午後の練習に備えてしっかり食べなさいというメッセージが盛りつけられた、ボリュームのある昼食を胃におさめていた椿の視界を、ガラス越しに有里が横切った。そのときに限って、なぜか彼女の姿が気にかかったのは、仕事の必需品であるデジカメと携帯電話だけではなく、緑色のぬいぐるみを抱えていたからである。パッカ君のぬいぐるみ。れっきとしたETUオフィシャルグッズだ。 五月の日差しを受ける練習場の芝の上に、有里は両膝をついた。正面にパッカ君を立たせ、開いた携帯電話を置く。本物のパッカ君とは違い、ぬいぐるみに携帯電話を持たせるのは難しいようだった。腕を組んだ彼女は、きっと厳しい表情をしているのだろう。 「椿。お前、どうした?」 「うわあっ!」 右肩を軽くつつかれ、椿は思わず声をあげた。振り返れば、目を丸くした世良がトレイを抱えて立っている。箸を止めてまで窓の外に見入っていた椿の姿は、世良でなくとも奇妙に映っただろう。 「いえ、何でもないです。すいません」 隣の席に腰を下ろした世良に、椿は小声で詫びた。食事を再開したものの、本心では有里の様子が気になって仕方がない。広報の仕事が、多忙で多岐にわたることを彼は知っているが、グッズの宣伝でもないのに緑のぬいぐるみを持ち出す理由は、まるで見当がつかなかった。さりげなく練習場をうかがいながら、椿は箸を運ぶ。世良の呟きが、その手を止めた。 「有里さんさぁ」 ご飯に喉を塞がれそうになり、椿は慌てて水を飲み干した。いまさらながら、食事どきにテレビを観るなという両親の教育方針が正しかったことを思い知る。テレビであれ何であれ、目の前のおかず以外のものに気を取られるのは危険だ。そして、それは食事を作ってくれた人たちに対して失礼でもある。呼吸を整える椿の背中を撫でながら、世良はガラス窓を顎で示した。 「パッカの中身知ってんのかなぁ。大きいほうの」 「世良さんも見たことないんですか?」 パッカ君は着ぐるみだ。 着ぐるみの中には、人間が入っている。 よって、パッカ君の中には、人間が入っている。 学校で習った三段論法を椿は思い出す。関東のとあるクラブは、いわゆる「マスコットの中の人」を募集して多くのサポーターを落胆させたが、ETUの公式プロフィールによれば、パッカ君は仕事とプライベートは分ける主義らしく、その正体は謎とユニフォームに包まれている。トップチームのホームゲームだけではなく、サテライトの試合にも足を運んでいた働き者のマスコットは、椿にとってチームの大先輩であり、そのせいか近寄りがたい存在であった。当然、正体や中身など知るはずもない。 「去年の暮れに、佐野さんとスクールのクリスマス会に参加したんだけどな」 「はぁ」 プロ選手との交流は、下部組織に属する少年たちにとって貴重な、そして楽しいひとときだ。年下の椿や宮野がトップチームに溶けこめるよう、普段から世話を焼いてくれている世良と佐野は、子どもの面倒見も良さそうに思える。スクールの小学生たちとサッカーに興じる二人の姿を、椿は脳裏に描いた。 「途中で、サプライズゲスト? で、パッカが来たんだよ。サンタ服着て、プレゼント持って」 「パッカ君、サンタ服着てたんですか」 世良は下唇をわずかに持ち上げた。 「大事なのはそこじゃないけどな。そしたら、スクールのガキたちが、一斉にパッカんとこ行って。群がるとか殺到するとか、そんな感じで。よじ登ろうとしてた奴もいたな」 サッカー選手と子どもたちの心温まる交流の図は、椿の頭から脆くも崩れ去った。夢がないなどと言われる最近の子どもたちは、サンタクロースの正体も、着ぐるみの中に人間が入っていることも、とっくにお見通しなのだろう。