有里ちゃんのお家は、「東東京」という居酒屋さんです。お店を切り盛りする有里ちゃんのお父さんとお母さんのことを、お客さんたちは「おやっさん」「おかみさん」と呼んでいます。儲けや売り上げのことは有里ちゃんには分かりませんが、お店で閑古鳥が鳴いているところを見たことがありませんし、最近、叔父さんが「暖簾分け」をして隅田川スタジアムの近くにお店を開いたばかりなので、赤字ではないと思います。 週末やお客さんが多い日には、有里ちゃんはお店のお手伝いをします。食器を洗ったり、お箸やおしぼりを用意したりと、エプロンと三角巾をつけて働いています。たまにお父さんからバイト代をもらっているのは、お母さんには内緒です。 ですが、居酒屋は大人がお酒を飲むところ。カウンターと厨房の間にかかる暖簾の先から、有里ちゃんはお客さんの前に出たことはありませんでした。 イースト・トーキョー・ユナイテッドの選手が、お店にやってくるまでは。 イースト・トーキョー・ユナイテッド、略してETUは小さなサッカーチームです。強くはありませんが、有里ちゃんは自分の町にあるチームが大好きですし、何度かスタジアムに試合を観に行ったこともあります。 有里ちゃんの学校では、都内にある二つのチーム、地元のETUと強豪の東京ヴィクトリーが人気を二分していますが、ETUのなかで一番人気があるのは、MFの達海猛選手です。チームのピンチを幾度も救い、勝利に導いてきたETUの星。お年玉で買った名前入りのレプリカユニフォームは、有里ちゃんの宝物でした。 サッカーの試合がないシーズンの、ある休日のことです。有里ちゃんが食器を片付けていると、お父さんが暖簾から顔を出して、有里ちゃんを手招きしました。お客さんから注文が入ったのなら、カウンターから声をかけるのに。不思議に思いながらも、有里ちゃんはお父さんに近づきました。 「向こう、見てみな。大声出すんじゃねえぞ」 お父さんが示す先を見て、有里ちゃんは目を丸くしました。お店の一番奥にあるテーブル席に、ETUの達海選手と後藤選手が向かい合って座っていたのです。地元のチームということもあり、有里ちゃんのお家では家族全員でETUを応援していますから、お父さんの見間違いということはありません。叔父さんがいたら、大騒ぎしていたかもしれないなと思いながら、有里ちゃんは二人の姿を見つめていました。 「どうだ。せっかくだから、これ持っていくか?」 二人分のつきだしとお箸をお盆に並べながら、お父さんが尋ねます。考えるまでもなく、有里ちゃんは答えました。 「いい。お父さんか、お母さんが行って」 重ねた角皿を抱えて、有里ちゃんは逃げるように洗い場へと駆けていきました。 たとえ面倒でも、練習は大事なことです。運動会だって合唱コンクールだって、何度も何度も練習をしてから本番を迎えますし、サッカー選手は試合に出るために、汗を流して練習をしています。有里ちゃんは、お客さんの前には出ていかないという約束でお店を手伝っていましたから、料理やお酒を運んだり、注文を取る練習をしたことがありませんでした。 それに、有里ちゃんにはまだ大人の話はまだ難しくて、とても付いていけませんから、お父さんやお母さんのように、料理やお酒を運ぶついでにお客さんと楽しくお喋りなんてできません。お店に来てくれた達海選手と後藤選手に、気の利いたことも言えないでしょう。お父さんはさっき、とんでもないことを言いましたが、有里はまだ子どもだから店には出るなという普段の言いつけは、たぶん間違っていないのだと思います。 お父さんの威勢のいい声が、静かな店内に響きます。枝豆に肉じゃが、カレイの煮付け。豚肉のアスパラ巻きにほうれん草の胡麻和え。それから、生ビール。サッカー選手がどんなものを食べるのかが知りたくて、有里ちゃんは食器を片付けながら七番テーブルの注文に聞き耳を立てていました。 「十番さん、ウーロン茶二つ」 「はーい」 料理で手が離せないお母さんに代わって飲み物を用意するのも、有里ちゃんのお仕事のひとつです。