上司の務め、保護者の責任


 サッカー選手という職業柄、緑川は男が倒れる、あるいは倒される姿を練習や試合のなかで幾度も目にしている。
 しかし、女性が倒れる場面に遭遇したのは、三十三年の人生で初めての経験であった。平静を保っていられたのは、彼自身の性格と、居合わせた世良のおかげだろう。彼は有里が倒れた途端、叫び声とともにうろたえ、緑川に取り乱す暇を与えてくれなかったのである。
「医務室行ってドクター呼んで来い!!」
 緑川の指示で混乱から引き戻された世良は、腰にタオルを巻いたまま、全力で廊下を駆けていった。普段の有里であれば、そんな格好で廊下を走るなと叱責のひとつも飛ばしたであろうが、彼女には世良の悲鳴も足音も耳に入っていないようだった。
 季節柄、緑川はまず風邪を疑ったが、有里の顔は青白く、熱どころか血の気さえも感じさせなかった。出血はないが、倒れた拍子に頭部を強打した可能性もある。専門家の意見を聞くまでは、下手に動かさないほうがよいだろう。ドクターの到着を待ちながら、緑川は何度か有里に呼びかけたが、彼女が意識を取り戻すことはなかった。
「頭を打ったかどうかわかる?」
 廊下を大股で歩いてきたドクターは、背後に二人の男を従えていた。緑川の視界の端でタオルが揺れ、カッターシャツが近づいてくる。わずかに眉を上げれば、血相を変えた後藤が有里の側に屈みこんでいた。おそらく疾走する世良に出くわして、事態を知らされたのだろう。囁くように名を呼ぶ声に、やはり有里の反応はない。
「ほら、しっかりしなさい」
 音を立てて有里の頬を叩き、瞼をめくり上げるドクターの手つきに、男たちはいささか面食らったが、過労による脳貧血という診断が下りるとその顔に安堵が広がった。
「若いから心配はないと思うけれど、とりあえず医務室で休ませて様子をみましょう」
 ドクターの口ぶりから察するに、有里は担架を必要とする状態ではないらしい。また、冷たい廊下にうつ伏せに寝かせたまま担架の到着を待つよりは、一刻も早く医務室に運んだほうが彼女のためだろう。緑川が有里の肩に置こうとした手を、しかし後藤は静かに制した。
「俺が運ぶよ」
 有里ちゃんなら俺ひとりでも大丈夫。それに、キャンプ前に腰でも痛めたら大変だろう。穏やかな口調とともに後藤は有里の腕を持ちあげ、壊れ物を扱うかのように体ごと引き寄せた。
 有里の顎を肩に乗せ、背中を支えながら、後藤は短い掛け声とともに立ち上がった。抱き方のせいか、緑川は夜中に熱を出した子どもを病院に運びこむ父親を連想する。わずかに驚きの表情を浮かべたドクターが有里の手帳を拾いあげて、後藤に続いた。
「あとは二人に任せれば大丈夫だろう」
 医務室に向かった三人を見送り、緑川は息をついた。世良を見れば、廊下に立ち尽くしたまま金魚のように口を開閉させている。腰にタオルを巻いただけの姿に緑川が注意を促そうとした矢先に、世良が向き直った。
「今の見ました!? 抱っこですよ、抱っこ。あの二人、っーか後藤さん、あんなマネ……」
 世良は有里を抱える後藤の姿に、緑川とは異なる感想を抱いたらしい。混乱が去った若い顔に、困惑と興奮が広がっている。彼の目の前で、緑川は腕を組んだ。
「後藤さんは面倒見がいいからな。ぶっ倒れたのが俺やお前でも、運んでくれただろう」
「そりゃ、まあ、そうかもしんないっスけど……」
 後藤に担がれる自分自身を想像したのか、世良は顔をしかめた。わずかに突きだした唇から、短い呟きが漏れる。
「でも何か、何か違うんスよ」
「何がだ?」
「うまく言えないんスけど、何か、空気みたいなのが違うんスよね。後藤さんと有里さんがふたり一緒にいるときって。別に、それがイヤだとか、キモいってわけじゃないんスけど」
「空気か……」
 思案の末に世良が空気と表現したものに、実のところ緑川も心当たりがないわけではなかった。有里は後藤にとって数少ない、年下の女性の部下だ。ほかの男性スタッフや職員に比べて、態度が柔らかいものになったとしても不思議ではないだろう。しかも彼女の父親は後藤の上司、それもクラブの会長ときている。だが、二人の関係はクラブという組織の内側に留まるものではなかった。
「後藤さんは現役のころに、有里ちゃんと知り合ったらしいからな。つきあいが長いぶん、色々とあるんじゃないか」
「それって十年以上前でしょ!? 有里さん、まだ子どもじゃないスか」
 再び考えこみ、そして何かを振り払うように世良は勢いよく首を振った。女性の年齢という、男性がうかつに立ち入ってはならない領域に踏みこんでしまったことに気づいたのだろう。しかし緑川にとって、有里のそれは危険でも何でもなかった。
「その子どもが大人になっていくのを、後藤さんは近くで見てきたんだろうよ」
 緑川はわずかに目を細める。卒業と進学、成人、そして就職。成長とともに有里が迎えた人生の節目を、後藤は間近で目にしてきたという。一部にあるときも二部にあったときも、勝利の日も敗北の日も、十年以上にわたってETUとともに生きてきた仲間意識こそが、二人のあいだに漂うものの正体であるように緑川には思われた。
「そんなことができたのは、有里ちゃんの家の事情もあるだろうがな」
「そっスよね。親と叔父さんがクラブの会長と副会長やっている家なんて、珍しいですもんね」
 一般企業では良いイメージで語られることが多いとはいえないが、フットボールクラブにおいて、スタッフの縁故採用は決して珍しいことではない。有里もまた、その一人であることを、緑川は今更ながら思い出していた。倒れるまで仕事に励むのは誉められたことではないが、現状に満足せず、クラブのためにより良いものを目指そうとする彼女の姿勢は、実力の世界に生きる選手のそれに近い。少女のころからサッカー選手と親しみ、クラブ会長の父と副会長の叔父を持つ彼女は、プロの華やかさと厳しさをおそらく熟知しているのだろう。彼女がETUの正職員になったことを、一部のサポーターが「今シーズン最大の補強」と絶賛したのも、頷けるような気がする。
「それにしても会長、後藤さんと有里さんのイギリス? イングランド行き、よくオッケーしましたよね。娘の泊まりとか、メチャクチャ厳しそうなのに。しかも二人きりっスよ」
「二人きりって言っても、ホテルの部屋は別だろう」
 世代の差は、ときに発想の差を生むものらしい。緑川は再び眉をあげた。
「でも、たとえばっスよ。何かの手違いで、ダブルベッドの部屋が一つしか取れなかったとかそういうことは……」
「ないだろうな」
 緑川の返答は冷静というよりも、そっけない。台風で飛行機が欠航となり、別の便を手配したものの座席が足りずに選手がエコノミー席でのフライトを強いられたり、予約していたホテルの部屋がなぜか確保できておらず、男二人でダブルベッドで寝ることになったりと、団体行動であるためか、海外遠征にはスポーツ紙の記事になりそうなトラブルがついて回るものだが、それらの災難が、二人で行動していた後藤と有里に降りかかったとは考えにくい。また、何らかの問題が起こったとしても、有里の語学力があれば切り抜けられるように緑川は思う。後藤は慰安旅行のつもりで有里をイングランドに同行させたわけではないのだ。
「万が一、お前が考えたようなことがあったとしても、二人のあいだには何も起きないだろうよ。後藤さんは、会長に顔向けできないような真似をする人じゃないからな」
 緑川は話題を打ち切るように手を振った。納得したような、しかしどこか腑に落ちないような表情の世良に、口にする機会を逃していた一言を投げかける。
「世良。お前、いつまでそんな格好してる気だ。いい加減、服着るなり、シャワー浴びなおして来い」
 ウス。短い返事とともに両肩を抱き、世良はシャワー室へと歩いていった。廊下にくしゃみが響き、緑川は朝のテレビを思い出す。東京は夕方から夜にかけて雪。天気予報の正しさを示すかのように空は白く、そしてわずかに灰色を帯びている。
 他の色が入りこむ余地のないほどに、有里の心は赤と黒と白に染まりきっている。その三色を配したクラブ旗が、窓の外では鮮やかにはためいていた。