しかし、だからといってマスコットの中身を暴くために集団で襲いかかるのは乱暴すぎる。そんな腕白坊主たちの相手を、いつかは自分も務める日が来るのだろうか。 「パッカ君、大丈夫だったんですか」 「それがなぁ」 パッカ君はわずかによろけたものの、転ぶことなく持ちこたえた。そして子どもたちをかわし、受け流して距離を取ると、一気に安全圏、つまりスクールのコーチの後ろに逃れたのだという。プロのサッカー選手も舌を巻くバランスと身のこなしであった。 「コーチに『パッカ君にプレゼント持って帰ってもらうぞ!』って怒鳴られて、ガキたちは大人しくなったんだけどな。俺たち揃って、パッカにおいしいところ持ってかれちまった」 悔しげに世良は頬を膨らませる。食事と会話を同時にこなす口が、忙しげに動いていた。対する椿は、いつしか箸の動きを止めて世良の言葉に聞き入っている。ようやく、話は本題に移りそうだった。 「んで、イベントには有里さんも来てた」 クラブの公式サイトには、トップチームの練習やイベントだけではなく、サテライトの試合結果や下部組織の活動も掲載されている。広報が写真と選手のコメントを得るために同席するのは当然のことだった。 「有里さん、隅田川の水は冷たくないかとか、サンタ帽が頭の皿の邪魔にならないかとか、そういうことをパッカに聞いてたんだよな。着ぐるみとか、その中の誰かにじゃなくて」 「周りにスクールの子どもたちがいたからじゃないですか?」 「イベントが終わって、後片付けしてるときも、そんな調子だったんだぜ?」 椿は思わず、世良の顔に目をやり、そして窓の外に視線を移した。子ども相手ならばともかく、スクールのコーチや選手の前でまで、お芝居を続ける必要はないだろう。たとえパッカ君の正体が判明したところで、それを口外するような者は、クラブにはいない。フットボールクラブは、夢を作り、与えるのが仕事なのだ。 「不思議っスね」 「つーか、変わってるよな」 昼食をかきこむ二人の視線にも気づかず、有里はパッカ君のぬいぐるみにデジカメを向けている。そういえば、彼女はいつ食事を取っているのだろう。スケジュールが選手と異なるせいか、彼女が食堂を利用しているところを、椿はまだ見たことがなかった。 「あの。俺、ちょっと考えたんスけど」 千葉県にありながら東京を名乗る、大規模なアミューズメントパークの名を椿は挙げた。夜のパレードには何ワットの電気が使われているのかという小学生の質問に、全て魔法で動いているから電気など使っていないと回答し、出迎えた有名アニメのキャラクターに、お前らの中には人間が入っているのだろうと言い放った芸能人を出入り禁止にした夢と魔法の王国に、椿は上京してから一度だけ、友人と足を運んだことがある。人ごみとアトラクションの待ち時間は彼を疲れさせたが、そこは華やかで、文字通り光り輝いていた。 「あそこは社員教育がスゴいらしいって、友だちが言ってたんですよ。永田さんももしかしたら、パッカ君の中に人なんていないって言うように、社員教育みたいなの受けてるのかも……」 「誰にだよ?」 「そりゃもちろん、偉い人に……」 力なく言葉は消え、椿は首を横に振った。クラブの偉い人とは、言うまでもなく会長と副会長、そしてGMのことだ。現場を預かる監督も、もちろん偉い。というよりも、偉くなくては困る。だが、ETUの「偉い人たち」は揃って有里に頭が上がらず、達海監督が遅刻や寝坊のたびに有里に叱られる姿を、椿は幾度となく目にしているのであった。会長と副会長の口論を、荒っぽいやり方で中断させたという噂もある。広報部のトップは部長だが、椿が時間をかけて思い浮かべた中年男性の顔は温和そのもので、部下に何かを強いるような人間には見えなかった。 