お酒はまだ扱わせてもらえませんが、グラスや湯飲みはお父さんがお盆ごと受け取って、お客さんにお出しします。暖簾に近づいたお父さんの背中に、どこか気の抜けた声が飛んできました。 「あのさー、おかみさん、縮んだ?」 マンガやドラマでは、驚いてお盆を落としてしまう場面がたまにあります。有里ちゃんはもう少しで、それを実際にしでかしてしまうところでした。お客さんがお勘定を済ませたばかりのカウンターの前に、達海選手が立っていたのです。驚いて再び目を丸くした有里ちゃんとは違い、お父さんは落ち着いていました。 「こっちは娘だ。ほら、出てきな」 お父さんに背中を軽く押されて、有里ちゃんはついに白い暖簾をくぐり抜けました。年齢の割に小柄な有里ちゃんの姿は、お店の高いカウンターに隠れてしまっているので、他のお客さんたちには見えません。代わりにお客さんたちが様子を窺うかのように見ているのは、店の真ん中に立つ達海選手です。静かにお酒が飲めるように奥のテーブルに案内したお父さんの気遣いも、どうやら意味がなくなったようでした。 「こんばんは、永田有里です。ええと、今日は、ゆっくりしていってください!」 やっとの思いで挨拶をすると、有里ちゃんは真っ赤になってうつむいてしまいました。その様子を見ていたお父さんが笑います。 「何だ。普段は達海、達海って大騒ぎしてるくせに」 何もそんなことを本人の前で言わなくてもいいのに。穴があったら入りたいという言葉は、きっとこういうときに使うのだろうなと思いながら、有里ちゃんはおそるおそる顔を上げました。達海選手はというと、お父さんの話を聞いているのかいないのかよく分からない表情でお店の中を見回しています。お店にはお父さんが仕事の合間にETUの試合を観ているテレビが一台置いてあるぐらいで、有名人のサインや変わった形の置物はありません。もしかしたら、開店前の掃除がきちんとできていなかったのかも。有里ちゃんが心配になりはじめたころ、達海選手は奥のテーブルに向かって合図をしました。箸を止めた後藤選手が何事かと立ち上がります。達海選手は目の前のカウンターを指さすと、お父さんに尋ねました。 「席、移ってもいい?」 お父さんの返事を待たずに、達海選手は腰を下ろしています。染めているようには見えないのに茶色がかった髪と、鋭いのかぼんやりしているのかよく分からない瞳。カウンター越しに見上げた達海選手の姿は、有里ちゃんの目にはとても大きく映りました。 「急に無理を言ってすみませんね」 テーブルを片付けるお父さんに向かって、後藤選手が声をかけます。私服の雰囲気のせいか、達海選手よりも落ち着いて見えますが、決して老けているわけではありません。有里ちゃんが言うのもおかしな話ですが、クラスにいるサッカーが好きな男の子がそのまま大きくなったような達海選手と比べるのが間違っているような気がします。 「なに、構いやしませんよ」 下げた食器を載せたお盆を抱えて、お父さんがカウンターに戻ってきました。有里ちゃんは両手でそれを受け取ります。洗い物は次から次へとやって来るのですから、いつまでもカウンターの中に突っ立っているわけにはいきません。有里ちゃんは二人の選手に軽くお辞儀をすると、洗い場にお盆を運んでいきました。 お酒は二十歳になってから。酒は飲んでも飲まれるな。お酒にまつわる標語はいくつもありますが、居酒屋「東東京」のお客さんは、二十歳をとっくの昔に過ぎた、有里ちゃんの基準で言えば「おじさん」が多いので、悪酔いして大騒ぎをしたり、酔い潰れて寝てしまうような人はいません。若い人、有里ちゃんから見れば「お兄さん」や「お姉さん」にあたる年齢の人がほとんどお店に来ないのは、お父さんが言うには「客層が違うから」だそうです。そして、達海選手と後藤選手は、これも有里ちゃんの基準ですが「おじさん」ではありません。