ニシンの甘酢漬けをフォークで突き刺しながら、有里は彼女が幼いころから繰り返しテレビで放送されているアニメ映画のタイトルを口に出した。 「ニシンのパイが嫌いな子がいたでしょう。好き嫌いは良くないけど、嫌いな食べ物を、よりによって誕生日に送りつけられるのって、困るよね」 「俺にはニシンのパイの味が想像できないよ。大体、魚のパイそのものが、日本人には馴染みが薄いだろう」 後藤の言葉に有里は頷きを返した。ETUのスポンサーであるサークルドーナツは、主力メニューであるドーナツの他にもパイやマフィンの販売を行っているが、魚を使ったパイは扱っていない。ホワイトソースと小エビのパイは美味しかったが、口の中を火傷しそうになったものだ。 「確かに、日本だとアップルパイとかパンプキンパイとかのお菓子系のパイが多いし、ニシン自体、私の家ではほとんど食べないな……」 有里の頭に浮かんだのは、ニシンの卵であるカズノコだった。正月に食べる縁起物だが、逆に言えば普段の食卓には並ばないということでもある。 「東京だとそうかもしれないね。京都だと年越しそばの具になるし、おばんざいにも使われてるんだけど」 「京都? ニシンって海の魚でしょう?」 京都と海を有里が頭の中で海を結びつけるには、寺社仏閣と土産物屋が並ぶ市内の印象が強すぎた。首を傾げる彼女に、後藤は穏やかな眼差しを向ける。 「海の魚だからだよ。昔の京都では、ニシンやタラといえば干物が基本だったんだ」 貴重なタンパク源を美味しく食べるために、京都の人々が知恵と工夫を凝らした結果、明治時代に売り出されたのがニシン蕎麦だ。大晦日に限らず、京都市内の飲食店では一年を通じて取り扱っている。 「ニシンの甘露煮は日持ちするからね。京都駅の土産物屋にも置いてあるんじゃないかな」 出会ったばかりのころと変わらない、物知りな大人の顔で後藤は説明を終えた。だが、そんな彼にも分からないことやできないことは当然、存在する。その一つが英会話で、後藤はイングランドに赴くにあたり、通訳として有里を同行させていたのだった。 「後藤さんがそんなこと言うから、インスタントじゃないお蕎麦が食べたくなってきたよ」 「何か、ごめんな……」 「それに京都のおばんざいって、お惣菜のことでしょう。絶対、白いご飯に合うんだろうなあ……」 思わず有里は息を吐いていた。故郷の味を求めるかのように、胃が小さく音を立てる。 「俺も白い飯が恋しいよ。こっちの料理は、何だか油が多い気がする」 胃の上を押さえ、後藤が疲れたように微笑む。最近の彼の食事量が減っている原因が料理だけではないことを、有里は知っていた。 「だったら、早く仕事を切り上げて日本に帰ろうよ。私と後藤さんが頑張れば、この国での用事なんてすぐに終わっちゃうんだからさ」 正直なところ、有里は後藤の目的が果たせるとは思っていなかった。ETUの新監督候補と交渉を行おうにも、後藤が推す人物は具体的な居場所も連絡先も分からないのである。 とはいえ、有里は仕事に手を抜く気など微塵もない。彼女を通訳として必要としてくれた後藤に応えたかったし、わずかでも可能性があるのならば、時間の許す限りそれを追い求めたかった。 運と縁が味方したというべきか、有里と後藤は無事に目的の人物との再会を果たし、ETUの新監督を連れて帰国の途に就いた。 指導者に転身したものの、達海猛は有里の記憶とあまり変わっていなかった。サッカーと勝負事に関しては、それは喜ばしいことなのだろう。だが、味覚までもが一〇年前のままだったことには、呆れるより他になかった。 「もっと野菜と魚を食べろ。好きな物ばかり食べてるんじゃない」 クラブハウスで寝起きしている達海の食生活は、ETUのフロント陣にほぼ筒抜けである。危機感を覚えたのか、後藤の行動は早かった。 食事のメニューと栄養のバランスについて監督に苦言を呈するGMなどというものは、世界中のフットボールクラブを探しても後藤だけだと思いながら、有里は懐かしささえ感じさせる説教に耳を傾けていた。 選手のオフの日に、スタッフが出入りする事務室で達海に言い聞かせているのは、後藤の配慮だろう。達海の食生活は、買い出しや出前の注文を押しつけられる有里にとっても他人事ではなかったし、監督の我儘でスケジュールを台無しにされる身としては、文句の一つも言ってやりたくなる。 