「お前なら、パッカのこと詳しいんじゃねえの?」 世良が椅子ごと振り返った先に、昼食を食べ終えた赤崎の姿があった。世良と椿の会話が耳に入っていたらしく、両眼に呆れの色が浮かんでいる。 「知りませんよ。そんなこと」 「冷てぇな。ユースのイベントにもパッカ来てたんだろ?」 くだらない。赤崎がそう言わなかったのは、優しさからではなく、コップの水を口に含んだからであった。ETUの下部組織に身を置いていたからといって、少年の赤崎がパッカ君を追い回す姿など、椿には想像もできない。椿と世良の表情に思うところがあったのか、赤崎は表情を崩さないまま解決案を示してみせた。 「そんなに気になるなら、本人に聞けばいいでしょう?」 「え……。今日、パッカ君来てるんですか?」 世良の左手と赤崎の右足が、同時に椿を小突いた。痛みはないが、二人の眼差しに心を刺されるような思いがする。パッカ君は河童だが男なので、女性である有里よりは話が合いそうに思えたのだが、それは気の迷いに過ぎなかったようだ。 「有里さん、仕事終わったのかな」 ぬいぐるみを拾いあげ、有里は立ち上がった。午前と午後の二部練習のあいだには、昼休みと呼ぶには長すぎるほどの空き時間がある。それを利用して、自宅や寮に戻る選手もいるが、スタッフにとっては仕事の時間だ。有里は事務所に戻り、午後の練習が始まるまでパソコンに向かうのだろう。せっかくの天気なのだから、休憩がてら日向ぼっこでもすれば気持ちいいだろうに。王子が聞けば、やっぱりバッキーは犬だと笑われそうなことを椿は考えた。 「世良さん?」 世良は椅子から立ち上がると、大股で窓に歩み寄り、ガラスを二度叩いた。食堂に響いた音は、有里の耳にも届いたようで、デジカメとぬいぐるみを抱えた姿が近づいて来る。開かれた窓から風が入りこみ、カーテンを揺らした。 「世良くん、どうしたの?」 「これから、三人でしりとリフティングやるんスけど」 窓に手をかけたまま、世良は振り返った。 「いつ勝負申しこまれてもいいように、今から練習しとこうと思って。有里さん、時間あったら写真撮ってくださいよ」 赤崎は顔をしかめた。強引に巻きこまれたのだから当然だろう。椿は皿を片付けるふりをして、下を向いた。うろたえた表情を見せれば、有里に不審を抱かれてしまう。 「それは構わないけど、世良くんケガ大丈夫なの? 張り切りすぎて無茶しないでよ」 有里は楽しげに笑みを浮かべている。一旦、事務所に戻るという彼女の姿を見送って、世良は窓を閉めた。 「俺まで巻きこまないでくださいよ」 「何だよ、本人に聞けばいいって言ったの、お前じゃんか」 椿は頭を抱えた。緑の小さなぬいぐるみが目に付いたばかりに、オファーが来るかどうかも定かではないしりとリフティングの予行演習をする羽目に陥ってしまったのである。しかし、赤崎の冷たい声と眼差しを、ゲームを提案した世良は悪びれずに受け流した。 しりとリフティングは、全国ネットで放映されているサッカー番組の企画の一つで、MCを務めるお笑い芸人がサッカー選手としりとりをしながらリフティング勝負をするというものだ。同じ言葉を二度使ってはならない、リフティングは十回以内にボールを相手に渡さねばならないなどとルールが定められており、技術はもちろんのこと、集中力と知力も求められる高度なゲームである。勝負を受けた選手のなかには、事前にチームメイトと特訓して勝利を得た者もいるという。ライオンはウサギを狩るにも全力を尽くすというが、プロサッカー選手には負けず嫌いが多いのだ。 「三人総当り。負けた奴が質問な!」 ゲームなどで決めなくても、世良と赤崎の二人ならば、遠慮なく有里にパッカ君の正体を尋ねられるだろうに。