居酒屋のアイスクリーム


「二人して居酒屋の看板娘に貢いでいる」
 貢ぐという言葉に軽い不快感を覚えて、村越は眉を寄せた。他人の色恋沙汰に口を挟む気はないが、貢いでいるのがチームの先輩選手とあれば、心穏やかではいられない。後藤と達海は、悪い女性に騙されるようなタイプには見えないが、プロサッカー選手という華やかな世界の住人に近づこうとするのは、善良で誠実な人間ばかりではないのだ。高級車を乗り回し、夜の街で豪遊するというプロサッカー選手のイメージを世間に植えつけたマスコミの責任は、決して小さくはないと村越は思う。
 だがしかし、居酒屋の看板娘は、小学生ぐらいの小さな女の子だった。
「あのさ。お前ってさぁ、ロリ?」
 チームに馴染むに従って、村越は達海の突拍子もない言動にも慣れつつある。違いますと短いが誤解の受けようがない返事をすると、達海は頷きとともに村越の肩を軽く叩いた。
 それがおよそ半月前のことである。オフの前日に夕食に誘われた村越は、エプロンを着けた小さな店員の出迎えを受けて、達海の質問の意図を悟った。
 大きな瞳の女の子を、村越はETUの練習場で何度か目にしている。選手やスタッフと親しげに話す姿と、豊かな表情が印象に残っていた。小柄なせいか、エプロンと三角巾を着けた姿は、居酒屋の店員というよりも、学校の給食当番か家庭科の調理実習を思わせる。
「ご予約、三名様ご案内!」
 達海と後藤は慣れた様子でテーブル席に腰を下ろした。子どもがアルバイトに雇われるはずもないから、彼女は店主の家族なのだろう。居酒屋の娘という言葉が、村越の頭に引っかかった。
「おやっさん、娘のことになると顔色変わるからなぁ。あいつに変なマネすんなよ?」
 変な真似とは具体的にどのようなことを示すのかと問いただす気にもなれず、村越は首を振った。推測するに、居酒屋の娘は彼女ひとりだけで、妙齢の姉がいるという可能性はないらしい。戯言を真に受けて、選手とサポーターの交流に疑いの眼差しを向けた自分を、村越は恥じた。
「申し訳ありませんでしたっ!」
 体育会で鍛えられた声は店内に響き、後藤と達海だけではなく、三人分の箸とおしぼりを運んできた少女をも驚かせた。
「あの野郎、俺たちがしょっちゅうここに来てるからってテキトーなこと言いやがって。有里をナンパしようとしておやっさんに睨まれたこと、根に持ってやがんな」
 村越に誤解を植えつけたチームメイトに、達海は短く毒づいたが、表情に険悪なものはなかった。だが、その代わりにとんでもないことを耳にしたような気がする。わずかに眉を上げた村越を宥めるかのように、後藤が笑って片手を振った。
「ナンパも何も、花やしきに行ったことがあるかって話をしてただけだろ。達海、お前もいい加減なことを言うなよ」
 後藤が言うには、居酒屋「東東京」はETUの選手とスタッフの行きつけの店で、店主とその家族はETUのサポーターだという。ときおり、店からクラブハウスに差し入れが届いていることを知り、村越はカウンターの奥で刺身を盛りつけている店主に視線を送った。大声を出した謝罪も兼ねて、あとで挨拶に赴くべきだろうか。
「今日は俺たちのオゴリだからな。村越、好きなもの食えよ?」
 村越は頷き、落ち着いた雰囲気の店内を見回した。貼り紙に書かれたメニューは、品揃えも値段も決して学生向けのものではない。女性の好みは分からないが、おそらくデートにも不向きだろう。村越が不思議に思ったのは、中高年の男性が客の大半を占める居酒屋に、アイスクリームが置かれていることだった。注文する客がいるからメニューに載っているのだろうが、村越にはサラリーマンがスプーンを手に仕事の愚痴をこぼす姿が想像できなかった。
「ウーロン茶をお願いします」
 三人の飲み物が決まると、達海は小さな店員を手招きした。彼女の手つきと声は子どものものだったが、注文を取るという仕事は問題なくこなせている。働く親の姿を、幼いころから見てきたのだろう。ひそかに感心する村越を、黒い瞳が見上げた。
「村越選手は」
 年齢を問わず、女性の考えていることなど村越にはまるで分からない。教育実習に赴いた中学校で、女子生徒たちの言動に手を焼いたという友人の体験談を思い出し、村越はわずかに身構えた。