「おじさん」ばかりの静かなお店を二人が退屈に思ってはいないか、有里ちゃんはちょっと不安になりました。 壁に掛けられた時計は、いつの間にか八時半を過ぎていました。有里ちゃんのお手伝いは夜の九時までと決まっていますが、お店は日付が変わるころまで営業しています。手作りのおいしい料理と、有里ちゃんにはまだ味も分からないお酒。そうしたものをお客さんに楽しんでもらうために、有里ちゃんのお父さんとお母さんは夜遅くまで働いているのです。友達のお家と違うことにショックを受けたこともあれば、一人ぼっちの寂しさをこらえた日もありましたが、今はほんの少しでもお店の手伝いができることを、有里ちゃんは誇りに思っています。 カウンターから注文を受けて、有里ちゃんは二つの湯飲みに温かいお茶を淹れました。小さな丸盆をお父さんに渡そうとして、そこで有里ちゃんの足は再び止まったのです。 頬杖をついた達海選手がまっすぐに有里ちゃんを見ていました。気のせいではありません。その証拠に、達海選手は暖簾の奥に向かって舌を鳴らしながら手招きをしています。有里ちゃんが自分自身を指さすと、達海選手は正解だとでも言いたげに大きく頷きました。 「あのね、お父さん。私、呼ばれてるみたいなんだけど」 路地裏で出くわした猫にちょっかいを出すような達海選手の仕草に、不思議そうな表情を浮かべていた後藤選手も、有里ちゃんの姿に気づいたようです。後藤選手は達海選手と有里ちゃんを交互に見ると、まだ中身の残っているジョッキを軽く持ち上げて、お父さんに言いました。 「大将。娘さんに、少しだけ付き合ってもらえませんか? こいつがこんな調子なんで。娘さんのお名前は……」 「ゆり」 「ゆりちゃんか。構わないかな?」 目の前で繰り広げられた会話に驚いた有里ちゃんは、丸い大きな目でお父さんを見上げました。ときおり、お母さんが常連のお客さんに付き合って、お猪口を傾けているのを有里ちゃんは知っています。お父さんは特に何も言いませんが、それはお父さんとお母さんが夫婦で、大人だからです。自分も同じようにというわけには、当然いきません。憧れのサッカー選手と話ができるとても貴重な機会ですが、有里ちゃんはお父さんが駄目だと言うなら、わがままを通す気はありませんでした。 お父さんは何も言いませんでした。ただ、有里ちゃんの背中に、大きな手を置いただけです。それは有里ちゃんが前に進む手助けをしているようでもあり、後ろに下がろうとしたのを受け止めているようでもありました。有里ちゃんにはまだ少し難しい言葉ですが「子どもの自主性を尊重する」のが、永田家の教育方針です。それが家や学校や社会のルールを破るものであったり、誰かが危ない目に遭うようなことでなければ、お父さんとお母さんは、有里ちゃんが自分で考えて決めたことを、いつも見守ってくれているのです。少し考えて、もう一度、お父さんの顔を見上げてから、有里ちゃんはようやく答えました。 「……ウーロン茶一杯だけなら」 返事を聞いた二人がそれぞれの表情で笑ってくれたので、有里ちゃんも何となく嬉しくなって頬を緩めました。 「ゆりちゃんの名前は、どんな字を書くの?」 後藤選手が話しかけてきてくれたので、有里ちゃんは正直、ほっとしました。カウンターに向かい合って、正確には有里ちゃんがカウンター越しに二人を見上げてグラスを傾けていたのですが、話すことがなくて困っていたのです。サッカーやチームのことで、話したいことや聞きたいことはたくさんあるのですが、プライベートで飲みに来ている人に仕事の話をするのはご法度。お客さんから口を開かない限り、お父さんとお母さんが仕事の話をしないことを、有里ちゃんは知っています。 「有るとか無いとかの有るっていう字に、ふるさとの里。この街が私の故郷だからって」 「ふるさとが有る、か。いい名前だね」 「この街がHomeか。俺たちと同じだな」 有里ちゃんは小首を傾げました。ホームゲームという言葉があるぐらいですから、ETUの選手が浅草をホームだというのは分かりますが、街が家だというのは、よく分かりません。