「お前は昔から、何食っても太らなかったけど、油断してると大変な事になるぞ」 スパイクを脱ぎ、運動量と筋肉が落ちたにもかかわらず、達海の体に贅肉はついていなかった。菓子やケーキに日本人の想像を超えるほどの糖分と脂肪分が盛りこまれているアフタヌーンティーの国で一〇年も過ごしながら、体重が変わらなかったというのは、年頃の女性には羨ましい限りである。 「あんな生活の割に、お前は本当に肌が荒れないんだな。化粧品なんかも使ってないのに」 後藤の声に羨望が滲んでいた。彼は前夜の睡眠時間が顔に出るし、有里も睡眠不足や食生活の乱れが肌に現れるタイプだ。だが不規則な生活を送っているにも関わらず、達海は吹き出物にも隈にも縁がないのだった。 「敵だ。ここに女の敵がいる」 「敵? なんで?」 有里の声と視線を受けて、達海が顔をしかめた。対戦相手を騙し、時には罠にかけるのが彼の仕事だが、女性にそんな真似を働いた経験はないらしい。 「有里ちゃん。その言い方は誤解を招くよ」 「俺はちゃんと食ってるからいいじゃんか。食わないほうが、もっと体に悪いだろ。頭も働かないしさ」 達海の視線が、クラブハウスで倒れた過去に突き刺さり、思わず有里は言い返していた。 「最近はきちんと食べてるわよ!」 口を尖らせた有里に、後藤が視線を向けた。困ったような表情には、しかし強い意思が宿っている。 「二人とも大人なんだから。栄養のバランスを考えて、一日三食しっかり食べること。睡眠も大事。分かった?」 ETUが、満足な食事も与えずに監督やスタッフをこき使うクラブだと誤解されては困る。後藤の言葉を聞きながら、有里と達海は視線を交わし合った。 「そういうことなら」 「後藤も人のこと言えないよなぁ」 二対一の力関係が一瞬にして一対二に変わるのが、三人というものだ。してやったりと笑う達海の側で、後藤は顔をしかめるのだった。 「おはよう、後藤さん。……何それ?」 通勤してきた後藤の手には、白いビニール袋が提げられていた。 「いや、たいした物じゃないよ」 袋を慎重に事務机に置き、後藤は蓋の付いた正方形のプラスチック容器を取りだした。具材までは分からないが、中に詰めこまれているのは煮物のようだった。 「全体的に黒っぽいけど、何が入ってるの?」 「ニシンと茄子だよ。関西で言うところの『炊いたん』だ」 「もしかして、これが京都のおばんざい?」 物珍しげに容器に顔を近づける有里の隣で、後藤は首を振った。間違いなく彼の手による一品だろう。 「昨日、おかずを作り置きしたのはいいんだけど、冷蔵庫に入りきらなくてね。せっかくだから、達海に食べさせようと思ったんだ」 GMにとって、監督のサポートは重要な仕事の一つだが、手料理を食べさせるのは明らかにその範囲を越えている。また、お子様味覚の持ち主である達海が、喜んで煮物に箸をつけるとは有里には思えなかった。 「達海さん、遠征先のホテルで嫌いなおかずが出ると、こっそり松原コーチに押しつけてるんだよね。……これ、食べてくれるかな?」 「俺もそれが心配だよ。だから有里ちゃん、お昼に味見してくれないか?」 思わず有里は、容器と後藤の顔を交互に見比べた。行動が分かりやすかったのか、手作りおばんざいへの興味を完全に見透かされている。 「いいの? 食べたい!」 食べ物に釣られるほど幼くはないはずだが、有里は午前中の仕事を予定よりも早く切り上げていた。 事務室の一角に出汁の香りが漂う。給湯室の電子レンジは古く小さいが、加熱機能に問題はないのでクラブスタッフには重宝されていた。 「いただきます」 「熱いから気をつけてくれよ」 取り分けた煮物に箸を伸ばし、有里は出勤前にコンビニで冷たいおにぎりを買ったことを心から後悔した。温かい煮物のお供には、やはり炊き立ての米が相応しいと思う。 出汁が染みこんで柔らかくなった茄子とは対照的に、ニシンには噛み応えがあった。魚特有の臭みが気にならないのは、刻みショウガのおかげだろう。有里は箸と口を交互に動かし、後藤の手料理を味わった。 「茄子、柔らかすぎないかな?」 煮物の出来栄えに満足していないのか、後藤がわずかに首を傾げた。 「これぐらいでいいと思うけど。ニシンは米のとぎ汁で戻したの?」 「ソフトニシンを使ったから、そんなに手間はかけてないよ。それで、味の感想を聞いてもいいかな?」 「おいしいわよ。ニシンは小骨まで食べられるし、茄子の中まで味がしみこんでる。でも」 後藤のわずかに眉が動き、有里に言葉の続きを促した。 