「私さ、着ぐるみって好きじゃないんだよね」 世界的に有名な白いネコのぬいぐるみストラップが揺れる携帯電話を開きながら、丸テーブルを囲んでいる女性の一人が言った。弾むような声に耳をそばだてながら、世良は正面の席に座る椿に目配せを送る。彼らと同年代と思われる女性の言葉には、どうしても無視できない部分があったのだ。 「中に入っているオジサンと握手したり、肩を組んだりしてるんだと思ったら、気持ち悪いんだってさ。なのに、ぬいぐるみはOKだなんて、よく分かんねえよな」 オフに出くわした光景を、身振りを交えながら語る世良に、最初に反応を示したのは赤崎だった。 「別にいいんじゃないスか。着ぐるみが出迎えてくれるアミューズメントパークに連れて行けって言われなくて。何時間も並んだ絶叫系アトラクションでギャアギャア騒ぐだけが、デートじゃないんスから」 「話はまだ終わってねえ、聞け。俺が気になってんのは、お勧めのデートコースじゃなくて、スタジアムにいる奴らのことだ。とくにパッカ! あいつの中には、絶対にエロオヤジが入ってる!」 サラリーマンが痴漢の冤罪に怯えながら通勤電車に揺られ、下校中の小学生に挨拶をしただけで不審者扱いされる世の中にあって、黙っていても多くの女性が寄ってくるのがマスコットだ。小さな女の子の柔らかな体を全身で受け止め、年ごろの女性の肩を抱き、人妻の腰に手を回し、足下に気を遣いながら老婦人をエスコートすることは、ファンサービスの一環であり、仕事である。だが、ひとたび着ぐるみを脱げば、彼らの行動はセクハラに認定されてしまう。ETUのマスコットであるパッカ君は、男性には冷淡だが、女性へのスキンシップが多いことで有名だった。そして、水かきのついた彼の手は、観客やリポーターだけではなく、広報の永田有里にも伸びている。フロントの見えない力に守られている彼女に気安く触れることができるのは、有里のことを少女時代から知っている一部のベテラン選手と、「王子」ことジーノぐらいだというのに、パッカ君は若手選手にはできないことを、平然とやってのけるのだった。とくにシビれもあこがれもしないが、ETUの人間を恐れぬ所業であることは間違いない。 「それで、世良さんは自分も着ぐるみに入って、女に囲まれたいんスか? あれ、中の人は小柄なほうが良いらしいから、向いてると思いますよ?」 「着ぐるみって、女の人が入ってることもあるらしいスね」 「女の人……」 傍らで話を聞いていた宮野の言葉に、世良の喉が震えた。彼の想像からセクハラの文字は消え、和やかで華やかな女性たちの触れ合いとともに、花びらが舞っている。「中の人」の性別には、眼前に広がる世界を変えるほどの、大きな力があるのだった。 「パッカの中身は、男で間違いないと思いますよ。普段から鍛えてる奴でないと、あの動きは無理でしょう」 河童が相撲を得意としていることに関係があるのかもしれないが、パッカ君はリーグジャパンのマスコットの中でも、トップクラスの身体能力の持ち主だった。リーグ戦の中断期間に開催されるオールスターゲームでは、キックオフの前にマスコットによるミニゲームが行われているが、パッカ君は自チームのチャンスとピンチに必ずと言っていいほど顔を出し、「マスコット界の潰し屋」という異名までも得ているのだった。逞しい両脚が特徴的な名古屋グランパレスのシャッチーには、パッカ君と渡り合えるマスコットとして期待が寄せられているが、鯱の体に人間の足を持つ彼には、バランスが悪いという大きな弱点があった。 「確かに、あいつの動きはヤバイよな。お前らはどう思う?」 世良は椿と宮野に意見を求めた。二十歳の二人が声を揃えた結果、パッカ君の「中の人」が女性かもしれないという説は、世良の空想とともに儚く消えた。 「だったら、アイツは何者だって話だよな。ファンサービスで女にくっ付いて、有里さんにセクハラしても怒られなくて、マスコットなのにフィジカルが強い」 パッカ君の「中の人」は、世良が口にした条件をすべてクリアしているだけではなく、正体を隠しながらマスコット活動を行っているのだ。ただ者ではないことだけは間違いない。 