「キラいな食べ物ってありますか?」
「……いや、特にないが」
 安心したように女の子は頷き、注文を記したメモを手に厨房に戻った。動きとともに村越の目についた彼女の手足は細く、不用意に力を加えれば容易く折れてしまいそうな気がした。
「ひょっとして、小さい子は苦手か?」
 村越が短いやりとりで見せた態度に、先輩たちは不審を抱いたらしい。申し訳なさそうな後藤の表情に、村越は慌てて首を振った。彼の頬を視線で突きながら、達海が後藤に反論する。
「おーい。有里は小さくないぞ? 小さいけど」
 彼の言葉が、居酒屋の看板娘を的確に表現しているような気がして、村越は頷いた。彼女が外見どおりの小さな女の子であれば、対応に困ることもなかっただろう。だが彼女の小さくはないが見えない部分、精神や心と呼ばれる場所は、体よりも先に成長を迎えており、異性ということもあって村越を戸惑わせるのだった。
「でもまあ、アイツ、フツーの子どもだから。そんなに緊張すんなって。なあ?」
 達海が同意を求めた先に、角盆を掲げた女の子が立っていた。男たちの顔を不思議そうにのぞきこみながら、彼女は手際よくグラスと皿を並べていく。
「何? 私のこと話してたの?」
「コイツ、お前のことで物凄い誤解してたみたいでさ」
「その……予想していたよりも、若い方だったので……」
 誤解の内容には詳しく触れずに、村越が唇を閉ざした直後、テーブルに三人分の笑い声が弾けた。
「おいおい。有里ちゃんのこと、いくつだと思ってるんだよ」
「良かったなぁ、有里。若いってさ」
「別に、変に気を遣ってくれなくても良かったんですよ? 小さいって言われるの、慣れてますから」
 言葉を選び損ねたことを、村越は痛感した。彼女はまだ、若いと言われて嬉しがるような歳ではないのだ。だが、女の子が喜びそうな言葉など、村越にはまるで思い浮かばない。考えこむ彼のこめかみを、達海が横から指で突いた。
「何て顔してんだよ。今日はお前が主役なんだぜ?」
 先輩の言葉に村越が首を傾げていると、娘の手招きを受けた居酒屋の店主が、テーブルに近づいてきた。丸い盆にはウーロン茶入りのグラスが二つ置かれている。その一つを娘に手渡し、彼は穏やかな表情を村越に向けた。
「試合、応援してますよ。村越選手」
 それが社交辞令などではないことは、親と子の表情を見れば明らかだった。まだスタメンには定着していないが、与えられた機会のなかで見せた働きが評価され、村越はルーキーながらETUの戦力に数えられつつある。短いが心のこもった激励に彼は礼を述べたが、放たれた大声は再び娘を驚かせ、父を苦笑させた。
「おやっさん、頼むわ」
 達海の合図に応え、店主はグラスを掲げた。娘と達海、そして後藤が続く。村越はやや遅れてグラスに手を伸ばし、先輩たちが運ばれてきた飲み物にまだ口をつけていなかったことに気づいた。
「村越選手のプロ初ゴールを祝って、乾杯!」
 軽くぶつかり合うグラスの音は、一度村越の耳を通り抜けて、拍手を連れて戻ってきた。店内を見回せば、笑みを浮かべた客が、グラスやジョッキを掲げている。次も決めろよという声は、先日の試合で勝ち越し点を上げた村越に向けられたものだった。
「言ったろ? 今日はお前が主役だって」
 立ち上がって客に頭を下げた村越を眺め、達海がどこか得意気に、そして楽しげに笑った。クラブを応援してくれる人たちの顔をより近くで見せることで、彼は村越にプロ選手としての更なる自覚を促そうとしたのかもしれないし、そんな意図はまったくなかったのかもしれない。その考えを知り、理解できるほど、村越は達海と親しくはなかった。クラブの顔とも言える人気選手と、試合に出始めて間もないルーキーである。二人に距離があるのは、無理もないことだった。
「今夜はゆっくりしていってくださいよ」
 笑みとともに店主は言い残し、常連らしい中年客が座るカウンターに向かった。その脇を静かにすり抜けて、小さな姿が厨房に戻る。彼女は数回にわたって料理や酒を運んできたが、ETUの選手とスタッフが通いつめるだけあって、どれも期待以上の味だった。
