食堂で有里が目にしたのは、今にも選手に交じって走りだしそうな後藤の白いTシャツ姿だった。 「おはようございます、後藤さん。どうしたの、その恰好」 「ああ、おはよう。今日の練習試合、俺が審判しようと思ってね」 クラブのGMが、練習試合の審判を買って出るなど、異例のことである。有里にオレンジ色のトレイを渡しながら、後藤は微笑んだ。 「一度、視点を変えてチームを見てみようと思ってね。それに、久しぶりに体を動かしたくなった」 「大丈夫なの? ケガしないように気を付けてよ」 有里の口調は冗談めかしていたが、言葉は本心であった。クラブの公式サイトに、GM負傷のお知らせなど載せたくはない。 「今のうちに、しっかり食べておくんだよ。時間はあるんだから」 「後藤さんだって、人のこと言えないでしょう」 ビュッフェ形式の朝食が二人のトレイに並ぶ。食堂が開いたばかりのためか、ETUの選手やコーチの姿は見当たらなかった。村越や堺などは、朝食の前に体を動かしているのかもしれない。 「朝に果物とヨーグルトなんて、久しぶり」 有里と後藤は同時に手を合わせ、箸を取った。 庭に面したガラス窓から、日の光が差し込んでくる。練習試合は晴れるだろうという有里の予想は、食堂に現れた人物によって覆された。 「達海……?」 「だよね。どうしよう、後藤さん。今日の試合、土砂降りかも」 毎朝、有里に叩き起こされて、ようやくベッドから這い出るような男が、早朝の食堂に立っている。食事の手を止めて囁きを交わす二人を見つけると、達海は右手を挙げながらテーブルに近づいてきた。 「ちょうど良いや。二人とも揃ってるな」 「達海さんこそ、珍しく早起きじゃない。どうしたの?」 後藤の隣に腰を下ろし、達海は手書きのメモをテーブルに広げた。 「これ、うちのヤツらに伝えといて」 癖のある文字に眉を寄せながらも、後藤はメモを引き寄せた。 「有里にはこっち」 突きつけられた紙袋には、オレンジと青の二色に彩られたジャージが押しこまれていた。胸元にチーム名が記されたそれは、練習試合の対戦相手である港経済大学のものだった。 「達海さん、どうしたの、これ?」 「ん? 借りてきた」 グレープフルーツに手を伸ばしながら、達海はこともなげに答えた。 「今日の練習。有里はそれ着て来て」 「何でよ。この服でいいじゃない」 ボーダーシャツの襟を指でつまみながら、有里は抗議した。ETUでは選手の練習着とは別に、スタッフ用のシャツを用意している。着替えが必要になった時のために、キャンプにも数枚を持参していた。 「まあ一つは、気分転換だな」 言葉を続ける達海の顎から汁が落ちる。彼の顔に視線を定めたまま、有里は後藤にポケットティッシュを手渡した。 「やっぱりさあ、四季のあるこの国で、季節感って大事だと俺は思うんだよね。だから松ちゃんには、日替わりで夏らしい恰好をしてもらってるんだけど」 何となく嫌な予感がして、有里はトレイに両手を添えて達海から距離をとった。その正しさを裏付けるかのように、監督の瞳に人の悪い光が宿る。 「昨日のプールの後に、有里の水着が見てぇって声が聞こえてきたわけよ。そうは言っても、プール使うのは昨日だけだったし、俺もセクハラだ何だでおやっさんに睨まれるのは嫌だしっ……!」 テーブルと椅子が不自然に揺れ、達海の声が途切れた。「ETUの監督はコスプレがお好き! 被害者が涙の激白!」という週刊誌の見出しめいたフレーズが、有里の頭をよぎる。 「印象ってさあ、ちょっとしたことで変わるじゃん。服とか髪型とかさあ」 ETUのクラブカラーを用いていないジャージは、確かに新鮮ではあるが、単なるイメージチェンジのために借りるようなものではない。有里の疑問を、達海は明快に吹き飛ばした。 「それに、俺一人だと寂しいし。なあ有里、一緒に着よう?」 達海自身も、港経済大学のジャージを着るという。昨日の謎めいた言葉の意図は明かされたものの、ETUの広報としてキャンプに来ている身としては、対戦チームのジャージに袖を通す気にはなれない。 「それ着たら、私が港経大の関係者みたいに見えるじゃない」 顔をそらした有里に聞こえるように、達海はわざとらしくため息をついた。 「そうは言うけど、広報って、チームや選手のいいことだけじゃなくて、失敗やカッコ悪いことも伝えるのが仕事だろ?」 練習試合で、選手たちがみっともない姿を見せるとでもいうのだろうか。口を尖らせた有里を、穏やかに後藤が宥めた。 「たまには違う立場からチームを見るのも、有里ちゃんにとって、いい経験になるんじゃないか?」 「ほら、GMもそう言ってるじゃん」 達海がしてやったりと言いたげな表情を浮かべたのは気に食わなかったが、有里に対する後藤の助言は、今までに間違っていたことはなかった。 「それに、達海一人だと、向こうさんのウチへのイメージが悪くなるかもしれないだろ」 今度は達海が口を尖らせた。彼のお目付け役と広報の業務を、有里は同時に進めることになる。明らかに骨が折れそうだったが、引き受けないわけにはいかなかった。 「分かったわよ。今日はそれ着ればいいんでしょう」 紙袋を隣の椅子に置き、有里は食事を再開した。その勢いに、達海と後藤がわずかに目を見張る。 「部屋に戻って着替えないと。朝は色々と時間がかかるんだから」 口に運んだ卵焼きは、ほのかに甘かった。 体力の低下を突きつけるように、後藤の全身は悲鳴を上げている。 「運動した次の日に筋肉痛が来るなら、まだ若い証拠じゃない」 有里は慰めてくれたが、忍び寄る不惑の声に元プロサッカー選手という経歴は無力だ。練習試合の翌朝、後藤はドクターの元に足を運び、湿布の臭いを気にかけながら新加入選手との契約に臨んだものである。 「明らかに体力は落ちてるくせに、暑いなかスーツ着てられるのって、不思議な話だよなぁ」 心から感心したように達海は言い、水色のアイスバーを口にくわえた。彼の右手は休むことなく、ボールペンを動かし続けている。 「新しい練習メニューか?」 練習メニューや試合のフォーメーションならば、達海は人の出入りのある事務室ではなく、監督室で考えをまとめるだろう。癖のある文字が、後藤の目に飛び込んできた。雪だるま、スキーウェア。虎パンツ。雛祭りの着物。夏のキャンプで繰り広げられた松原のファッションショーが思い出された。 「……なあ、後藤。一月と二月の行事って、他に何かあったっけ?」 天宮杯勝ち残ったら、サンタも要るかなあ。達海の呑気そうな呟きに、それを誰に着せるつもりなのか尋ねる気力がないまま、後藤は震える足に手を添えた。 |