「おばんざいって、元はと言えば夜に食べるものでしょう。後はお風呂に入って寝るだけって状態で食べた方が良かったのかな。気が緩んで、何だかほっこりしてる」 猫のように目を細め、有里は満足げに息を吐いた。ワーカーホリックと揶揄される彼女でなければ、理由をつけて午後の仕事を放り出していたかもしれない。 「こういう優しい味の料理が作れる後藤さんってすごいよね。ごちそうさまでした」 「おだてても何もでないけどね。お粗末様でした」 昼食を終えると、後藤は片づけを買って出ようとした有里を制して給湯室に歩いて行った。 世間には休日に料理を作ったものの、家計を考えずに高級食材を使い、片づけを当然のように妻に押しつける男性が存在するが、彼らと比較するのは、後藤にとって失礼だ。時間の余裕があれば職場の掃除や備品の修繕を率先して行う人だ。独り暮らしの経験も長く、家事のスキルは間違いなく有里よりも高い。 だから、彼は独身なのだ。 湯呑を両手で持ち、有里は大きなため息をついた。夫婦が家事や育児を分担するのが当然になりつつある現代社会において、料理が出来る結婚相手を求める女性は珍しくはない。だが皮肉にも後藤の場合、出来過ぎることが問題なのだった。 「嫁さんをもらえば、あいつもしっかりするだろう」 守るべき家族を持つことで、男には責任感が芽生えると父親や叔父は考えているようだが、後藤には当てはまらないと有里は思う。彼女と出会った時、彼は既に常識と分別を備えた立派な大人だった。結婚は人間の成長の絶対的な条件ではないのである。 支えてくれる人間がいなくても後藤は一人で生きていけるし、仕事も家事も人並み以上にこなせる。そんな彼と釣りあう相手を見つけるのは、イングランドでの達海捜索よりも有里には難しく思えるのだった。 「後藤さんは」 後藤が給湯室から戻ってきた。有里が呼びかけに、足の動きが少しばかり早まる。 「結婚したら、奥さんに専業主婦でいて欲しい? それとも、働いてもらいたい?」 「相手もいないのに、急にそんなこと聞かれても分からないよ」 言葉とは裏腹に、肩をすくめる後藤の表情は落ち着きが残っていた。 「有里ちゃんは、結婚しても仕事を続けるつもりだろうけれども、将来、何がどうなるのかは分からない。それと同じだよ。でも」 考える素振りを見せた後藤に、有里は視線で言葉の続きを促した。 「俺はいつクビになるか分からないような身の上だから、結婚相手は仕事を持っている人の方がいいのかもしれないな」 GMに就任して三年目の後藤にとって、今シーズンは進退がかかっていた。達海に率いられたチームは確実に結果を出しているが、それは彼らの身の安泰を保証するものではない。責任を取るためにクラブを去る未来が、いつ後藤や達海に訪れても決して不思議ではないのがプロフットボールの世界である。 「大丈夫。万が一、後藤さんが路頭に迷った時は、私が面倒見るから!」 力強い有里の宣言に、後藤の顔から余裕が消えた。子どもを諭す大人の表情を作ろうとして失敗した顔は、わずかに赤い。 「気持ちはありがたいけど、犬や猫の世話するのとは全然違うよ。それに、有里ちゃんに養ってもらうなんて、 色々な人に申し訳なくてできないよ」 「もしもの話よ。後藤さんには小さいころからうんとお世話になってるから、困ったことがあったら力になりたいって思うのは当然じゃない」 包み込むような優しさと、ほんの少しの厳しさ。目標を実現させるチャンスと職場。数えきれないほどの多くのものを与えてくれた後藤に何を返せばいいのか、有里には未だに分からない。彼女の予想通りに、後藤は柔らかな表情で有里の申し出を受け流した。 「俺のことは心配しなくていいよ。ETUで長く仕事を続けられるようにするし、仮に何かあったとしても、生活には困らないように準備はしてあるから」 有里に英語の通訳を求めたように、プライベートでも弱さや欠点を見せれば、心を動かされる女性の一人や二人は現れたかもしれないのに、そんな駆け引きとは無縁なのが実に後藤らしい。冗談めかした表情で、有里は唇を尖らせた。 「残念。後藤さんにご飯作ってもらおうと思ってたのに、当てが外れちゃった。京都には衣笠丼っていう料理があるんでしょう?」 「言っておくけども、有里ちゃん。俺は京都で料理の修業をしてたんじゃなくて、サッカーをしてたんだからね。変に期待しないでくれよ」 呆れたような顔で後藤は肩をすくめた。 |