「黒田さん、自分にも女性ファンが欲しいって、よく言ってますよね」 宮野の視線の先で、黒田と杉江が給水ボトルを手に話しこんでいた。腕を組みながら、赤崎が鼻で笑う。 「それなら、女に怖がられるような態度をどうにかしろよな」 強面の男性サポーターの熱い支持を受ける黒田だが、女性のファンから話しかけられることは極めて少ない。睨みつけるような眼差しと、怒鳴りつけるような口調が、相手を萎縮させてしまうのだ。そんな彼が、着ぐるみに入っただけで、女性の扱いが格段に上達するとは思えないが、有里に触れても許されることと、マスコットらしからぬフィジカルには説明がつく。首をひねる世良の耳に、椿の呟きが飛びこんできた。 「癒し」 三人の視線を受けて、椿は焦りの表情を浮かべた。瞬きを繰り返しながら、彼は慎重に言葉を選ぶ。 「その、いやらしいことが目的だったら、パッカ君は若い女の人だけに寄っていくと思うんです。でも、パッカ君は小さい子やお年寄りにも優しい。普段、仕事で大変な思いをしている分、女の人と触れ合うことで、ストレスを解消しようとしてるんじゃないですか」 「あいつに、ストレスなんかあるか?」 苦笑を含んだ声が不意に途切れた。タオルで汗を拭う姿が、世良たちの瞳に映る。多くの人に慕われ、頼られる彼の眉間には、キャプテンという地位の重圧を示すような、深い縦じわが刻まれていた。 「ハンドル握ると、性格変わる人っているよな……」 性格を変えるスイッチが、着ぐるみだという人間が存在しても決して不思議ではない。気まずい表情で村越から目をそらした四人の上に、影が落ちた。 「お前らに言っとくけど」 重要な作戦を告げるかのように、ETUの監督は口を開いた。 「本当にエロいのは『中の人』じゃなくて、パッカだからな。大事なことだから、ちゃんと覚えとけよ」 若手選手の輪から離れると、達海は手を叩いて休憩の終了を告げた。立ち上がりながら四人は顔を見合わせる。パッカ君が「女好き」という設定なのか、それとも、別の可能性が存在するのか、監督の言葉では判断ができなかった。 「ちょっと待ってくださいよ、監督!」 説明を求める選手に、達海が返したのは、やや意地の悪い笑顔だけだった。 「あれ、パッカだよな?」 買い物のついでにETUの練習場に足を延ばした世良と椿は、荒々しい足取りでクラブハウスを飛び出してきたパッカ君の姿をフェンス越しに目に留めた。トラブルでもあったのか、明らかに不機嫌そうである。 「そう言や、この前に監督が言ってたアレ、本当なのかな?」 「ええっと、パッカ君はその……エッチだって話でしたっけ?」 特定の単語にためらいを示した椿を呆れたように眺めながら、世良は腕を組んだ。白いビニール袋が宙で揺れる。 「パッカがエロいっていう設定はつまり、『中の人』にとっては、セクハラ寸前のファンサービスが仕事ってことだろ? 世の中には色んな仕事があるもんだよなあ」 パッカ君はまだ二人に気づいていない。世良は気配を殺しながらクラブの敷地に入りこみ、水道の陰に身を屈めた。先輩の手招きに従い、椿は後に続く。 「つまり、パッカ君の中の人は、そういうイメージに従って行動してるってことですか?」 「そういうことになるよな」 着ぐるみに入って、女性にセクハラまがいのファンサービスをする仕事。故郷とは違い、東京にはあらゆるものが溢れていることを、椿は改めて実感した。 「仕事を仕事と割り切ってるんですね、パッカ君の『中の人』って」 「そうだよなあ。スゲぇよなあ……」 俺なら誘惑に負けるかもという呟きは、世良の名誉のために聞かなかったことにした。 「エロに揺らがないメンタルと、高いプロ意識の持ち主で、フィジカルが強い……。すごい人が入ってるんですね」 情報を整理する椿の隣で、突如、世良が肩を震わせた。 「なあ、それって、もしかして、もしかして……」 黒田と村越に続く新たなパッカ君の候補者が、頭に浮かんだのだろう。しかし世良は、それを認めまいとするかのように、ひたすら首を振っている。隅田川の方角に脚を向けるパッカ君を見送りながら、椿は先輩にかける言葉が見つからなかった。 |