有里ちゃんの表情に気づいた達海選手が、思い出したように付け加えました。 「Homeって言葉には、故郷って意味もあるんだぜ」 ひとつ賢くなったなと笑う達海選手に向かって頷いたとき、有里ちゃんは見てしまいました。肉じゃがを盛りつけたお鉢の底に張り付いた、みどり色のきぬさやを。世の中には、好きな食べ物に真っ先に箸をつける人と、後の楽しみにとっておく人がいますが、達海選手はそのどちらでもなく、好きなときに好きなものを食べる人だろうなと有里ちゃんは思います。手元にある最新の選手名鑑には、達海選手の好物はアイスだと書いてありましたし、きぬさやが大好物だという人の話は今までに聞いたことがありません。もしかしたらという思いとともに、有里ちゃんは陶器のお鉢から目をそらしました。その動きを見ていた達海選手が、後藤選手を軽く肘でつつきます。 「なあ、後藤。トレードしよう」 「トレード?」 「うん」 トレードと言うには、明らかに釣り合いが取れていませんが、達海選手はきぬさやが残るお鉢を押し付けるように後藤選手の前に置くと、カレイの煮付けが乗ったお皿を手元に引き寄せました。カレイの白身は、きれいに骨からはずされています。まだお箸が上手に使えなかった小さなころは、有里ちゃんもお父さんやお母さんに魚の身をほぐしてもらっていましたが、達海選手は二十歳を過ぎた大人です。小さな子どものような真似をするはずがないと有里ちゃんは思いたかったのですが、現実は厳しいもの。後藤選手に取り分けてもらったカレイを、達海選手は当たり前のように口に運んでいます。お父さんに軽く背中を突かれなければ、有里ちゃんは達海選手とカレイのお皿を穴が空くほど見つめていたに違いありません。 「渋い店だよなあ」 「それ、よく言われます」 お箸をウーロン茶のグラスに持ちかえた達海選手が、店を見回しながら呟きます。遊びに来た友達はみんな、有里ちゃんのお家は渋いと口を揃えますが、正直なところ、有里ちゃんは誉められている気がしません。国語辞典によれば、渋いとは地味で味があることだそうですが、渋いお茶は苦いですし、渋柿は干し柿にしないと食べられません。お父さんとお母さんが知れば残念に思うかもしれませんが、有里ちゃんにとって、渋いものは美味くないのです。 「何かいいよな、こういうのって」 意外な言葉に、有里ちゃんは大きな目を丸くしました。カウンターに体を乗り出すように、達海選手に尋ねます。 「ほんと? 本当にそう思いますか?」 「うん。珍しいものも見られたし」 「名前が気に入ったって、この店を選んだのはこいつだから」 「ありがとうございます。そう言ってもらえたら、お父さんとお母さんもきっと喜ぶと思います」 うれしくて、本当にただうれしくて、有里ちゃんは顔いっぱいの笑みを浮かべました。お父さんとお母さんではなくて、父と母とか、両親と言ったほうが良かったかなと考えたのは、興奮冷めやらぬまま朝食の席についた翌日のことです。 「でも、珍しいものって? お酒とかですか?」 「いるじゃん。ここに」 達海選手が軽く顎で示した先には、有里ちゃんが立っていました。有里ちゃんの後ろには、お酒の瓶や徳利がいくつも飾られた棚がありますが、二人が飲んでいたお酒は生ビールだけなので、お父さんが仕入れた地酒や焼酎が珍しいというわけではないようです。達海選手の言葉を補うように、後藤選手が有里ちゃんに笑いかけました。 「君ぐらいの歳の子が働いてる居酒屋は、確かに珍しいな。いつもお店、手伝ってるの?」 「お休みの日とか、お店が忙しい日に。普段は、奥で洗い物とかしてます。お店に出てきたのは、今日が初めて」 「出てきたっていうか、俺たちが引っ張り出したようなものか。無理を言って悪かったね」 「無理だなんて、そんなことないです。もうちょっと大きくなったら、こっちに出てきて手伝う予定だったから」 お酒はまだ飲めませんけど。