アウェイ遠征前日のクラブハウスは、多くのスタッフが準備のために慌ただしげに動き回っています。さまざまな道具が積みこまれるチームバスを、シャッチーは物陰から見つめていました。スタッフは皆仕事にかかりきりで、誰もシャッチーを気に留めません。 もしもシャッチーが、選手と一緒にアウェイのスタジアムに行くことになっていれば、彼は今ごろ身支度に追われていたでしょう。一般的に、先方から招待されない限り、マスコットがアウェイのスタジアムに赴くことはありません。チームの広報さんにお願いをして、友達を手紙やメールで試合に招待し、楽しい企画でお客さんを楽しませるマスコットがリーグジャパンにはいますし、 シャッチーも「ご招待」されたり、お返しに名古屋に友達を呼んだりしたことがありますが、ETUのパッカ君はそんなフレンドリーな性格ではありませんでした。 リーグ中断期間に行われたオールスターのマスコットミニゲームで、シャッチーはパッカ君の激しいチャージを受けて負傷退場しています。真剣勝負での出来事なので恨みはありませんが、後日ETUの広報部からシャッチーあてに、お見舞いの雷おこしが届いていました。クラブのスタッフはマスコットの行動を支えているだけではなく、必要であればさりげなくフォローを入れてくれているのです。 シャッチーが勝手な行動を取れば、クラブの大勢の人に迷惑がかかるのは分かっています。アウェイ遠征に着いて行きたいのならば、前もってスタッフに話して、スケジュールを調整してもらうべきだったことも。ですが彼が東京行きを思い立ったのは、試合のスターティングメンバーが発表された今日のことでした。 グランパレスの背番号一〇をつける川瀬選手が、明日のETU戦に出場するのです。ここ数年は途中出場が多く、ケガにも泣かされていた彼が選手入場し、キックオフの笛をピッチの上で聞く。シャッチーはその姿をTVの映像ではなく、間近で見たくてたまりません。 チームマスコットが、特定の選手を贔屓するなど決してあってはならないことですが、長い間チームで活躍して、ミスターとまで呼ばれるようになった選手に強い思い入れを抱くのは自然なことです。きっと他のチームのマスコットたちも、首を振ってくれることでしょう。 当面の問題は、シャッチーに東京までの移動手段と、公共交通機関のチケットを買うお金がないことです。グランパレスと同じ名古屋を本拠地にしているプロ野球チームでは、マスコットの年俸を現物支給しているそうですが、シャッチーはクラブとそういった契約を結んではいませんでした。ですが、急に物入りになった時のために、そしてシャッチーの働きを目に見える形で評価してもらうためにも、契約更改の席でフロントと話し合う必要があるのかもしれません。 今考えなければならないのは、年末ではなく明日のこと。シャッチーは再びチームバスに目を向けました。荷物に紛れて忍びこむことができれば、万が一、途中で見つかったとしても、置きざりにされる心配はありません。 スタッフの目をかいくぐってチームバスに潜入する方法を思案するシャッチーの頭の上に、濃い影が落ちてきました。練習着姿のペペがシャッチーを見下ろしています。手に提げたコンビニのナイロン袋の中で、菓子パンがいくつも揺れていました。 唇の前に指を立てる。シャッチーとペペの間に、そんな動作は必要ありませんでした。ペペは濃い色の瞳でシャッチーとチームバスを交互に見つめ、そして袋から取りだしたカレーパンを美味しそうに食べ始めたのです。 ペペを菓子パンで引き抜くことはできないかと議論しているインターネットの掲示板もあるぐらい、彼の菓子パン好きは日本のサッカーファンに知られています。あんパンとジャムパンを開発した東京のパン屋さんを教えるから、チームバスに忍びこむのを手伝って。地面に落ちるパン屑を眺めながら、シャッチーは心の中で願いました。 それはチームと選手へのシャッチーの強い思いが、種族や言葉の壁を越えた瞬間だったのかもしれません。最後の一口を飲みこんだペペの瞳に、ゴールを狙うかのような鋭い光が宿りました。心なしか表情も引き締まっているように見えます。大きく頷くと、ペペはシャッチーの体を抱えあげました。 外国人選手とマスコットの組み合わせは人目につくのではないかとシャッチーは心配しましたが、ペペは相手DFの裏に抜けるような動きでチームバスまでたどり着きました。バストランクと呼ばれる荷物を入れる部分は開いており、バッグやクーラーボックスがいくつも積みこまれています。その一つを引き寄せてペペは勢いよくファスナーを開けました。 遠征に行くとは思えないほどそのバッグは荷物が少なく、その分スペースにゆとりがありました。忘れ物にでも気づかない限り、スタッフがバスに乗せた荷物を改めることはないでしょう。 シャッチーの意志を確かめるかのように、ペペが鋭い眼差しを向けました。大きな体には窮屈なバッグの中で、東京までの長い時間を過ごすことになるのは覚悟の上です。大きな目に満ちた決意を感じ取ったのか、ペペは無言で頷き、シャッチーをバッグに匿ったのでした。 ファスナーが開いた瞬間、シャッチーは蛍光灯の光と湿った空気を体で受け止めました。東京は雨が降っています。ペペの両隣にはゼウベルトとカルロスが立っていて、笑みを浮かべながら会話をしていました。 「さあ、行こう」 シャッチーにポルトガル語は分かりません。しかし、ゼウベルトの表情と伸ばされた腕から、彼の意図は伝わりました。三人はシャッチーをピッチまで誘ってくれているのです。 隅田川スタジアムに訪れた全ての人に、シャッチーここにありと示すため、彼はその身をゼウベルトに委ねたのでした。 |