夏木陽太郎の憂鬱


 いいお父さんだと思う選手ナンバーワン。
 それはシーズン開幕前にETUの携帯公式サイトのアンケートで、松原コーチとの激しい接戦に勝利したチーム得点王、夏木陽太郎に与えられた称号である。家族という存在の大きさを、彼は繰り返しメディアに語っていたし、練習場や隅田川スタジアムで彼の妻子を見かけた者も、ETUのサポーターには少なくはなかった。
 時間があれば夏木はチームメイトやコーチと育児談義に花を咲かせ、毎年、年賀状という名の娘の成長記録を学生時代の友人や親戚に送りつける。ピッチを飛び交うボールのように、子煩悩と親バカのあいだを行き来している男の溢れんばかりの愛情を受けて、夏木家の一人娘は健やかに育っていた。
「今日もそれか。よし、何でも聞いてくれ」
 子どもは気に入った遊びを繰り返すものだが、娘の相手をする夏木の辞書に「飽きる」という言葉はない。近ごろの彼女のお気に入りは、コンパクトデジカメと落書き帳を使った「広報さんごっこ」だ。ETUのクラブハウスで相手をしてくれたお姉さんが、強く印象に残っているらしい。
 クレヨンでメモを取り、デジカメのシャッターを押す娘の姿は、幼いながら様になっていると夏木は思う。だが、自宅では取材相手が夏木一人に限られてしまうのが、彼女には物足りないようだ。娘の友達は皆、フットボールクラブの広報というものを知らないので、数ある「ごっこ遊び」のラインナップには入らない。
「今度、クラブハウスに行こう! たくさん取材ができるぞ!」
 夏木の提案に、娘は大喜びしたし、娘に一眼レフのデジタルカメラを買い与えることに反対した妻も、異議を唱えはしなかった。さらに彼女が、夫が子守をしているあいだに買い物を済ませたいと希望を口にしたことで、次の日曜日の夏木家の予定は決まった。
「夏木さん、今日は娘さんと一緒なんですね。こんにちは」
 視線を合わせて声をかけてくれた有里に、夏木の娘は元気いっぱいに返事をした。赤いポシェットを開け、デジカメを取り出しながらクラブハウスを訪れた目的を告げると、有里は驚いたように目を見開き、続いて優しげな笑みを浮かべた。
「そうなんだ。今なら、トレーニングルームに村越さんがいるわよ。他にも誰か来てると思うから、がんばって取材してね。……せっかくだから、椿君に来てもらおうかな。取材の練習にもなるだろうし」
 有里は勤勉な広報だが、目についたものをすぐにクラブの企画や仕事に結びつけてしまう癖がある。しゃがみこんだまま腕を組んだ彼女を、夏木の娘が不思議そうに見つめていた。
「お前、何で廊下の真ん中に座ってんの」
「有里ちゃん、もしかして具合でも悪いのか?」
 事務室から後藤が、監督室から達海が、ほぼ同時に姿を現した。監督とGMに、夏木は頭を下げる。廊下に響く大声に、思案の只中にあった有里が顔を上げた。
「あ、あのね。今、思いついた企画があるんだけど」
 勢いよく立ち上がった有里の瞳が輝いている。気圧されるように、後藤はわずかに体を引いたが、彼女の言葉に耳を傾ける表情は真剣なものだった。
「ETUを応援してくれている子は、サッカーだけじゃなくて、クラブの、他の色々なことにも興味があると思うんだよね。今もこうして、取材に来てくれてるんだし。 そういう子に、実際にスタッフの仕事をやってもらうの。名付けて、クラブスタッフ一日体験ツアー!」
「確かに、最近は学校の授業で職場実習を取り入れてるらしいな。ウチで受け入れられる人数は限られるだろうけど、いいアイデアだと思う。有里ちゃん、企画書まとめてくれる?」
「やった! がんばっていいもの作るからね!」
 力強い声と満面の笑みに、後藤が向けた表情は優しい。そこに達海が、気の抜けた声を投げかけた。
「なぁ有里。今から昼メシとアイス買ってきて」
 仕事に取り掛かろうとした途端に水を差され、一瞬にして有里の眉が吊り上がった。雷を予測して、夏木は娘を庇いながら静かに後退する。
「自分で行きなさいよ、そんなの」
「俺、忙しいもーん」
「私にだって仕事があるわよ! 今の話、聞いてたでしょう?」
 いつの間にか、夏木の掌が汗で湿っていた。無意識のうちに助けを求めていたのか、不穏な空気のなかに後藤が割って入る。
「有里ちゃん、今日はずっと事務所で仕事してただろう。気分転換に外に出てきたらどうだ? そのついでに」
 言いながら後藤は腰を屈め、夏木の娘と視線を合わせた。
「何か、お菓子を買ってきてくれるかな? 何が食べたい?」
「アイス! ドーナツ!」
「両方はダメだぞ。どっちか一つだけだ。後藤さんすみません、ありがとうございます!」
 夏木の娘と達海を交互に見比べ、軽く肩をすくめてから、有里は後藤から千円札を受け取った。上着を取りに事務室に戻った彼女に、達海がしてやったりと言いたげな笑みを向けたが、夏木は見なかったふりをした。
「お姉ちゃんがおやつ買って来てくれるまでのあいだ、クラブハウスを探検しておいで。お父さんとはぐれないようにね」
 後藤に頭を撫でられて、夏木の娘ははにかむような笑顔で頷いた。二人の上司は近寄りがたいわけではないが、気安く立ち話ができる間柄でもない。繰り返し礼を述べながら、夏木は娘の手を引いてロッカールームに向かった。
「ラブラブ?」
 娘の短い問いかけが夏木に与えたのは、新婚生活の甘い思い出などではなく、強烈なシュートを体で受け止めたかのような重たい衝撃であった。
「あれが!? あれがラブラブ!? どっちとだ? っていうか、そんな言葉どこで覚えてきたんだ!!」
 考え込むように、そしてはぐらかすかのように、娘は笑顔で首を傾げる。小さな両肩に手を置きながら、夏木は騒ぎに気付いた村越が顔を出すまで、喚き散らしていたのだった。



 激しい水音と、その間から漏れる達海の呻き声を、夏木は青ざめた顔で聞いている。彼の側では、世良と清川が恐ろしいものを目にしたかのように立ちつくしていた。
 水を張った洗面台に、有里が達海の顔を押し付けていた。溺死という単語が、夏木の頭をよぎる。ペットボトルで揺れる液体は、使い方次第で人の呼吸を奪うことができるのだ。
 数人の選手とコーチが固唾を呑んで見守るなか、やがて有里は達海の顔を引き起こしてタオルで拭った。優しい「お姉ちゃん」の乱暴な言動を、娘が目にすることがないように、そして決して真似ることがないようにと、夏木はひととき試合を忘れ、心の奥底から願った。


 自身の娘を溺愛しながらも、その成長に頭を悩ませる夏木さんを、
「娘」である有里ちゃんの行動を絡めて描きました。
 山形戦ハーフタイム中の娘さんの行動を知れば、遠征に同行している
永田会長がショックを受けそうですね。

GIANT KILLINGのコーナーに戻る