そう言ったときに有里ちゃんは、「もうちょっと」がいつになるのかを、きちんと決めていなかったことに気づきました。お父さんが、有里ちゃんにカウンターでウーロン茶を飲むことを許してくれたのは、相手が応援しているサッカーチームの選手という、特別なひとだからです。ですが、もしも。もしもETUの選手がこれからもお店に来てくれて、特別が特別でなくなるのなら。小さな想像に、有里ちゃんの胸は躍ります。 「まあ、予定通りに進まないのが、人生ってもんだ。フットボールと一緒だよ」 達海選手は不思議なひとだと、改めて有里ちゃんは思いました。子どものような真似をする割に物知りで、難しいことを言う目の前の彼は、不敵な笑みで相手選手を抜き去って、ゴールを狙う試合中の姿とは様子が違いました。後藤選手は、有里ちゃんが知っている、優しそうでしっかりした大人でしたので、オフだからだとか、お酒の席だからというのは、あまり関係がないような気がします。 「でも、ガキのうちから働いて、社会勉強するのは悪いことじゃないだろ。埼玉じゃ、小学生がサッカーしながら新聞配達と屋台のバイトして、家計を助けてるんだぜ」 「それ、マンガの話でしょう」 「何だ、知ってたか」 呆れたような表情を浮かべる後藤選手の隣で、達海選手が笑います。マンガに出てくるような必殺シュートの練習をしたことがあるのか、二人に聞いてみたい気がしましたが、学校のグラウンドに置いてあるゴールポストでは三角飛びが出来ないことぐらいわかるので、有里ちゃんはやめておきました。 「ところでさ、アイスある?」 お酒の銘柄や旬のメニューを書いた店内の張り紙を見回しながら、達海選手が尋ねました。残念ながら、居酒屋「東東京」は、全国にチェーン展開しているような居酒屋とは違って、女の人が喜ぶようなデザートを置いていません。お父さんはお酒を飲むので、甘いものは食べませんし、有里ちゃんも最近はニキビや体重が気になって、甘いものやスナック菓子をできるだけ食べないようにしているので、家の冷凍庫にもアイスの買い置きはありません。達海選手の残念そうな表情に、有里ちゃんはお店の戸口を指して言いました。 「アイス、うちには置いてないけど、近くのコンビニに売ってます。お店からまっすぐ大通りに出て、少し左に行ったところ」 寮で暮らしている選手には、門限があるのだそうです。大人になってもそういうものがあるのは大変だなと思いながら、有里ちゃんは楽しい時間が終わりに近づいていることを実感しました。お喋りに夢中になっているあいだに、洗い物も溜まっているようです。お店の時計は九時五分前。後藤選手が伝票を片手に立ち上がりました。 「今日はごちそうさま。有里ちゃん、今度、また練習場に遊びにおいで」 「授業はサボるなって、ガッコーの奴らに言っとけよ」 驚いて目を丸く大きく見開いた有里ちゃんに軽く手を振り、ワリカンでお勘定を済ませた二人は、コンビニを目指して夜の街へと歩いていきました。 グラスの底に一口分だけ残っていたウーロン茶を飲み干して、有里ちゃんは洗い場に戻りました。運動をしたわけでもないのに、心臓がどきどきしています。触れた頬が熱いので、たぶん顔は真っ赤なのでしょう。 ETUのクラブハウスと練習場は、有里ちゃんの家の近所、子どもでも歩いていける距離にあります。昨シーズン、教室を抜け出して平日の午前練習を見に行った生徒がいて、学校で問題になりましたが、もちろん有里ちゃんはそんなことはせずに、学校の帰りや休みの日に練習場に足を運んでいます。敷地を囲むフェンスの前には、いつも人だかりができていて、お散歩中のおじいさんとおばあさんや制服を着た中高生、買い物帰りの親子連れや、商店街のおじさんなど、たくさんの人が集まっています。練習場に通っているうちに、いつの間にか顔見知りになった人はいますが、それは見学者同士のことで、選手にとってはフェンスの向こう側のできごとなのだと、有里ちゃんはそう思っていました。 