椿は思ったが、年長者を相手にそれを言い出すことはできなかった。負けた人間が有里に質問をする。逆に言えば、最下位にさえならなければ、有里におかしな質問をせずにすむのだ。 しかし、椿大介は自他とともに認める「チキン」であった。罰ゲームはその存在だけで彼のプレッシャーとなり、プレッシャーは焦りとミスを生む。デジカメをぶら下げて再び練習場に現れた有里の姿が、それに拍車をかけた。 「怪獣!」 「う、う、う……うどん!」 パッカの「か」から始まったしりとりは、ラリーが続く前に終了した。 「椿君、自滅するの早すぎ」 有里の苦笑に椿は肩を落とした。世良を相手に自滅した彼は、続く赤崎との対戦でボールを落とし、早くも最下位が決定してしまったのである。オファーに備えての予行演習という言葉通りに優勝を懸けてラリーを続ける世良と赤崎を、有里は笑いながら見物しているが、ボールとともに交わされる言葉からは、さっさと任務を遂行しろという椿へのメッセージが否応なく伝わってきた。隅田川、賄賂、ロック、くちばし、しみ、水かき、きゅうり、リリーフ、そしてファスナー。 「な、内臓!」 「鱗」 ゲームに乗り気ではなかったはずの赤崎が、言葉とともにボールを返す。真剣勝負に向かってシャッターを切る有里に、椿は遠慮がちに声をかけた。 「あの、永田さん」 有里の微笑みが呆れに変わる瞬間を想像しただけで、椿の胃と胸は痛む。乾いた唇から放たれた声が、緊張にうわずった。 「さっき、パッカ君のぬいぐるみ撮ってましたよね。あれは何に使うんですか?」 震える指が、一眼レフのデジカメを示す。ぬいぐるみの話題から、さりげなく大きいパッカ君の話題に移るのが、椿の立てた作戦だった。要するに真っ向勝負を避けたのである。 「これ?」 有里は慣れた様子でデジカメを操作して、画像データを表示した。どのような工夫をこらしたのか、パッカ君のぬいぐるみが携帯電話を手にしている。液晶画面に表示された名前は、関西に拠点を置く二部チームのマスコットのものだった。 「向こうのクラブのマスコットが、よそのチームのマスコットに電話するっていう企画なの。言ってみればマスコットによるクラブの近況報告。うちの公式にも写真載せるから」 「それは……楽しみっスね」 有里は頷いた。手元のデジカメから、正面へと視線が移る。世良と赤崎のラリーはまだ続いていたが、椿と有里の会話は途切れてしまった。しりとりが良い例であるように、言葉を探すのは簡単なようで、難しい。流れを引き戻すべく、椿は頭をひねった。 「あの、その企画に」 ニワトリ! 赤崎のボールを膝で受け、世良はリ、リと叫びながらリフティングを始めた。 「大きいパッカ君は出ないんですか?」 整えられた有里の眉がわずかに動いた。不思議そうな顔に呆れや怒りが見当たらないことに、椿はひとまず安堵する。有里が取り出した携帯電話のストラップが揺れた。 「これ、ぬいぐるみでやる企画なのよ。それに、パッカ君は手が大きいから携帯が隠れちゃうでしょう?」 「パッカ君、携帯持ってるんですか?」 日本製の電化製品は世界中で重宝されているが、当然ながら河童が使うことを考えて作られてはいない。ボタンが押せるかどうかも危うい携帯電話よりも、パッカ君にはダイヤル式の黒電話が似合うのではないか。実物を見たこともないのに、椿はそんなことを考えた。 「知らない。たぶん、持ってないんじゃないの?」 「でも、連絡先が分からないのって、不便じゃないんですか?」 有里の携帯電話には、選手やスタッフの自宅や携帯の電話番号が登録されており、椿にもかかってきたことがある。しかし、電話番号を知っていても、必ずしも連絡が取れるとは限らない。