「何やってんだ、お前」
 有里のブーツを脱がせようと悪戦苦闘していた手を止めて、後藤は振り返った。医務室の扉の前に立つ達海は、ベッドに上半身を横たえた有里とその足元に屈みこむ後藤を見比べて、柄にもなく気まずそうな表情を浮かべている。
「見ての通りだよ。有里ちゃんが倒れたんだ」
 達海に背を向けて有里のブーツに再び手をかけた後藤に代わり、ドクターが有里の状態を告げた。
「過労よ。仕事熱心なのはいいけれど、体を壊しちゃ元も子もないのにね」
 無言で冷凍庫から目当てのものを取り出すと、達海は有里の右脚のブーツをようやく引き抜いた後藤に体を向けた。
「知ってるか? 過労死って、今じゃ英語になってんだぞ」
「やめろよ、縁起でもない。それに、お前だって人のこと言えないだろ」
 二十四時間フットボール三昧などと本人は嘯くが、達海の生活はリズムやバランスといったものから大きくかけ離れている。毎日のように有里を怒らせ、呆れさせる寝起きの悪さは、夜の大半をベッドの上ではなく、テレビの前で過ごしていることに原因がある。栄養よりも好みを優先させる食生活は現役時代から一向に改善されておらず、どのようにドクターを説得したものか、医務室の冷蔵庫の一画をアイスや生菓子で占拠しているのだった。
「だからこうやって、糖分補給してんじゃん。一本、食う?」
 後藤は首を振り、有里の左脚をブーツから解放した。宙に投げ出されていた両脚をベッドに抱え上げ、布団をかけてやる。腰を下ろしてひと息ついた彼の耳に、ドクターの苦笑交じりの声が響く。
「あなたたち二人とも、この子のことをとやかく言えるようには見えないわね。私には」
 新体制発表の直前まで、選手や代理人との交渉に動き回っていたゼネラルマネージャーは肩をすくめた。苦笑いとともに視線を合わせた達海が、アイスをくわえたままベッドに歩み寄る。
「おーい、有里、生きてるか?」
 呼びかけに応じるように、有里の瞼がわずかに動いた。


 有里ちゃんが倒れた廊下からETUの旗が見えるかどうか、間取りの検証はしていません。
 二年前に清水から移籍したという経歴のせいか、緑川さんはETUという組織と人間関係を、
ある程度、客観的に見ることができる人だと思います。
 そんな彼に、「有里ちゃんと後藤さんの関係」を観察してもらいたかったのですが
緑川さんの言葉遣いは難しかったです。何と言っても、クールな大人なので。

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