後藤選手は、またという言葉を使いました。お父さんが達海選手と話をしているときに、有里ちゃんが達海選手のファンだと聞いていたかもしれませんが、練習場やスタジアムに行ったという話はしていません。学校のことも言っていませんから、授業を抜け出して警備の人に見つかった子が、有里ちゃんと同じ学校だということも、達海選手が知っているはずがないのです。ですが、帰り際の二人の口ぶりは、有里ちゃんが練習場に見学に行っていることも、どこの学校に通っているのかも知っているようでした。もしかしたら、ETUの選手たちは「たくさん」を作るひとりひとりのファンや見学者のことを、有里ちゃんが考えているよりもよく見ていて、覚えてくれているのかもしれません。 今度。後藤選手の言う「また」があれば。できれば高いフェンスやカウンターのない場所で、有里ちゃんはもっと二人と話がしたいと思いました。 「有里、もう時間だぞ」 「うん、今あるぶんだけ片付けたら上がる」 九時を回っても洗い場に立ち尽くしている有里ちゃんに、お父さんが声をかけました。有里ちゃんは返事をしながら蛇口をひねります。勢い良く跳ねた水しぶきが、有里ちゃんの手と袖口を冷たく濡らしましたが、顔と胸は熱いままでした。 お酒は二十歳になってから。たとえ誰が来ていても、お手伝いは夜の九時まで。お客さんに変なことを言われたり、困ったことがあれば、すぐにお父さんかお母さんを呼ぶこと。 家族会議のあとに、有里ちゃんはお父さんからお店に出ても良いというお許しをもらいました。よその飲食店の求人広告の言葉を借りれば「ホールのスタッフ」です。居酒屋「東東京」の雰囲気には似合いませんが、「若おかみ」と呼ばれるのも、有里ちゃんの年齢と体つきを考えれば無理があります。 「だったら看板娘でいいじゃんか」 いとも簡単に、有里ちゃんの疑問を解決してみせたのは達海選手でした。シーズンが始まってからも、達海選手はたまにお店に来てくれています。たいていは後藤選手と一緒ですが、他の選手やスタッフが一緒のときもあります。「松ちゃん」こと松原さんは、お酒の話でお父さんと盛り上がっていました。 隅田川スタジアムの近くにある叔父さんのお店も、ETUの試合がある日には大勢のサポーターが詰めかけて、盛況のようです。今のところ、居酒屋「東東京」に閑古鳥は来ないでしょう。 「出し巻き玉子と肉じゃが、お待たせしました」 経験を積んだおかげか、料理とお酒を運ぶ有里ちゃんの手つきも慣れてきました。難しいからと尻ごみしていた大人の話も、素直に分からないと言えば、お客さんたちが分かりやすく説明してくれるので、苦にはなりません。お酒が入っているせいで話が長くなったり、脱線するのは、仕方のないことです。 有里ちゃんがテーブルに置いた肉じゃがを、達海選手は何かに気づいたような表情で見下ろしました。その耳もとに、有里ちゃんは小声で囁きます。 「あのね、達海さん。こないだ言ってたやつ、お店に入ったよ」 でも、食べ過ぎないでね。お腹壊したり、太るといけないから。それだけを言って達海選手の側から離れると、有里ちゃんは空いたお皿とグラスをお盆に載せていきました。 壁に貼られた真新しい紙には、筆でアイスクリームと書かれていました。バニラと抹茶と季節のシャーベット。有里ちゃんがお父さんに頼んで追加してもらった新メニューです。 有里ちゃんのお父さんとお母さんは、常連さんの好みをほとんど覚えていて、お客さんごとに野菜の量や味つけ、お酒の濃さや温度を細かく変えています。「いつものやつ」と言えば、生ビールとししとうを抜いた揚げだし豆腐だと分かるような人もいます。 常連さん全員は無理でも、せめてお店に来てくれたETUの人たちの好き嫌いは覚えておきたいと有里ちゃんは考えています。体が資本のスポーツ選手ですから、好きなものばかり食べていればいいというわけではありませんけれども。 有里ちゃんが運んだ肉じゃがのお鉢のなかに、今日はみどり色はありませんでした。 |