集合時間に遅れてクラブハウスに現れたある選手は、繋がらなかった携帯電話を握りしめる有里に向かって言ったものだ。ボク、運転中はマナーモードにしてるから。携帯が鳴ってたの、気がつかなかったよ……。 「パッカ君は大丈夫よ。遅刻なんてしたことないし、連絡が取れなくて困ったってことはないわね」 頷いて、椿は思わず身を固くした。有里の黒い瞳が、まっすぐに彼を見つめている。リバプール、ルーレット。世良と赤崎の声がやけに遠くに聞こえる。 「椿君、パッカ君に何か用事でもあるの?」 「ええっと、その、まあ……。いえ、あの! ぜんぜん、全然、たいした用じゃないんですけど」 パッカ君の正体が知りたいとは、さすがに言えなかった。 「試合の日はパッカ君も忙しいだろうし、別にいいっスよ、本当にたいした用じゃないんで」 「でも用事があるんでしょう?」 笑われ、呆れられることを覚悟のうえで、パッカ君への用件を明らかにしてしまえば、椿の言葉は額面どおりに有里に受け止められただろう。しかし、たいした用事ではないことを強調したために、椿は有里に逆の印象を抱かせてしまったのだ。考えこむような有里の表情に、椿は慌てる。面倒見の良い彼女ならば、パッカ君と椿に会わせるために、スケジュールを調整しかねない。 「でも、全然、大事なことじゃないんです。それに、パッカ君、クラブハウスには来ませんよね。イベントでもない限り」 「来るわよ。たまにだけど」 椿は目を見開いた。 「来るって、何しに来るんですか?」 「何しにって……。仕事の手伝いとか、いろいろと」 うちは人が少ないからと有里は呟く。スタッフの人員が少ないETUでは、ときおり猫の手はおろか、河童の手も借りたい事態が起きる。有里は学生時代からクラブハウスに出入りして、仕事を手伝っていたのだった。 「そういえば、私が正社員になった日も、パッカ君来てたわね」 リーグジャパンは毎年三月に開幕するが、学校や官公庁は四月一日を年度の始まりとする。ともに卒業した友人が入社式に臨んだその日から、有里はETUの正社員となった。リーグは既に始まっており、選手もスタッフも既に見知った人ばかりであったが、彼女はけじめとしてクラブハウスや練習場に挨拶回りに行ったのだという。 「永田さん、もしかしてパッカ君にも挨拶したんですか?」 「そうよ」 「永田さんは、パッカ君に、挨拶に行ったんですね?」 パッカ君の名を呼ぶ声に椿は力をこめた。念を押すような口調に有里が怪訝そうな表情を浮かべる。 「それ、椿君の用事と何か関係があるの?」 椿は答えられなかった。言葉に詰まったのではない。二人の男の叫びが、椿の声をかき消したのだ。 「着ぐるみ!」 「永田君、電話!」 広報部の男性――確か佐藤という名前だった――が、窓から顔を出している。返事とともに有里は立ちあがり、なおも続くしりとリフティングに名残惜しげな視線を向けながら、クラブハウスへと戻っていった。軽く息をついた椿の耳に、ボールの弾む音が響く。 二人の勝負が終わっても、有里は練習場に戻っては来なかった。 「お前、何やってたんだよ」 「有里さん相手にキョドり過ぎじゃねえの?」 赤崎と世良の冷たい眼差しに、椿は肩を落とした。不本意な罰ゲームとはいえ、与えられた役割を果たせなかったのは事実だ。 「すいません。でも、俺、言えなかったんです」 二人は揃って顔を見合わせた。有里の顔を思い浮かべながら、椿は再び言葉を探す。 「何だか、永田さんが、パッカ君のことを着ぐるみなんかじゃなくて、本物の河童だと思ってるような気がして。そんな人に、中身がどうとかって、俺、聞けません」 「本物の河童って……河童に本物もニセモノもねえだろ」 「あの人幾つだよ、ありえねえ」 世良が顔をしかめ、赤崎が唸る。