指を軽く立ててみせました。広い肩ごしに、ファンとお喋りをしている達海選手の姿が見えます。 「有里ちゃん、いま達海と話をしているのは、男? それとも女?」 「え? 女のひとでしょう?」 突然、何を言い出すのかと不思議に思いながら、有里ちゃんは答えました。まるで先生のような口調で、後藤選手が尋ねます。 「じゃあ、何でそう思ったの?」 「何でもなにも……見れば分かるじゃない」 都内の女子高の制服を着た人が、達海選手にサインをもらっていました。紺色の裾が膝の上で揺れています。世の中には色々なひとがいることを有里ちゃんは知っていますが、その人が年齢を誤魔化していたとしても、性別を誤魔化しているようには見えませんでした。それでも、有里ちゃんが、もう一度声をあげそうになったのは、後藤選手がヒントを与えるように下瞼のあたりを指で軽く叩いていたからです。 「もしかして……叔父さんのことも、見れば分かったりする?」 「まあ、分かる人には」 叔父さんを練習場に連れてきた日のことを思い出して、有里ちゃんはうなだれました。達海選手が、一目見ただけで叔父さんの秘密に気づいてしまったのは、達海選手の勘が良いからではなかったのです。他の人にも分かることならば、達海選手に口止めをした意味がありません。 有里ちゃんはまだ気づいていませんが、秘密にしておいてと念を押したことが逆に秘密をばらしてしまったのだということに、あえて触れないのが後藤選手の優しさです。軽いため息とともに、後藤選手は前髪をひと房、つまみあげました。 「髪の悩みは、俺たちも他人事じゃないからなぁ」 相手チームの選手と高いボールを競り合う後藤選手の姿を思い浮かべて、有里ちゃんは考えこんでしまいました。サッカー選手の毛根や頭皮は、ヘディングはもちろんのこと、汗や直射日光で常に厳しい環境に置かれているような気がします。チームのトレーナーやドクターも、髪の面倒までは見てくれないでしょう。 「後藤さんはまだ若いんだから、今から気をつければ大丈夫だって。海藻を食べるぐらいしか思いつかないけど」 これが気休めというものかなと思いながら、有里ちゃんは後藤選手に言葉をかけました。体の悩みを食べ物が解決してくれるのなら、有里ちゃんはあと十センチは背が伸びているはずです。お父さんが言うには、叔父さんの髪がああいう状態になったのは、若いころに色々とやらかしたせいらしいので、食べ物の好き嫌いは関係がないようです。 「あ」 叔父さんの若いころというのは、言うまでもなく昔のことです。後藤選手や達海選手にとっては、ボールを蹴っていた少年時代かもしれませんが、有里ちゃんにとっては、生まれる前のことか、本人も覚えていないような小さいころのことです。そして永田家には、有里ちゃんの成長記録ともいえる、整理されたアルバムが何冊もありました。 「有里ちゃん、どうかした?」 「……何でもない」 後藤選手に向かって、有里ちゃんは首を振りました。何かのおりに開いたアルバムに、まだ二歳か三歳ぐらいの有里ちゃんが、叔父さんの背中に乗ってお馬さんごっこをしている写真が貼られていたことを思い出したのです。有里ちゃんは機嫌よく笑いながら、落ちないように叔父さんの体をつかんでいました。馬のたてがみに見立てたらしい叔父さんの髪を、小さな手でしっかりと。 「何でもないって顔には見えないなぁ」 「だいじょうぶ。どこも悪くないよ?」 叔父さんの髪にとどめを刺したのが自分かもしれないということは、絶対に黙っておこうと有里ちゃんは心に決めました。しかし、後藤選手の耳打ちが、有里ちゃんの決心を容易く揺さぶります。 「叔父さんの髪のことで、心当たりでもあった?」 有里ちゃんは目を丸く見開きました。後藤選手は、達海選手とは別の意味で有里ちゃんを驚かせるひとです。赤く染まった頬を膨らませた有里ちゃんを見下ろしながら、後藤選手は声を立てて笑っていました。 |