「有里、アレ持ってきて。いつものやつ」
 腹が満ち、勧められた酒がほど良く村越の体に回りはじめたころ、達海が黒い長方形の盆に空いた食器を集めて回る女の子を呼び止めた。
「いくつ?」
 少女の問いかけに、達海は後藤と顔を見合わせた。後藤が頷きながら、腕時計を示す。見事なアイコンタクトに感心する村越を軽く見やり、達海はテーブルの上に指で弧を描いた。
「三つ。俺の分は大盛りで。スプーン、忘れるなよ」
「はーい」
 歌うように注文を繰り返し、女の子はカウンター奥の暖簾をくぐる。大人の男たちのなかで懸命に働く小さな姿を、村越は酒の肴を揃えたメニューの、甘いデザートに重ねていた。
「お待たせしました。バニラアイス三つです」
 だが、彼女が果物を添えたバニラアイスを運んできたのは、村越にとってまったくの予想外だった。読みが甘かったのかもしれない。普段から菓子や炭酸飲料を好んで口にしている男が、馴染みの店のデザートに興味を示さないはずがないのだ。
「有里ちゃん、おいで。アイス半分こしよう」
 座っていた通路側の席を空け、後藤は女の子を手招きした。嬉しげに頷きながら、彼女は村越の正面に腰を下ろす。飲めない酒の代わりに、看板娘は幾度となく客のデザートに付き合っているのだろう。肩を並べてアイスを分けあう二人は、客と店員、選手とサポーター以上の近しい関係に見えた。
「有里。村越に聞きたいことあったら、何でも聞いていいかんな。カノジョいますか? とか」
「何言ってんのよ、もう」
 声とともに、テーブルがわずかに揺れた。二人分の困惑の視線を受けながら、達海は面白がるようにアイスを頬張っている。助けを求めるように後藤を見れば、缶詰のモモを運ぶ口元に苦笑いが浮かんでいた。今のところ、年少者に助け舟を出すつもりはないらしい。
 スプーンを握る手の動きを止めて、女の子は村越を見上げた。丸い瞳が思案に揺れるたびに、表情が少しずつ変わっていく。口をつけていない村越のアイスが柔らかくなり始めたころ、まっすぐな声と眼差しが向けられた。
「この町の、浅草の印象を聞かせてください」
 住んでみた感想とか。付け加えた女の子の真剣な顔つきを正面から受け止めて、村越は指を組んだ。頭のなかで、慎重に辞書を引く。彼が真っ先に思い浮かべた町の風景は、雷門や花やしきではなく、クラブハウスと隅田川スタジアムだった。
「俺はまだ、この町のことをほとんど知らないんだが」
 スタジアムの歓声が、村越の耳に甦る。彼と、彼が所属するETUは、目の前の女の子やその父親、居酒屋に集う人々に、町のものとして受け入れられ、そして支えられているのだ。
「この町の、あたたかくて優しい人たちが、ETUを応援してくれていることは分かるし、それはとてもありがたいことだと思っている」
 自身の言葉は、質問の答えになりえただろうか。村越は口を閉ざし、息をつめながら女の子を見つめる。こぼれた笑みの間から、白い歯が覗いた。可愛らしい。女の子に相応しい褒め言葉を、ようやく彼は捜し当てた。



「お前さあ、すっげー顔してたぞ」
 寮の門限に遅れないようにねという言葉と笑顔に見送られて店を出ると、先輩たちは村越の対応、というよりも表情について評価を始めた。自覚はなかったが、村越はかなり厳めしい顔つきで質問の答えを考えていたらしい。深刻な人生相談に応じているようだったと、後藤は苦笑した。
「まあ、言ってたことは悪くなかったし、笑顔は今後の課題ってとこだな」
 達海はそう言って笑い、村越の肩を軽く叩いた。


 単行本一巻の回想シーンで、ルーキーの村越さんは笑っていました。
 憧れの選手とともに戦うことができた、彼にとって特別な一年だったことも
大きいのでしょうが、そのときに声援を送ってくれたサポーターが
彼をETUに繋ぎとめた理由の一つではないかと思うのです。
 ETUが強くなれば、またあのころのような人々がスタンドに帰ってきてくれる。
そう信じ、自らに言い聞かせて、村越さんは戦い続けていたのではないでしょうか。

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