有里を夢見がちな女の子と呼ぶには、実年齢と外見の点で、少しばかり無理があった。椿もまた、自身の推測に無理があることは承知している。夢を叶え、夢を築く仕事に就いているとはいえ、自分は有里という女性に夢を見過ぎているのではないか。 「それと、もう一つ」 仮説を口に出す椿の声は弱々しかった。 「パッカ君、本当に中の人なんているのかなって。着ぐるみだから、中の人がいるんであって、着ぐるみじゃなかったら、中の人はいませんよね。俺、何かワケ分かんなくなって……」 俯いた椿の頭上に、二人分のため息が降ってきた。赤崎の手が肩に置かれ、椿は顔を上げる。気遣いと困惑と呆れの混ざり合った眼差しは、実に生暖かいものだった。 「お前、センノーされたんじゃねえの?」 「騙されて、壺とか印鑑買わされないように気をつけろよ?」 「か、買いませんよ」 店員の営業トークに流されるな、ヤバくなったらその足で逃げろと言い聞かせる人生の先輩たちの口調は優しかった。騙されずに大都会東京で生き抜くコツをステレオで授かりながら、椿はふと、昔話の狐や狸のように、河童も人を化かすのかと考えた。 「椿君」 試合後のサポーター挨拶を終えて、ロッカールームに引き上げようとした椿のもとに、有里が歩み寄ってきた。従者を引き連れたお姫さまというよりも、隅田川のお殿様を先導する付き人に見える。彼女の後ろには、パッカ君の姿があった。 「この前、パッカ君に用があるって言ってたでしょ? 少しなら時間あるからって、パッカ君が」 有里は微笑んでいる。他愛ない言葉を覚えていてくれていたことは嬉しかったが、用件が用件であるだけに、パッカ君との対面は避けたかったのが、椿の正直な思いだ。横から伸びてきた世良の手が、裾をつかむ。バ、ツ、ゲ、−、ム。ユニフォームは五度引っ張られた。 「すいません、永田さん。少し離れててもらえますか。……男同士の話なんで」 有里は不思議そうな表情で、椿の言葉に従った。パッカ君が着ぐるみであるか否かを確かめる方法。それを考えついた椿の頭は、しかし体と同様に、試合を終えたばかりで疲れきっていた。パッカ君の耳を探しながら、椿は唇を寄せる。視界の端で、フラッシュが瞬いた。 「パッカ君。パッカ君のユニフォームの下って、どうなってるの?」 若い女性タレントに請われて腹筋を見せつけるサッカー選手とは違い、パッカ君はガードが固かった。飛びすさるように椿との距離を取り、胸の前で両手を交差する。膝を前に突き出すように右足が上がり、黒い大きな瞳に、咎めるような光が宿った。他の選手たちが、パッカ君と椿に視線を向ける。 「椿、パッカ君に何言ったんだよ?」 「パッカ、セクハラでもされたのか?」 男同士、そして人間と河童のあいだでも、セクシャル・ハラスメントは成立するものらしい。足を下ろし、両手で顔を覆ったパッカ君は、丹波の問いに恥ずかしげに頷いた。椿は慌てて首を振る。顔と耳が赤く染まり、頭の中に熱が駆け抜けた。 「ち、違います! 俺、そんなつもりじゃ……」 ファスナーの有無を確かめるだけならば、パッカ君に抱きついて、ユニフォームの中に手を突っ込めば良かったのだ。だが、椿はその機会を逃し、マスコットにセクハラ発言をした男という烙印を押されようとしている。チームメイトに笑われるのはまだ構わなかったが、有里の顔を見るのが怖かった。呆れを通り越して、軽蔑されたかもしれない。 「若いねぇ、バッキー」 王子の視線が、後ろから椿の髪を撫でた。振り返るよりも早く投げかけられた、笑みを含んだ囁きに椿はさらに顔を赤らめる。 「覚えておくんだね。人でも河童でも、その気にさせるにはムードが大事なんだよ」 |